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亡国の騎士  作者: 黒夢


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騎士とドラゴン

深紅の巨大な影が大地を覆い、風が唸る。ドラゴンは、その巨大な顎が空を切る感触に、一瞬の戸惑いを覚えた。獲物であったはずの子供は、汚れた騎士の鎧の腕の中に抱きかかえられ、すでに安全な場所へ押しやられている。


トランスは、リーゼを胸に抱きながら、地面を転がって回避運動を終えた直後、全身の麻痺が完全に消え去ったことを確信した。


恐怖は消えていない。むしろ、過去のトラウマを呼び起こすドラゴンの威容は、彼の脊髄を凍らせるには十分すぎる。だが、その背後には、彼の恐怖を凌駕する絶対的な守護の衝動があった。


リーゼは、トランスの硬い胸板に顔を埋めながらも、彼の体温と、背中に羽織ったマントが放つ、穏やかな魔力の流れを感じていた。

リーゼの透き通るような翠色の瞳が、トランスの兜の隙間から覗く暗闇に向けられる。彼女は言葉を持たないが、その瞳には、トランスの決意を支え、共に戦うという強い意志が宿っていた。


「……う、う、あ……」


リーゼの喉から、か細い嗚咽が漏れる。それは、恐怖と献身が入り混じった、感情の極限状態だった。


次の瞬間、トランスは全身の魔力を一気に集中させた。リーゼの献身的な心と、トランスの守護の衝動が共鳴し、周囲の空気が震える。


トランスは、全身の錆びた鎧が軋むのも構わず、咆哮を上げた。それは、恐怖を押し殺し、守るべきものを断固として守り抜くという、魂の叫びだった。


「た、す、けて…… あ、な、た、を、まも、る」


リーゼが、途切れ途切れの片言を紡いだ。その声は、聞く者の本能を揺さぶり、畏怖と同時に、抗いがたい力強い希望を伝播させた。


この二人の決死の覚悟は、周囲に電撃のように伝わった。


数メートル離れた場所で、弓を構えながらも、巨竜の威圧感に足がすくんでいたトニーの体が、突如として熱を帯びた。


「おいおい、マジかよ、トランスの旦那……」


トニーは、己の軽薄な性格からは想像もつかないほどの純粋な勇気が、胸の奥底から湧き上がってくるのを感じた。それは、トランスの守護の衝動とリーゼの声がもたらした、一種の精神的な共鳴効果だった。


彼は、長距離火力を担う弓使いとして、トランスの背中を護るために、最も効率的な射線を探し始めた。


サラは、魔力制御補助用の銀細工のペンダントを強く握りしめた。彼女の全身は、制御しきれない魔力の奔流に晒され、皮膚が粟立っている。


「……全く、無謀すぎます、トランスさん!」


彼女は、不安と責任感からくる苛立ちを押し殺し、冷静に状況を分析しようと試みた。しかし、トランスとリーゼの放つ強い光は、彼女の心のコンプレックスを一時的に覆い隠すほどの力を持っていた。


「 私は、トランスさんが戦えるように、側面を援護します」


サラは、魔力暴走の危険を承知の上で、杖を構えた。彼女の魔力運用は不安定だが、トランスが命をかけて守ろうとしている子供たちを見捨てられるはずがなかった。


一方、帝国騎士ゴルドは、膝をついたまま、全身の麻痺が解けずにいた。彼の眼前には、巨大なドラゴンの鱗のテクスチャが、鮮明に焼き付いている。


「くそっ……馬鹿な、我が、この程度の威圧に……」


ゴルドは、自らの不甲斐なさに歯噛みした。騎士道と大義を掲げて生きてきた誇りが、今、目の前の圧倒的な暴力によって、粉々に砕かれようとしていた。


「終わりだ……すべて、終わるだろうが……」彼は諦念の声を漏らした。


ドラゴンの怒りの咆哮が響き渡る。ドラゴンは、ただの餌であるはずの人間が、自らの狩りを邪魔したことに激昂していた。


「グルルルアアア!」


深紅の巨体が、空中で体勢を整え、急降下した。その速度は凄まじく、風を切る音はまるで雷鳴のようだった。


トランスは、リーゼを背中にしっかりと固定し、その衝撃に備えた。


衝撃インパクト!」


トランスは、腰に携えた真紅の剣、『獣王の牙』のトリガーワードを唱えた。剣の切っ先から、森の主の突進のような不可視の衝撃波が放たれる。


しかし、それはドラゴンの強靭な鱗には、単なる小石を投げつけた程度の効果しかなかった。


ドラゴンは、トランスが回避行動に移るより早く、巨大な前足で地面を叩きつけた。爪ではなく、肉体そのものによる衝撃波。


トランスは這いつくばるようにして、ギリギリで直撃を回避した。地面が大きく陥没し、土砂が舞い上がる。


トランスはすぐに体勢を立て直し、剣を振り上げ、ドラゴンの腹部に斬りかかった。


キン、という甲高い音が響き、トランスの剣は弾かれた。獣王の牙は、オーガの角を補填材としているとはいえ、古代種の鱗の前では無力だった。


巨体による風圧が、トランスを吹き飛ばす。彼は瞬時に体を丸め、大地を転がった。全身を覆う錆びた鎧が、砂利や岩に削られていく。


「ぐっ……!」


腕に激痛が走る。剣は離さずに済んだが、有効打には程遠い。現実のドラゴンとの戦いは、彼の想像を遥かに超えて無情だった。


ドラゴンは、トランスを空から嬲るように、旋回を始めた。地面に降りて直接戦う必要はない。上空から弄ぶだけで、この汚れた騎士を仕留められると判断したのだ。


トランスは、荒い呼吸を繰り返しながら、膝をついた。背中のリーゼの重み、そしてマントの温かさだけが、彼を現実に繋ぎ止めている。


後方に退避していたシルヴィスが、トランスの圧倒的な不利を目の当たりにし、リリアに声をかけた。


「リリア、今ならまだ、子供たちを連れて逃げられるのでは……!」


シルヴィスは、冷静な判断を心がけた。一人でも多くの命を救うことが、騎士としての責務だと信じて。


リリアは、トランスの戦う姿から目を離さず、即座にその提案を否定した。


「無理ですね~、シルヴィス。あのドラゴンは、上空から全体を監視していますぅ。私たちに逃げる素振りが見えたら、トランスさんを放置して、即座に私たちを襲うでしょう〜」


リリアは、子供たちを背後に庇いながら、続けた。


「私たちは、あのトカゲの餌として、この都市の均衡のために、ここに集められたんですぅ。逃げようとする人間を、見逃すほど甘くはないですよぉ」


恐怖が、憎しみを上回っていた。歯向かう気力すら湧かない。


シルヴィスは、己の無力さを痛感し、再び剣を握りしめた。彼女の体が震える。


「我々は、ただ死を待つのみ、ということか……」


その時、リリアの服の裾が、小さな手に引っ張られた。


「リリアねぇ、騎士様を助けてあげて」


リリアは振り返った。避難させたはずの、まだ幼い男の子だった。彼の瞳には、恐怖よりも、トランスへの心配の色が濃く表れていた。


「シルねぇは、騎士様なんだよね? あの、ボロボロの騎士様みたいに、強いんでしょ?」


子供の無垢な問いかけは、リリアとシルヴィスの心臓を、鋭く貫いた。


リリアは、いつもの間延びした口調を忘れ、声が詰まった。


シルヴィスは言葉を失った。彼女は、王国の腐敗に失望し、正義への執着を一度折った騎士だ。しかし、目の前で地面を転がされながらも、リーゼを抱え、諦めずに戦い続けるトランスの姿は、彼女が理想とした「騎士」そのものだった。


その眼差しは、負ける気配を微塵も感じさせない。抱えられているリーゼもまた、翠色の瞳を閉じることなく、トランスの背中から空を見上げていた。


シルヴィスは、深く息を吐き出した。その呼吸には、長年押し殺してきた誇りと、後悔が混ざり合っていた。


「……リリア。どうせ、このまま逃げても、あのドラゴンに嬲り殺しにされるだけだ」


彼女の口調は、硬質で、揺るぎないものに変わっていた。


「ならば、私は騎士として戦って死にたい。トランス殿のように、信念を貫いて……不義を打ち砕くために、この剣を振るいたい」


リリアは、寂しげに微笑んだ。


「ふふ、そうですよねぇ。私は、国に喧嘩を売って、子供たちを逃がそうとした身ですぅ。今更、空飛ぶトカゲ一匹に怯えて、慈愛の心を捨てるわけにはいきませんよぉ」


彼女たちの瞳から、諦めの色は完全に消え去った。あるのは、トランスとリーゼから伝播した、不屈の戦う意志だけだった。


「さあ、シルヴィス。あの騎士様を助けてあげましょう。そして、この都市の、汚れた均衡を、私たちが壊してしまいましょうか」


リリアは、戦場へと一歩踏み出した。シルヴィスもまた、全身の鎧を軋ませながら、トランスの援護に向かうべく、剣を構え直した。


二人の女性の、騎士としての、そして母性としての決意は、荒れ狂う戦場に、新たな火種を投じた。

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