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亡国の騎士  作者: 黒夢


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獣人達との別れ

夜明け前の森の空気は清冽な水のように冷たく、獣人の集落を包む濃密な霧は、焚き火の煙と混じり合い、幻想的な光の柱を作り上げていた。


滞在の数日間は、トランス一行にとって、旅の厳しさを忘れさせる穏やかな時間だった。そこには、人族社会の冷たい視線も、魔物に対する根源的な恐怖も、一時的に影を潜めていた。


トニーは、集落の広場で、若者たちに弓の構えを熱心に教えていた。彼の軽薄な口調は、教えることへの純粋な情熱によってかき消され、真剣な狩人の顔を覗かせる。


「いいか、風を読め! 矢は、お前が引き絞った弓だけじゃなく、森の息吹で飛ぶんだ」


トニーのそばには、ベックが立っていた。ベックは、トニーの指導を黙って見守っているが、時折、実践的な助言を挟む。


「獲物を追うときは、飯を食う時と同じだ。不必要な音を立てるな。お前の足音は、まだ太すぎる」


ベックの言葉は厳しかったが、若者たちに対する眼差しには、長年の経験に裏打ちされた深い愛情が宿っていた。彼は、トランスの騎士としての正義を認めた今、集団の護衛役としての責務を全うすることに、静かな喜びを感じていた。


一方、ロブは集落の長屋で、ラオが用意した希少な鉱石や薬草を前に、獣人たちと熱心に交渉を続けていた。彼の柔らかな笑顔と、淀みない話術は、言葉の壁を越えて信頼を築き上げていく。彼にとって、商売は単なる利益追求ではなく、愛する家族を守り、彼らが胸を張って生きられる世界を築くための、静かな戦いだった。


そして、サラ。彼女は、初めこそもふもふに対する視線や行動に、獣人たちから警戒されていたが、その真面目さと、子供たちに向けられた慈愛の精神が、氷を溶かした。子供たちは、彼女の美しいブロンドの髪や水色の瞳を珍しがり、無邪気に戯れた。


彼女は、子供たちの頭を優しく撫でる。彼女の心は温かい交流の光に満たされていた。自分の欠点である魔力の制御不安定さに対するコンプレックスを、今は忘れることができるほどに。


人目につかない場所で、トランスは数人の重傷を負った獣人に、治癒魔法を施していた。


治癒の光は、まるで時間が逆行したかのように傷を閉じさせる。それは、教会の教えが説く「神の恩寵」とはかけ離れた、異質の輝きだった。


「……感謝する、騎士殿。お前は、人族でありながら、我らを見捨てないのだな」


深い傷を負っていた獣人が、かすれた声で言った。


トランスは、その感謝の言葉を、感情を排した声で受け止める。


「……責務だ」


彼の胸に空いた穴は、治癒魔法を使うたびに、わずかに疼いた。この力は、誰かの危機に際してのみ、彼の内に存在する正義感と共鳴して発動する。それは、彼が何者であったかを朧げに示唆する、光の残滓だった。


別れの朝は、すぐに訪れた。


集落の入り口には、ラオを筆頭に、村人たちが総出で集まっていた。彼らの瞳には、警戒の色ではなく、純粋な友情と感謝の念が宿っている。


「また、必ず来い」ラオが、重厚な声で言った。「お前は、我々が信じるに足る、真の騎士だ」


トランスは、兜の奥で深く頷いた。


「……あぁ。必ず」


その時、小柄な鳥人族のピピが、トニーの前にゆっくりと進み出た。彼女は、白い羽毛に包まれた小さな手を、トニーの前に差し出す。


そこには、彼女自身の淡い水色の羽を編み込んだ、簡素な腕輪があった。


「トニー。これ、を……。わたしのこと、忘れ、ないで。また、来て」


ピピの言葉は途切れ途切れだったが、そのサファイアブルーの瞳は、トニーへの強い意志を宿していた。


トニーは、一瞬、いつもの軽薄な笑みを忘れた。彼は、その羽飾りを震える手で受け取る。


「へへ、鳥頭がよく言うぜ。忘れっぽいのはお前だろ?」


そう軽口を叩きながらも、彼の琥珀色の瞳は、みるみるうちに潤んでいく。彼は、荒野で培った逞しさとは裏腹に、極めて感情豊かな青年だった。


その様子を見ていたロブが、トランスの耳元に、静かに囁いた。


「トランス殿、鳥人族の羽飾りは特別な意味があります。あれは、戦地に向かう恋人や、生涯を共にする相手にしか渡さない、最高の誓いの証ですな」


トランスは、ロブの言葉を聞き、静かにトニーを見つめた。トニーは、羽飾りを腕につけ、涙を拭いながら、力強くピピに言った。


「わかったぜ、ピピ。俺は外の世界を見てくる。そして、お前に、最高の土産話を持って帰る。それまで、達者でな」


トニーの決意は、彼の弓の弦のように張り詰めていた。


一行は、名残惜しむフェンとリル、そして集落の獣人たちに手を振られながら、馬車に乗り込んだ。彼らの姿が見えなくなるまで、獣人たちは、その場を離れなかった。


次の目的地、中継都市サザンイースへ。旅は再開された。


ロブの操る馬車は、森を抜け、緩やかな上り坂を川の上流へと向かって進んでいく。道中は魔物との遭遇もほとんどなく、旅は順調に進んでいた。


馬車の揺れに合わせて、トランスの背中でリーゼが静かに眠っている。彼女の顔以外を覆う慈悲のマントは、周囲から魔素を吸収し、リーゼの魔力を回復させている。トランスの背中は、リーゼにとって何よりも安全な揺りかごだった。


「次は、街ですよ、トランス殿」ロブが、穏やかに告げた。


サラが、すぐに反応した。


「サザンイースですね。帝国と王都の間にある、協力統治の都市。地理的にも非常に重要な場所です」


ロブは、サラの知識に感嘆の息を漏らす。


「流石はサラさん。その通りです。サザンイースは、両国の交易の中継点として栄えていますが、その近くには、古くからドラゴンの巣があると言われています」


「だからこそ、両国の騎士団が駐留しているのですね」サラが補足した。


ベックが、馬車の屋根から身を乗り出し、皮肉めいた笑みを浮かべた。


「ああ。だが、あれは名ばかりの騎士団だ。サザンイースは、王都や帝国で使い物にならなくなった騎士の、実質的な左遷先として有名でな。ろくな奴はいねえ」


トランスは、ベックの言葉を静かに受け止めた。彼は、騎士団という存在に、漠然とした警戒心を抱いていた。彼らが体現する「正義」が、獣人族を迫害する教会の教えと強く結びついていることを知っているからだ。


トランスは、背中のリーゼに手をやった。


「……サザンイースでは、リーゼに、ローブの状態を維持してもらう」


リーゼは、トランスの背中でわずかに身じろぎ、「あぅ!」と、元気な返事をした。


ロブは、トランスの慎重な姿勢を理解し、提案した。


「賢明な判断です。騎士団との無用な接触は避けるべきでしょう。それと、サザンイースには冒険者ギルドもあります。中立の組織で一つしかありませんから、道中で討伐した魔物の部位を提出し、資金に変えましょう」


「……理解した」トランスは簡潔に答えた。資金は、リーゼの安全を確保し、旅を続けるために不可欠だった。


トニーは、腕に着けたピピの羽飾りを撫でながら、目を輝かせた。


「街か! やっと外の世界だぜ! 騎士団なんて、俺っちの軽妙なジョークで煙に巻いてやるさ!」


ベックは、トニーの楽観主義に呆れつつも、その背中を叩いた。


「期待せず、頼りにしておくとするよ」


旅は、順調に進んだ。


やがて、遠くの地平線に、巨大な城壁の影が見えてきた。


サザンイース。


それは、文明と軍事力が交差する、巨大な中継都市だった。城壁は、人族の傲慢さと、魔物への恐怖を象徴するように、分厚く、空を遮るほどに高かった。

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