獣人との宴2
夜の帳は、深い群青のベルベットのように、獣人の集落を包み込んでいた。焚き火の炎は、その暗闇の中で生命の躍動を映し出し、パチパチという音と、獣人たちの朗らかな笑い声だけが、静謐な森に木霊していた。
トランスの前に座るラオは、豪快に酒を呷った。それは、獣人たちが独自に醸造した、度数の高い果実酒だ。対照的に、ロブは銀の杯に注がれた水を、まるで高級なワインのように優雅に傾けている。
「……あの時、私は本当に世間知らずでしたな」ロブは、焚き火の揺らめきを見つめながら、遠い過去を懐かしむように微笑んだ。
ロブは、トランスの問いかけに答える形で、ラオとの出会いを語り始めていた。
「王都での取引で、私は大きな失敗を犯し、命の危機に瀕するほどの深手を負いました。その時、私の命を救ってくれたのが、ララという獣人の女性でしてな」
ロブの指が、左手の薬指にある結婚指輪を優しく撫でる。
「助けられたというのに、私はひどく警戒していた。お前が人族の商人と知ってな。ララは、お前の傷を治すのに、どれほどの魔草を集めたか」ラオが、唸るような低い声で指摘した。彼の声には、当時の警戒心と、ロブに対する呆れが混じっている。
「ええ、全くその通りです。私は、人族社会に染まりすぎていた。獣人族は野蛮で、信用できないという、根拠のない先入観に囚われていたのです」ロブは、自嘲気味に肩をすくめた。「ララは、そんな私をただ優しく介抱してくれた。その献身的な心に触れ、私は恥じ入るばかりでした」
ラオは、ロブの言葉に特に反応せず、ただ黙って酒を一口飲む。彼の瞳の奥には、長年にわたる迫害と、それに対抗し続けてきた疲労の色が滲んでいた。
トランスは、その対照的な二人の会話を、寡黙に聞いていた。ロブの語る、純粋な愛と、それに対するラオの根強い警戒心。その間に挟まれた、深い溝。
(……温かい。だが、なぜか)
トランスの胸部に空いた穴の奥から、言いようのない空虚感が這い上がってくる。ロブが語る「家族」や「愛する者」の存在は、トランスの失われた記憶には一切存在しない。彼の脳裏に、かつて誰かが優しく微笑みかけてくれた断片的な光景が浮かんだ。
『……私たちで守りましょうーー』
その声を聞き取ろうと集中した瞬間、ズキン、と頭の奥が激しく脈打った。鋭い頭痛が、記憶の断片をかき消すかのように襲いかかる。
「……大丈夫か?」ラオが、トランスの微かな呻きを聞き逃さず、重厚な声で問いかけた。
トランスは、わずかに体を震わせながら、短く答えた。
「……問題ない。ただの、頭痛だ」
ロブは、彼が酒に手をつけていないことを知っているため、冗談めかして言った。「おや、トランス殿。もしかして、お酒に弱いんですかな?」
トランスは、その言葉を無視し、目の前に横たわる、残酷な現実について問うた。
「……なぜだ。なぜ、他種族は、これほどまでに疎まれている」
トランスの問いは、感情を排した冷静な声色であったが、その底には、抑えきれない怒りが含まれていた。
ラオは、酒杯を焚き火のそばの岩に置き、改めてトランスのくすんだ鎧を見つめた。
「人族曰く、我々は呪われた存在らしい」ラオの声には、諦念と、深い皮肉が込められていた。「強すぎる魔力や、野性的な力。それを恐れ、理解しようとしない者たちが、作り上げた虚言だ」
ロブは、静かに頷き、解説を付け加えた。
「主に、教会ですな。彼らは、神の教えという名目で、人族以外の存在を『魔の眷属』と定義し、差別意識を社会の深部にまで植え付けている。そうすることで、彼らの権威を絶対的なものにしようとしているのです」
トランスの全身を覆う古びた鎧が、わずかに軋む音を立てた。彼は、その理不尽な構造に、激しい憤りを感じていた。
「……下らない」
彼は、無意識のうちに右の拳を強く握りしめた。その怒りは、魔物に対する恐怖とは異なる、人間社会の病理に対する、純粋な正義感から来るものだった。
その時、再びトランスの脳裏に、あの女性の笑顔が鮮明にフラッシュバックした。
『大丈夫。貴方が、守りたいと思うものを守ればいいんですよ』
優しく、しかし確かな信念を持ったその言葉が、トランスの激しい感情を静める。彼は、ゆっくりと拳を緩めた。
「……そうか」
ラオは、トランスの感情の起伏を見て取り、彼の肩に、岩のような大きな手を置いた。
「お前のような存在がいるだけで、救われる同胞がいる。お前が、その古びた鎧を纏い続ける理由の一つは、そこにあるのかもしれんな」
ラオは、トランスに周囲を見るように促した。
集落の中心では、賑やかな宴が続いていた。
「見てみろ」
ラオの視線の先、普段は冷静沈着なサラが、獣人の子供たちに囲まれていた。彼女は、膝を突き、子供たちの頭を優しく撫でている。彼女の露出度の高いローブは、今は厚い外套で隠されており、その姿はまるで、慈愛に満ちた教師のようだった。彼女が時折見せる、世話焼きな姉のような笑顔が、子供たちの純粋な歓声を引き出している。
トニーは、少し離れた場所で、鳥人のピピたち若者に、弓の構え方や、獲物の追跡術について熱心に教えている。ピピは、トニーの教えを、一言一句逃すまいと、そのサファイアブルーの瞳を真剣に輝かせていた。
ベックは、集落の若者たち数人と、酒を酌み交わしている。口元には軽薄な笑みを浮かべているが、時折、若者たちに厳しい指導を投げかける「ベテラン冒険者」としての側面を垣間見せていた。
そして、リーゼ。
「……うー」
彼女の傍には、獣人の女性たちが集まり、彼女に果物や温かい毛皮を渡していた。リーゼは言葉を発せないが、その透き通るような翠色の瞳で、感謝の意を伝えている。女性たちは、その気高く優しい瞳に心を打たれ、彼女の金色の髪を慈しむように撫でていた。
この光景が、トランスの胸に、静かな波紋を広げた。
彼は、自分の胸に空いた穴を、無意識に手で覆った。
「……俺は、この穏やかな光景を、守れるだろうか」トランスの呟きは、焚き火の音に紛れてしまいそうなほど、か細かった。
ロブは、その問いを聞き逃さなかった。彼は、穏やかな笑顔でトランスに語りかけた。
「守れる、守れない、ではありませんよ、トランス殿。誰か一人が頑張る必要はない。皆で力を合わせればいいんです」
ラオもまた、力強く頷いた。
「そうだ。守り合えばいい。お前がその責務を果たすなら、俺たちも集落全体で、お前と仲間たちを守る。それが、人族に虐げられてきた我々の、誇りだ」
トランスは、ラオとロブの言葉を、深く胸に刻み込んだ。恐怖心に打ち勝つために感情を抑制していた彼の心に、わずかな温かみが戻ってくる。
「……あぁ、そうだな」
トランスは、初めて、自らの意思で、その古びた鎧を纏ったまま、賑やかな獣人たちの輪へと足を踏み出した。その足取りは、いつもの警戒心から来る硬直したものではなく、確かな信念に支えられた、力強い一歩だった。
集落の中心部では、宴が最高潮に達しようとしていた。
トランスはまず、リーゼを、優しく抱き直した。リーゼは、トランスの背中にしがみつき、安心したように「うぅ」と甘い声を出した。
子供たちが、トランスの周りに集まってきた。彼らは、トランスの巨大な鎧に興味津々だ。トランスは、子供たちに負ぶさるようにせがまれ、兜の奥で小さく息を吐いた。
「……仕方ない」
彼は、数人の小さな獣人の子供たちを、その頑健な背中に乗せた。リーゼは、子供たちに囲まれながらも、しっかりトランスに抱きついている。
サラが、トランスの姿を見て、思わず笑みを漏らした。
トランスは、サラの心配をよそに、子供たちを乗せたまま、ベックたちが集まる場所へと向かった。
ベックは、すでに獣人の若者たちと、腕相撲の真っ最中だった。彼は、獣人の力に敵わないものの健闘し、豪快な笑みを浮かべながら、トランスに話しかける。
「おい、トランスの旦那。お前もどうだ? その硬そうな鎧、飾りじゃねえだろう?」ベックが、挑戦的な笑みを浮かべた。
トランスは、子供たちを静かに降ろし、獣人達の前に立った。
「……受けて立つ」
その言葉に、周囲の獣人たちがどよめいた。全身を古びた鉄色の鎧で覆われた、記憶喪失の騎士。だが、その実力は、彼らがよく知っている。
腕相撲は、圧倒的な力でトランスの勝利に終わった。獣人たちの歓声が、再び夜空に響き渡る。
その勢いのまま、トランスは、トニーが挑戦してきた飲み比べにも応じた。トニーは、辺境育ちの強靭な胃袋を持つ。
「へへ、トランスの旦那! 肉体労働だけじゃねえぜ! 俺っちの酒の強さを見せてやる!」トニーは、自信満々に笑った。
トランスは、感情を排した目で、目の前の酒杯を見つめた。
「……構わん。来い」
トランスとトニーは、獣人たちの熱狂的な応援の中、次々と酒を呷っていった。フェンとリルは、トランスの側に立ち、興奮気味に応援している。一方、ピピは、トニーの隣に寄り添い、「トニー、頑張れ……。負けは、ダメ、だ」と、ゆっくりとした口調で応援の言葉を贈っていた。
トランスは、鎧により、食事も排泄も必要としない。アルコールは、彼の肉体には影響を与えないはずだった。しかし、トランスは、自らの人間性を希薄にしているその体質を、今はあえて無視した。
トニーは、彼の軽薄な外見とは裏腹に、驚くべき粘り強さを見せたが、やがて、顔を真っ赤にして、ぐらりとよろめいた。
「く、くそ……! トランスの、旦那……!」
トニーは、言い終わる前に、そのまま地面に崩れ落ちた。
大歓声が、集落全体を揺るがした。トランスは、その中心で、ただ静かに立っている。
その夜の宴は、トランスの新たな一歩を象徴するかのように、さらに盛り上がりを見せた。獣人たちは、トランスの強さと、その根底にある優しさを、心から受け入れたのだ。
やがて、夜が深まるにつれて、獣人たちは次々と酔い潰れ、焚き火の周りや、毛皮の上に横たわり始めた。賑やかだった喧騒は、徐々に静寂へと変わり、森の微かなざわめきだけが聞こえるようになる。
トランスは、焚き火のそばで、静かに座り直した。背中には、温かいリーゼの重みがある。
ロブは、すでに毛皮の上で眠りについている。ラオは、集落の長として、最後まで火の番をしていたが、やがて、安心しきったように、大きなため息をついて目を閉じた。
夜の闇は、もはや恐怖の象徴ではない。それは、集落全体を優しく包み込む、暖かな毛布のようだった。トランスの全身を覆う冷たい鉄の鎧の下で、記憶を失った騎士の心は、初めて、穏やかな温もりに満たされていた。
彼は、兜の奥で、静かに目を閉じた。
(……この、温もり。俺は、これを守る)
その決意は、彼の胸に空いた穴を、一瞬だけ光で満たした。それは、彼が何者であるかを知るよりも前に、彼が選んだ、歩むべき道だった。
穏やかな夜が、静かに更けていった。




