獣人の村への帰還
仕事の関係上更新が少し遅れます。
鬱蒼とした木々が月光を遮り、周囲は濃い影に包まれている。
「さあ、急ごう」
フェンはそう言うと、口元に手を当てて、特殊な周波数の口笛を短く吹いた。
一瞬の静寂の後、頭上の枝葉が微かに揺れ、音もなく一匹の小柄な猫の獣人が地面に降り立った。全身が黒い毛皮に覆われたその斥候は、月光を反射する真円の瞳をトランスたちに向け、静かに耳を動かしている。
「先に戻って、リルが無事に戻ったことを伝えておいてもらえる? そして、俺たちが今から村に戻るってことも」フェンが指示すると、猫の獣人は短く「ニャア」と鳴き、再び闇の中へ、文字通り気配を完全に消して溶け込んでいった。
「……見事な斥候術だ」トランスは、思わず感嘆の言葉を漏らした。感情を排した彼の声には、珍しく純粋な技術への敬意が滲んでいた。
ベックは、不精ヒゲの下でニヤリと笑った。
「あの猫っころ、俺の隠密術といい勝負だ。全く、獣人どもは本能の使い方が上手すぎる。騎士の旦那が感心するのも無理はねえ」
その時、サラが、猫の獣人が消えた方向をじっと見つめながら、キラキラと瞳を輝かせた。彼女の普段の理知的で冷静な態度はどこへやら、微かな興奮を隠せない様子だ。
「猫耳……。あの繊細な動き、魔素を感知する効率性。それに、あのフワフワ感……ああ、私、生で見たのは初めてです」
そんなサラの尋常ではない執着に、リルが不思議そうに首を傾げた。
「サラさん、どうしたの? 耳が、そんなに珍しい?」
リルは、無意識にトランスの陰に隠れると、サラに尋ねる。
その時、リーゼは、トランスの背中から手を伸ばし、リルの頭にある白い狼の耳に、そっと触れた。
リルは最初、わずかに身を竦めたが、リーゼの触れ方は優しく、何の害意もないのを感じ取り、安心したように目を閉じた。
「あ、リーゼちゃんは大丈夫なのね……」
サラは、その光景を見て、再び理性のタガが外れた。リーゼが触れるなら、自分も許されるのではないか、という論理の飛躍である。
「待ってくださいよ! リーゼちゃんがいいなら私だっていいじゃないですか!」サラは、リルに駆け寄ろうとした。「耳がだめなら尻尾でいいですよ? ちょっとだけ、先っちょだけですからー! 毛並みがどんな感触か、確かめたいんです!」
「なんだかわからないけど嫌なのー!」リルは悲鳴を上げ、二人はトランスの周りを駆け回った。
フェンは、頭を抱えてため息をついた。
「サラさん、やめてあげてくださいよ! リル、耳は敏感なんだから!」
トランスは、このカオスな状況を、全身の鎧を軋ませながら、ただ静かに見守っていた。彼の内なる恐怖や不安は、サラの奇行と獣人兄妹のやり取りによって、一時的に霧散していた。彼は兜の奥で、わずかに口角を上げかけたが、すぐにそれを抑制し、小さく咳払いをした。
「……進むぞ。時間を浪費している」
その言葉は、状況を収束させるための、必要最低限の事実の提示だった。
***
獣人の集落に帰還すると、緊張感に包まれていた村の空気が一変していた。村の中心では、数人の若い獣人たちが弓の稽古に励んでいる。そして、その指導に当たっているのは、なんと、ロブの護衛として同行していたはずのトニーだった。
トニーは、両手を広げ、得意げな顔で指導しているが、その教え方は極めて感覚的だった。
「しっかり狙えよー。あー、力みすぎ、肩の力を抜けって。いやいや、それはそれで射れないだろ! なんでそんな極端なんだよ!」
獣人たちは、困惑した顔でトニーを見つめている。
「力抜きながら入れるってどうゆーこと? 俺たち、そんな繊細なことわかんない!」
「なんで一か百かしかないんだよ! 適度にいれんだって! 適度! ほら、俺のこの美しい筋肉の動きを見ろ、こう……流れるように!」
トニーは自分の二の腕を誇示するように見せつけたが、獣人たちには全く伝わっていないようだった。
そんな光景を、集落の入り口で、ロブが満面の笑みで迎えてくれた。
「おかえりなさい、皆さん! 信じていましたよ。トランス殿、リーゼちゃんも無事で何よりですな」
そして、トランスたちが村に入ると、巨躯を持つ獅子の獣人、長であるラオが、威圧的な雰囲気はそのままに、一歩前に進み出た。
「トランス。そして、ベック、サラ。最初の非礼は詫びよう」
ラオは、その大きな頭を深く下げた。集落の長が、外部の人間にこれほど丁重に頭を下げるなど、前代未聞の出来事だろう。彼の厳格な性格と、過去の迫害の経験を考えれば、これは最大限の敬意の表れだった。
ベックは、その光景に目を丸くした。
「……おい、なんであいつ(トニー)が、あんなに馴染んでるんだ?」ベックは、トニーの弓の指導の様子を指さしながら、トランスに耳打ちした。
トランスは、目を細めてトニーの様子を観察したが、すぐに肩をすくめた。
「……知らん」
ロブは、ベックの疑問に答えるように、ひょうきんな笑顔を浮かべた。
「いやあ、トニー殿がね、私と別行動で狩りに同行した際、弓の腕を見せたんですな。彼の射術は正確無比。獣人たち、特に力の弱いものには感銘を与えたようでして」
ラオは頷き、重厚な声で説明を加えた。
「道具の使い方に疎かったから助かっている。彼は、狩りの効率を倍にした。感謝する」
ラオの言葉に、ベックは顎鬚を撫でながら、信じられない、といった表情を浮かべた。
「……まさか、あの能天気な優男が、村の危機を救うとはな。世の中、わからねえもんだ」
***
ラオは、弓の指導を続けるトニーを一瞥した後、フェンとリルの方へと視線を移した。
「リル、体調の方は大丈夫か?」
リルは、トランスの隣で、不安そうにしていた時とは打って変わって、大きな尻尾をブンブンと振りながら、元気いっぱいに返答した。
「問題ないよ! トランスさんたちが、助けてくれたの!」
「そうか」ラオは安心したように一度頷いたが、すぐに表情を引き締めた。「だが、フェン。リル。今回の失敗を肝に銘じるように。お前たちの軽率な行動が、集落全体を危険に晒すところだった」
「はい!」フェンとリルは、素直に頭を下げた。
「わかっているならいい。さあ、宴の席で、客人たちをもてなす準備をしろ」
「宴だー!」フェンとリルは、再び元気な笑顔を取り戻し、弾けるように集落の奥へと駆けて行った。彼らの後ろ姿からは、戦いの緊張も、捕縛の恐怖も、すでに消え去っていた。
***
ラオは、トランスたちに振り返った。
「宴までは時間がかかる。小屋で休むといい。疲れを癒せ」
彼らに割り当てられたのは、集落の奥、静かな場所にある、獣皮で覆われた大きなドーム型の小屋だった。
サラは、トニーがまだ弓の指導を続けているのを気にしていた。
「トニーさんに声かけなくていいのかな? さすがに、疲れているでしょうに」
ベックは、肩をすくめた。
「あいつはああいうのが好きなんじゃねえか? それに、指導に熱中している奴の邪魔をするのは無粋だ。放っておけ」
トランスも、静かに同意した。
「……同感だ。彼は、今、彼の責務を果たしている」
ロブは、彼らの会話を聞き、穏やかに微笑んだ。
「ご心配なく。頃合いを見て、私のほうから話をしておきます」
小屋の中に落ち着くと、リーゼはすぐにトランスの背中から滑り降り、用意されていた獣皮のベッドに横になった。彼女は、マントが常に呪いを反射するために魔力を消費し続けているため、常に睡魔に襲われている。
「うー……」と、小さく寝息を立て始めたリーゼの横で、サラは落ち着きなくそわそわしていた。
彼女の視線は、フェンとリルが駆けて行った方向を、まるで獲物を追う猛禽類のように追っていた。
「ああ、駄目だ。落ち着かない……」サラは両手をわきわきさせながら、自分のローブの袖を強く握りしめた。「せっかく、あんなに近くで、本物の獣人の耳と尻尾を見たのに……触れられなかったなんて!」
ベックは、そんなサラの様子を見て、軽くため息をついた。
「嬢ちゃん、諦めろ。あの兄妹は、お前のその目つきに怯えてるんだ。特に、尻尾の先っちょだけ、なんていう、変態染みた要求は、二度と口にするな」
「変態ではありません! 探求心ですよ!」サラは抗議したが、ベックは聞く耳を持たない。
トランスは、壁にもたれかかり、深いくすんだ色の兜の奥で、小さく、しかし明確に、溜息をつき、見なかったことにして目をつぶった。
それは、トランスが、自身の記憶喪失と、サラの制御不能な探求心から、一時的に逃避するための、彼なりの対処法だった。ベックは、そのトランスの反応を見て、思わず吹き出した。
「ハッ! 騎士の旦那も、たまには逃げることを覚えたか。賢明だ」
サラは、納得がいかない様子で、なおも「ちょっとだけいいんですけど……」と落ち着きがなかった。
その日の夜、獣人の集落は宴の準備で賑わいを見せていたが、トランスの休息の小屋だけは、静寂と、サラの抑えきれない探求心による微かな唸り声に包まれていた。




