交戦する鎧
トランスは、荒涼とした草原の境界線に立ち、重い足取りで踏み出した。彼の全身を覆うくすんだ鉄色の鎧が、夕暮れの残光を鈍く反射する。
眼前の敵は、オーク一匹とゴブリン二匹。先ほど、トランスの渾身の鎧の体当たりによって一体のゴブリンが地面に叩きつけられ、その首の骨を折られて絶命した。しかし、残る二体のゴブリンは、怯むどころか、獲物を狩る喜びを露わに、トランスを取り囲むように散開した。
「グアアッ!」
オークが唸り声を上げ、巨大な斧を肩に担ぎ、後方で指揮を執る構えを見せる。ゴブリンたちは、その号令に合わせて、一斉にトランスの死角を突くように動き出した。
トランスの体は、激しい恐怖に支配されていた。脳裏には、炎に包まれた故国の光景が焼き付いている。あの時と同じ、強烈な殺意の波動が、彼の全身の筋肉を硬直させようとする。
(動け。このままでは、あの子が逃げた方向へ、奴らが向かう)
彼は、恐怖を打ち消すために、無意識に感情を抑制した。兜の奥深くで、彼の視線は冷徹に敵の動きを追う。
左側から突進してきたゴブリンに対し、トランスは一歩も引かず、腰から抜いた短い剣を水平に薙いだ。刃こぼれした剣は、ゴブリンの脇腹を浅く切り裂く。だが、ゴブリンは怯まず、錆びた剣をトランスの胸に向かって突き出した。
「チッ――」
トランスは微かに舌打ちし、剣を弾く。しかし、その隙に右側から別のゴブリンが飛び込み、鈍器で彼の左肩を強打した。
ガァン!
重厚な衝撃音が、草原に響き渡る。鎧は割れなかったが、内部に伝わる振動が激しく、トランスは全身の骨が軋むのを感じた。既に体当たりで体力を大きく消耗していた彼にとって、この一撃は致命的な疲労を招いた。
(まずい。このままでは、連携を破れない)
トランスは、歯を食いしばり、呼吸を整える。胸に空いた穴から吹き込む冷たい風が、彼の疲弊した肺に突き刺さる。
彼は剣を地面に突き刺し、一瞬、両手を開放した。そして、猛然と後方へ飛び退くと同時に、地面に突き立てた剣を蹴り上げ、回転する剣をゴブリンの一体に目掛けて投擲した。
「グギャッ!」
剣は狙い通り、ゴブリンの膝を貫き、その動きを鈍らせる。
しかし、その間に、後方に控えていたオークが動いた。巨大な体躯が唸りを上げ、トランスに向かって一直線に突進してくる。オークの足音は、大地を揺るがす地響きだった。
トランスは、剣を失った今、防御に徹するしかない。彼は、胸の穴を隠すように、盾を持たない左腕を構えた。
「……来い」
感情を排した声が、兜の奥から漏れる。
オークが振り下ろす斧は、トランスの鎧の頭部を狙っていた。トランスは、全身の力を振り絞り、わずかに体勢を低くする。
ガキンッ!
斧は、トランスの右肩の装甲を直撃した。またも激しい衝撃が全身を貫き、視界が一瞬、白く霞む。トランスは膝から崩れ落ちそうになるが、鋼鉄の意志で踏みとどまった。
彼の頭の中は、今や、恐怖と痛覚で満たされている。だが、その混濁した意識の奥底で、トランスは翠色の瞳を思い出した。泥と血に塗れながら、彼に解毒草を差し出した、少女の献身的な姿。
(そうだ。俺は、責務を果たさねばならない)
彼は、再び立ち上がった。その動きは、もはや騎士の洗練された剣技ではない。ただ、重い鉄塊が、意思を持って動いているだけだ。
「……問題ない」
トランスは、血の味がする口の中で、そう呟いた。
「この鎧は、俺が脱ぐことを許さない。この責務を、完了するまで」
トランスは、残る二体のゴブリンと、目の前のオークを睨みつけた。助けが来るとは思っていない。だが、ここで一瞬でも時間を稼げば、少女への道は開かれる。それが、騎士トランスの、今、果たしうる唯一の正義だった。
彼は、残された魔力と体力をすべて使い果たす覚悟を決め、再び、血を吐くような雄叫びを上げるオークへと、重い一歩を踏み出した。




