獣人との邂逅
「ベック、警戒。トニー、周囲の確認を」
トランスは簡潔に指示を出し、草むらへと歩を進めた。そこには、まだ少年と呼べる年齢の獣人が倒れていた。狼のような耳と、ふさふさとした尻尾が、泥にまみれている。全身に酷い打撲と切り傷を負っているが、致命傷ではなさそうだ。
「……酷い傷だ。トランスの旦那、どうする?」ベックが短剣の柄に手をやりながら尋ねた。
「治療する」トランスは迷いなく答えた。
ロブが周囲を見回す。この辺りは人通りが少なく、街道からも死角になっている。
「人目はありませんな。トランスさん、お願いできますか? 」
ロブの言葉は、トランスの持つ極めて稀な治癒能力――まるで時間が逆行したかのような回復効果――が、教会や権力者にとって火種となり得ることを示唆していた。
トランスは頷き、傷ついた少年の身体にそっと触れた。
「治癒」
翠色の淡い光が、トランスの手から少年へと流れ込む。まるで幻影のように、切り傷や打撲の腫れがみるみるうちに消えていく。疲労や失血は回復しないが、皮膚組織は完全に修復された。
リーゼがトランスの背中で身動ぎ、小さな嗚咽を漏らした。トランスは無言で背中を叩く。
「完了した」
トランスは立ち上がった。
「馬車に乗せましょう。休息が必要です」サラがローブを翻し、テキパキと指示を出す。
トニーとベックが慎重に少年を運び、馬車の中に寝かせた。
ロブは街道を眺めながら、顔に深刻な影を落とした。
「嫌な感じですね。次の目的地は、友好的な獣人の集落だったんですよ」
「え? 獣人の集落?」サラが目を見開いた。
「ああ、知っていたさ」ベックは淡々と言った。「俺たちはロブの護衛だ。依頼主の目的地を知らねえわけにはいかねえ」
ロブは深く頷いた。「獣人は人族との関わりを嫌う者も多く、集落の場所を知っている者は少ない。……この少年が、集落の者であれば良いのですが」
サラは不安そうに少年の顔を覗き込んだ。
「まさか、この子が襲われたのは……」
「……その可能性が高い。目覚めるのを待つしかないな」トランスは短く締めくくった。
馬車は再び静かに動き出した。トランスは前衛に戻り、周囲の警戒を続ける。
数時間後、休憩のために馬車を停めた時だった。
「う……」
馬車の中から、弱々しい呻き声が聞こえた。
「目が覚めたのね。大丈夫ですか?」
少年はサラの膝に頭を乗せ、薄い水色のローブに包まれていることに気づき、わずかに安堵の表情を見せた。隣には、純白の慈悲のマントに身を包んだリーゼが、透き通った翠色の瞳で心配そうに彼を見つめている。
トランスは警戒のため、馬車の入り口に立っていた。
少年はトランスに気づいた。その瞬間に、彼の瞳の色が変わった。恐怖と怒りの入り混じった、獣特有の鋭い光。
「お前も奴らの仲間か! 妹を返せ!」
少年は回復したばかりの身体に鞭打ち、サラの膝から飛び出した。その勢いは、トランスの巨躯に比べれば取るに足らないはずだったが、その速度は驚異的だった。
トランスは反応しなかった。彼は、自分の胸に空いた穴を、そして魔物に対する根源的な恐怖を、常に己の内に抱え込んでいる。しかし、この少年が魔物ではないと理解していた。彼は、理不尽な暴力に直面した弱者だ。
トランスは無抵抗で、兜と剣を外した。
「トランスの旦那! 」ベックが叫び、トニーが弓を構えるのをやめ、少年に向かって突進した。
少年は、ベックとトニーを、その細身からは想像もできない膂力で弾き飛ばした。少年は獣人故の身体能力を、怒りのままに爆発させていた。
「うおおおお!」
拳が、トランスのくすんだ鉄色の胸板に、鈍い音を立ててめり込む。トランスは一歩も引かず、ただ少年を真っ直ぐ見つめていた。兜のないトランスの顔は、暗い影の中にあり、表情は読めない。
「妹を! 返せ! この、この……騎士モドキが!」
少年は無我夢中で殴り続けた。拳はトランスの硬い鎧に打ち付けられ、血が滲み始める。しかし、トランスは痛みを感じている様子すら見せない。
トランスは、少年が拳を振り上げた一瞬の隙を突き、優しく、しかし確実に、少年の血まみれの拳に触れた。
「治癒」
再び翠色の光が瞬き、少年の拳の傷が癒える。少年は、自分の拳の痛みが一瞬で消えたことに驚き、動きが止まった。
トランスは無言で、少年のもう一方の拳にも触れ、傷を癒した。
「や、やめろ……!」
少年は再び殴りかかろうとするが、トランスは無言でその攻撃を受け止め続ける。時折、「治癒」を施し、少年の拳の傷を癒す。
トランスにとって、この痛みは、自身の過去への贖罪であり、目の前の少年の感情を受け止めるための儀式だった。彼は無意識に感情を抑制する。
トランスは、無言で殴られ続けた。その姿は、まるで巨大な岩が、嵐に耐え忍んでいるかのようだった。
やがて、少年の激情は、疲労と絶望によって急速に冷めていった。拳の重さが次第に弱まり、最後の一撃は、トランスの鎧に触れることなく、宙を掻いた。
少年は、その場で泣き崩れた。
「う……うわぁぁぁぁぁん!」
嗚咽は、怒りから悲しみ、そして恐怖へと変わっていく。トランスは、その小さな体躯を優しく抱きしめた。
「もう、いい。大丈夫だ」
トランスの口から出た言葉は、極度に寡黙な彼にしては、驚くほど長く、温かいものだった。彼は、少年の背中を優しく叩き続けた。
しばらくして、少年は落ち着きを取り戻した。
サラがそっと近づき、優しく語りかけた。
「酷い目にあっていたんです。混乱していても仕方ありません。私たちは、あなたを助けたい」
少年は、トランスの腕の中から顔を上げ、涙と泥にまみれた顔で、震える声で自己紹介を始めた。
「僕の名前はフェン。見ての通り、狼の獣人です」
フェンは、トランスから離れ、サラとリーゼの顔を交互に見た後、再びトランスの顔を見つめた。
「僕たちは……妹と狩りをしている最中に、鎧を着た奴らに襲われました。僕が気を失っている間に、妹は連れていかれて……」
ロブが顎に手を当てて考え込む。
「鎧を着た者たち、ですか。それは……違法的な奴隷商かもしれませんな」
「奴隷商?」サラが衝撃を受けた。「何もしていない獣人を捕まえて奴隷にするんですか?」
サラはハーフである自身の立場と、魔力制御の困難さから、常に世間の偏見に敏感だった。
ロブは静かに頷いた。
「残念ながら、この世界では、獣人は魔物と同じだと考える人たちが、まだ多くいるんです。公的な奴隷制度は厳しい規制がありますが、違法な人攫いは、特に辺境の交易路では横行しています」
フェンは、不安に顔を歪ませた。
「妹は……無事なんでしょうか?」
ロブは目を伏せた。
「命は無事……だろうけどね。彼らは商品価値を最大限に保とうとする。しかし、その後の運命は……」
サラは強く拳を握った。
「酷すぎます。助けましょう! 私たちが必ず!」
背中でリーゼが、トランスの肩にしがみつき、小さな声で「た、す、けて……」と、覚醒時の一時的な片言を発した。その声は、微弱ながらも聞く者の魂を揺さぶる魔性の響きを持っていた。
ロブはフェンをまっすぐ見つめた。
「村へ案内していただけますか? 詳細な状況を把握したい」
フェンは力を込めて頷いた。
「はい。お願いします!」
ベックは短剣を鞘に戻しながら、いつもの軽薄な笑みを浮かべた。
「村人総出で、トランスの旦那が殴りかかられるわけにはいかないからな。案内役がいれば、話は早い」
トニーは、弓を背負い直しながら、目を輝かせた。
「へへ、どうやら、旅の目的が一つ増えたみたいだぜ! 奴隷商狩りたぁ、景気がいいじゃねぇか!」
トランスは、フェンの頭を優しく撫でると、再び前衛へと戻った。彼の胸の穴が、まるで新たな責務を飲み込むかのように、暗い影を深めていた。
「……行くぞ」




