星に願いを
アーシャ視点です
辺境の村は、いつしか「見捨てられた村」と呼ばれるようになっていた。
アーシャは、その呼び名を否定できなかった。なぜならそれは、自分たち自身が、この村と、この人生を、見捨ててきた証でもあったからだ。王都からの援助は途絶え、森の恵みは魔物の脅威に侵され、残ったのは、行き場を失った者たちだけ。彼らは互いに寄り添い、仕方なく家族の真似事をして生きている。そう、彼女は思っていた。
夕闇が、村の唯一の光源である焚き火の煙を薄く引き伸ばす。
ベックとトニーは、今日の調査の疲れを酒で流している。サラは、魔力放出の反動か、外套を深く被り、早々に休息に入った。いつものように、ロブだけが、この辺境の地の情報網を広げようと、村長相手に穏やかに交渉を続けている。
「……遅いね、全く」
アーシャは、右足の包帯を締め直し、森の入り口を見つめた。今日、トランスはウリを連れて、さらに遠方にある廃村の調査に向かっていた。
やがて、土を蹴る重厚な足音と、威圧的な唸り声が、暗闇を破って響く。
「ブモォォォ!」
新しい森の主となったウリは、以前の面影を残しながらも、その体躯は威厳に満ちていた。その背には、全身をくすんだ鉄色の聖鎧に覆われた騎士、トランスが静かに跨っている。
アーシャは駆け寄ろうとして、包帯を巻いた足がつまづき、思わずよろめいた。
ウリはすぐに気づき、アーシャの元へ駆け寄ると、優しく鼻先を彼女の頬に擦り付けた。その剛毛は熱を持ち、微かに土の匂いがする。
「ああ、おかえり、ウリ。無事でよかった」
アーシャはウリの首元にある、自分が結んでやった飾り紐に触れた。
以前のウリは、村人たちから恐れられ、遠巻きにされる存在だった。森の主の子供とはいえ、彼らはウリを危険な魔物として見ていた。しかし、トランスがウリを森の主として認め、その背に乗って魔物を討伐する姿を見せてから、村人たちの態度は一変した。彼らは今、ウリを「守護者」として見ている。
トランスのおかげだ。彼が来てから、この「見捨てられた村」に、初めて誇れるものができた。
ウリの背から静かに降り立ったトランスは、胸の穴が空いたままの古びた鎧を纏い、顔の影を深くしたままアーシャを見つめた。
「怪我は……まだ痛むか?」
彼の声は低く、感情を感じさせない。しかし、その短い問いかけの中に、アーシャは彼の純粋な気遣いを感じ取った。
「ああ、心配いらないよ、トランス。あんたのおかげで、もうほとんど痛みはないさね」
トランスは短く頷き、背で眠るリーゼの小さな体を気遣うように、そっと抱き直した。純白のマントが、夕闇の中で清らかに輝いている。
その時、一歩前に進み出たのは、ロブだった。彼はいつものように優雅に微笑んでいる。
「トランス殿、ご帰還お疲れ様です。さて、今後の予定ですが……」
ロブは、トランスの疲労を考慮しつつも、現実的な旅の計画を提案する。
トランスは、ロブとベックに視線を向け、簡潔に言った。
「……判断は、貴殿らに委ねる」
彼はただ、目の前の「責務」だけを淡々とこなす。
ロブは「承知いたしました」と深く一礼し、ベックとトニーと共に、地図を広げるために村長宅へと向かった。
トランスが旅立つ。その事実に、アーシャの心臓はきゅっと締め付けられた。
彼は、この村に長く留まる存在ではない。それは最初から理解していたはずなのに。
***
アーシャは、トランスが村に滞在している間、何かと理由をつけては村長宅を訪れていた。だが、トランスは一度も村長宅のベッドで休むことはなかった。
「村長、恩人を外に放り出してんだって?」
数日前、アーシャがそう尋ねると、村長は困ったように笑った。
「いや、騎士殿はな……一度、ベッドで休もうと試みられたんじゃが、その、寝返りを打った際に、ベッドが壊れてしもうてな。頑丈な丸太の椅子を外に用意したんじゃ。あの鎧は、脱げないようじゃし、仕方なかろう」
アーシャは思わず噴き出した。あの威厳に満ちた騎士が、寝相の悪さでベッドを破壊したとは。
今夜も、トランスは村の端、森に近い場所で、小さな火を焚いていた。周囲の喧騒から離れた、彼の「定位置」だ。
アーシャは意を決し、彼に近づいた。
「トランス」
火の粉が舞い上がる中、トランスは丸太の椅子に座り、ただ静かに炎を見つめていた。リーゼは、彼の膝の上で、マントに包まれて穏やかに眠っている。
「……アーシャか」
彼は振り向かない。その声は、いつも通り感情を排しているが、どこか深い孤独を宿しているようだった。
「あんた、明日出発するんだってね」
「そうなるだろう。ロブ殿とベック殿の判断に、異論はない」
「そうか……」
沈黙が降りた。アーシャは、何を話せばいいのか分からない。村の生活、魔物の話、全てが陳腐に思えた。
トランスは、突然、腰に下げた小さな革袋に手を伸ばした。
「村は……暖かい場所だ」
「え?」
アーシャは思わず聞き返した。暖かい? この、いつ襲われるかわからない、貧しく、他人同士の集まりの村が?
「何を言っているんだい。この村は、みんな、生きるために仕方なく集まってるだけさね」
トランスは、初めてアーシャの方を向いた。兜の奥、暗い影の中に隠された瞳が、わずかに光を帯びて揺らいでいるように見えた。
彼は革袋から、いくつかの品物を取り出した。
「これを見ろ」
それは、花で編まれた素朴な冠。隣の家に住む、昔気質の酒好きのおっさんが、宝物だと言っていたビンテージ物の酒のラベル。そして、村長が「妻の形見だ」と大切にしていた、狼の牙の首飾り。
どれも、トランスが魔物討伐や、廃村の埋葬を終えて戻るたびに、村人たちが彼に贈った品々だった。本人たちにとっては宝物でも、他人から見れば、単なるガラクタと言っても差し支えないような物ばかりだ。
「彼らは、これを私に贈った。彼らにとって、最も価値のあるものを」
トランスは、一つ一つの品を、まるで聖遺物のように静かに見つめた。
「貴殿は、この村を『仕方なく集まった場所』だと言う。だが、違う」
彼の言葉は、いつになく断定的で、重みがあった。
「彼らは、自分たちの最も大切なものを、私という『守り手』に託したのだ。それは、この村が、単なる集合体ではないことを示している。彼らは、お互いを『家族』だと理解している。だからこそ、その家族を守るために、彼らは私に、彼らの魂そのものを預けた」
アーシャは息を呑んだ。
彼女は、この村を「見捨てられた場所」だと、自嘲気味に捉えていた。自分とウリがいればそれでいい。他人は所詮他人。そう思っていた。
だが、トランスの言葉は、アーシャの村に対する見方を根底から覆した。
「ウリが、村人に受け入れられたのも、同じ理由だ。彼らは、ウリを『森の主』としてではなく、『家族を守る存在』として受け入れた。彼らの信念が、ウリの威容よりも勝った」
「不幸な行き違いだった最初の出来事だってそうだ。ただの村人が、巨大な獣に立ち向かうことなどなかなか出来はしない。家族が襲われたと思って、みんなで守ろうとしていたのだろう」
わたしは少し目頭が熱くなってしまった。みんながウリを攻撃したと聞いて、怒りすら感じていたのに……
トランスは、革袋に品々を戻し、静かに頭を下げた。
「ありがとう。守らせてくれて、感謝する」
「お礼を言うの……逆でしょ……あはは……」
アーシャは、乾いた笑いを漏らした。だが、すぐに視界が歪む。いつの間にか、頬に暖かいものが伝っていた。
目の前の騎士は、感謝を述べながらも、どこか消えてしまいそうな寂しい、それは、この世界に彼の居場所がないとでも言いたげな、孤独そのものだった。
アーシャは、衝動的にトランスに近づき、全身を覆う冷たい鎧に、自分の体を押し付けた。
「……っ」
冷たかった。鉄の塊だ。彼の体温は、鎧に吸い取られてしまっているように感じた。この冷たい鎧の下で、彼はどれほどの孤独に苛まれているのだろうか。
トランスは、驚いたように一瞬体が硬直したが、すぐに動かなくなった。
「風邪をひくぞ」
トランスが、短く忠告する。
アーシャは、子供扱いされているようで、思わず意地悪なことを言いたくなった。
「引いたら、治るまでいてくれる?」
上目遣いで見上げると、兜の奥のトランスは、困ったように言葉に詰まっている。彼は治癒魔法を使える。だが、彼女の問いは、彼をただの騎士としてではなく、一人の男として、この場に引き留めようとする、純粋で不器用な願いだった。
アーシャは、彼の戸惑う姿を見て、ふと笑みがこぼれた。
「冗談だよ」
そして、一瞬の隙を突いて、バイザーを引き上げると、アーシャは彼の唇に、そっと自分の唇を重ねた。冷たい金属と、微かな鉄の匂い。
「これで許してね。あたしの温もり、少しは届いたかい?」
アーシャは、それ以上何も言わず、トランスから離れた。顔が火照り、心臓が激しく脈打っている。逃げるように、彼女は焚き火から背を向けた。
振り返らず、アーシャは夜空を見上げた。
満天の星々が、村と森を冷たく照らしている。
(どうか、あたしの温もりが、あの冷たい鎧の奥まで届きますように)
アーシャはそう祈りながら、自分の人生を「見捨てられた人生」だとは思わなくなった。この村も、トランスの心も、決して見捨てられてはいないのだと、彼女は確信していた。彼女の心には、明日旅立つ騎士への寂しさと、彼に触れられた確かな温もりが、強く残っていた。
この辺境の村で、騎士トランスは、誰にも等しく優しい心を持つ、一人の女性の純粋な信念に触れた。彼の旅は、まだ始まったばかりだ。




