村への凱旋
夕闇が森の縁を深く染め上げる頃、辺境の村の入り口には、不安と期待がない交ぜになった村人たちが固唾を飲んで待機していた。
先頭に立っていたのは、右足に厳重な包帯を巻いたアーシャだった。彼女の瞳は、森の暗がりを射抜くように凝視している。
最初に姿を現したのは、トニーとベック、そして疲れ切った様子のサラだった。トニーは、緊張で張り詰めた空気を打ち破るように、大袈裟なジェスチャーで村人たちに叫んだ。
「へへ、心配すんなって! 俺っちがバッチリ大物を仕留めてきたぜ! これでもう、この辺の魔物どもはしばらく大人しくなるだろ!」
トニーの自慢げな声に、村人たちから安堵のざわめきが広がった。ベックはトニーの軽薄さに小さくため息をつきつつも、口元に微かな笑みを浮かべた。戦いが終わり、村の空気が緩んだことに安堵したのだ。
「全く、調子のいい奴め」とベックは小さく呟き、サラに視線を向けた。サラは薄い水色のローブを外套で隠すように纏い、血の匂いと魔力の消耗で顔色は優れなかったが、トランスの無事を確認できたことで、張り詰めていた緊張が解けたようだった。
サラは銀細工のペンダントを握りしめながら、無事に村に辿り着いたことに、静かに安堵の息を吐いた。
「トランスは? ウリはどこだ? 無事なのかい?」
アーシャはトニーの報告をほとんど聞いていなかった。彼女の関心は、自分の命を救ってくれた騎士と、森の奥へと消えたウリの安否に集中していた。
その問いに答えるように、森の奥から、地を這うような重低音が響いた。
「ブモォォォ……」
大地が微かに振動し、巨大な影が姿を現した。それは、以前の倍ほどに巨大化した、威厳に満ちた大猪、ウリだった。全身の剛毛は濃い茶と黒の威圧的な色合いに変わり、鋭く伸びた牙が夕陽を反射している。
アーシャは一瞬、畏怖で言葉を失った。しかし、ウリは彼女の元へ駆け寄ると、優しく鼻先を彼女の頬に擦り付けた。
そして、その巨大な背には、古びた鉄色の鎧を纏った騎士トランスが、まるで王座にでも座っているかのように悠然と跨っていた。トランスの胸の穴は相変わらず空虚だが、腰に帯びた剣は真紅に輝いていた。
トランスの背中には、純白の慈悲のマントに包まれたリーゼが、無邪気に手を振っている。
「きゅっ!」
ウリの背から手を振るリーゼの姿を見て、アーシャは一瞬、緊張していたことを忘れ、思わず噴き出した。
「あんたたち、一体、何だいその格好は! まるで、おとぎ話の英雄じゃないか!」
アーシャの笑い声が、村の緊張を完全に溶かした。子供たちは巨大なウリに群がり、トランスを囲んで歓声を上げた。
村長は震える声でトランスに近づき、深々と頭を下げた。
「騎士殿、このご恩は、子々孫々まで語り継ぎますじゃ……猪に乗った騎士の伝説として、必ずや」
トランスはウリの背から滑り降り、騒ぎの中心から一歩引いた。周囲の歓声や感謝の言葉は、まるで遠い世界のことのように聞こえる。彼の心には、騎士としての責務を果たした満足感よりも、次の行動への明確な意識だけがあった。
彼は村長に向き直り、感情を排した低い声で言った。
「……感謝は不要だ。村長、森の主を失った村の周辺地域は、魔物の活動が活発化している可能性がある」
ロブが、その言葉を待っていたかのように一歩前に出た。彼はいつもの柔和な笑みを浮かべているが、その瞳は真剣だった。
「その通りですな、村長。私の行商は、単なる物資の運搬だけではありません。辺境の流通の維持と、安全保障の調査も目的としております。騎士殿の提案は、我々の責務と完全に一致しています」
トランスはロブの言葉に感心しつつも、深くは尋ねない。商人の裏事情など、彼の知るべきことではない。彼の関心は、ただ「目の前の脅威を排除し、弱き者を守る」という、単純だが根源的な使命にあった。
「我々は、周辺の村を巡回する」トランスは断定した。「廃村、生存者、魔物の活動範囲。全てを把握する必要がある。村長、承知したな?」
「は、はい! もちろんじゃ! 我々の出来うる限り協力させていただきます!」
「おい、トランスの旦那。休まなくていいのか? 相当な消耗だろ」ベックが尋ねる。
「……問題ない。食事も睡眠も、今は必要としていない」
トランスの体は《古びた鎧》の持つ自動治癒と自浄作用により、生理的な回復を必要としない。しかし、それは同時に、彼が人間として休息を求める感情すらも押し殺していることの表れでもあった。
サラはトランスの横顔を見つめた。深い疲労を隠すように、彼は常に無表情だ。
「トランスさん……無理はしないでくださいね。いくら鎧が治癒してくれるとはいえ、精神的な消耗は別です」
「そうか。気遣い、感謝する」トランスは短く応じ、ウリの背に再び跨った。リーゼは既にトランスの背中にしっかりと固定され、静かに眠っている。
***
それからの数日間、一行はウリを先導に、周辺の村々を巡回した。
ウリの巨大な体躯と、トランスの古びた鎧は、辺境の荒野に異様な威圧感を与えた。彼らの旅は、単なる斥候ではなく、森の新しい主と、その背に乗る騎士による、領域の再定義の旅となった。
予想通り、森に近い村は魔物に襲われた形跡が色濃く残っていた。廃村の跡地には、オークやゴブリンに食い荒らされた遺体が散乱していた。
トランスは、その光景を目にするたびに、胸の奥で冷たい鉛が沈んでいくのを感じた。彼は言葉を発することなく、黙々と遺体を回収し、土を掘り、埋葬した。彼にとって、それは何よりも重要な「責務」だった。
「全く、トランスの旦那は。こんな仕事、普通はやりたがらねえぜ」
トニーが遠巻きに呟く。ベックはトニーの言葉を否定しなかったが、トランスの行動をじっと見ていた。
「彼は……不必要な感情を排除しているだけだ。だが、その行動は、誰よりも情に厚い」
トランスは、生存者を見つけると、ウリの守る森への移住を提案した。恐怖で怯える人々は、新しい森の主となったウリと、その背に乗る騎士の威容に、迷うことなく従った。
ある日、トランスが埋葬を終えた後、サラがそっと声をかけた。
「トランスさん。無理はしていませんか?」
サラはトランスの胸に空いた、致命的な穴を見つめた。そこは、彼の恐怖と弱さが存在する場所だ。
「この責務がある限り、俺は動ける。リーゼが、俺を繋ぎ止めている」
彼は魔物と対峙する際の強烈な恐怖を思い出した。あの時、身体が竦んだ瞬間、リーゼが飛び降りて、彼を戦いに導いた。守るべきものが明確になった瞬間、恐怖は一歩後退する。
トランスは静かに立ち上がり、ウリの背に再び跨った。
「行くぞ。次の村へ急ぐ。生存者がまだいるはずだ」
彼の視線は常に前だけを見据えていた。記憶は失われても、その魂に刻まれた騎士の責務だけが、彼を荒野に立たせ続けている。彼は、自分が何者であるかを知らない。だが、今、自分が何をすべきかは、明確に理解していた。彼の旅は、誰かを守り、誰かの信念に触れることで、自己を取り戻す、果てなき巡礼なのだから。
ボアナイト……突進時槍を持ったら強そう。




