銀級冒険者 ベック 2
辺境の森に、血と土と、そして新しい命の匂いが混ざり合った空気が漂っていた。
ベックは、己の腰に下げた短剣の柄を無意識に撫でた。太陽はまだ西の空高くにあったが、森の樹冠は光を遮り、一行の足取りは影の中を進む。背後には、彼らが打ち倒したオーガの巨大な躯体と、森の主の残滓が残されている。
「……全く、厄介なものに首を突っ込んじまった」
ベックは口の中でそう呟いたが、その声にはいつもの皮肉めいた軽薄さではなく、奇妙な熱が宿っていた。
彼は、トランスの背中に静かに揺られているリーゼを一瞥した。純白に輝くマントは、泥と錆に覆われた騎士の背中で、まるで聖域のように澄んでいた。
ベックは、旅の始まりからトランスに対して抱いていた疑念を、今、一つずつ検証していた。
事の始まりは、あの村での騒動だった。
アーシャという名の少女が、魔物に襲われ、致命的な傷を負った。ベックは、数々の修羅場を潜り抜けてきた経験から、一目で理解した。あの傷は、回復薬や並の治療師ではどうにもならない。出血多量と臓器の損傷。死は時間の問題だった。
村人たちのパニックと怒号の中、あの錆びた騎士、トランスが静かに前に進み出た。
全身を覆うくすんだ鉄色の鎧は、その場にいる誰よりも古びて、そして醜かった。胸部の巨大な穴は、彼自身の脆弱性を露呈していた。ベックは、トランスを「逃亡騎士」か、あるいは「何らかの大きな罪を背負った存在」だと決めつけていた。
だが、トランスが、アーシャの傷に触れた瞬間、世界は静止した。
*治癒*。
それは、まるで時間が巻き戻されたかのような、神聖すぎる光景だった。砕けた骨が再結合し、裂けた皮膚が瞬時に融合する。それは、高位の神官すら容易には行えない、文字通り「奇跡」と呼ぶべき魔法だった。
「……あの時、俺はあんたを、何かを隠している、危険な詐欺師だと疑った」
ベックは、トランスの隣を歩きながら、内心で告白する。騎士は、その時も、そしてその後の大猪の治療の際も、一切の見返りを求めなかった。ただ、それが己の「責務」であるかのように、淡々と、そして優しく対処した。
トランスが持つ、誰にも等しく向けられる根源的な優しさと、その現状の特異さ。ベックには、それが理解できなかった。なぜ、これほどの力を持つ者が、ボロボロの鎧に閉じこもり、己の過去に怯え、そして何も要求しないのか。
そして、森の中でのオーガとの遭遇。
あれは、ベックにとって、最も苦い決断を迫られた瞬間だった。
ウリはまだ子供だ。しかし、森の主の血を引くウリは真っ先に狙われた。自分たちの手札で、あのオーガを足止めすることは難しい。ベックは、躊躇いなく戦術を組み立てた。ウリを囮にする。それが、仲間の生存確率を最大化する唯一の道だった。
だが、トランスは違った。
オーガの巨体が、破壊的な突進を仕掛けてきた時、トランスは全身を覆う恐怖とトラウマを押し殺し、その巨大な悪意の前に立ち塞がった。
ベックは、その時のトランスの瞳の奥を見たわけではない。だが、あの時、トランスの全身から放たれていたのは、己の命、己の過去、己の恐怖、その全てを顧みない「守護者の意志」だった。
『……問題ない。これが俺の責務だ』
あの言葉は、単なる口癖ではない。それは、彼が記憶を失った後、この世で唯一掴み取った、己の存在証明なのだと、ベックは悟った。
その瞬間、ベックの心に巣食っていた冷酷な戦術家としての判断が揺らいだ。彼は、トランスの命を最優先しなければならない、という衝動に駆られた。
ベックは、己の切り札である【蜘蛛の魔糸】を惜しみなく使用した。高価で補充が困難なワイヤーを、ためらいなくオーガの足に巻き付けた。それは、トランスが命を賭けた戦いに、ベック自身が全身全霊で応えるという、献身的な決意の表れだった。
勝利は、トランスと、急成長を遂げたウリ、そしてリーゼの《反転》の連携によってもたらされた。
そして、戦闘後の光景。
トランスは、勝利の歓喜に浸ることなく、森の主の亡骸の前に跪いた。泥と血にまみれた古びた鎧の騎士が、静かに頭を垂れる。その姿は、いかなる国王の戴冠式よりも荘厳で、純粋な敬意に満ちていた。
ベックは、その時、胸の奥底で何か硬いものが崩れる音を聞いた。
彼はかつて、騎士が掲げる「正義」と「名誉」を信じていた。だが、現実は違った。権力と利己主義が、彼らの掲げる理想を蝕み、ベックは幻滅し、剣を捨て、冒険者として生きることを選んだ。
「騎士」という言葉は、ベックにとって、虚飾と裏切りの象徴だった。
しかし、目の前にいるトランスは、何者でもない。記憶もない。ただ、ボロボロの鎧という呪いだけを身に纏っている。それでも彼は、真の騎士が持つべき「礼節」と「慈愛」を、本能的に体現していた。
——もし、あの時、俺の傍に、トランスのような騎士がいれば……。
ベックの心から、「逃亡騎士」への疑念が完全に消えた。トランスは、逃げているのではない。彼は、この古びた鎧が課した「責務」を、ただひたすらに果たそうとしているのだ。
一行は、森の静寂の中を歩き続けた。ウリは二倍の巨体となり、誇らしげに鼻を鳴らす。トランスの腰の剣は、オーガの角と融合し、真紅の鋭い輝きを放っている。
サラは疲れ切った表情で、トランスの後ろを歩いていた。トニーは周囲を見渡し、警戒を怠らない。
ベックは、トランスの横に並び、一拍、沈黙を置いた。
「おい、トランス」
「……何だ」
トランスは、いつものように短く返答した。彼の視線は、常に前方の森の奥を捉えている。
ベックは、深緑の瞳を細め、少しだけ口角を上げた。
「さっき、村に向かう前に、お前に言っておきたいことがあった」
トランスは足を止めず、わずかに首を傾げる。
「……言え」
「あんたを疑っていた」ベックは、感情を排した声で、しかし、心の底からの言葉を吐き出した。「あんたの鎧、あんたの過去、そしてあの治癒魔法。全てが不自然で、危険な存在だと思っていた。ひょっとしたら、俺たちを騙して、何かを企んでいるんじゃないかと」
ベックは、トランスの反応を待った。いつものように、感情を抑制した、冷たい返答が来るだろうと予想しながら。
だが、トランスは一瞬、思考を巡らせた後、本当に理解できていない様子で、簡潔に返した。
「……そうか。だが、それは、いつの話だ」
ベックは虚を突かれた。トランスは、ベックが何に対して謝罪しているのか、本当に把握できていないのだ。彼の心には、疑念を抱かれたことへの憤りも、悲しみも、一切ない。彼にとって重要なのは、目の前の「責務」と「事実」だけだ。
ベックは、思わず吹き出した。
「ハハッ、そうか。いつの話か、だと?」
ベックは肩を揺らし、心地よい解放感と共に笑った。彼の重く澱んでいた心は、今、完全に晴れていた。
「いいや、もういい。問題ない。あんたが何者であろうと、俺には関係ないことだ」
ベックは、トランスの肩を軽く叩いた。その頑丈な鉄の感触は、彼の固い意志そのもののように感じられた。
「あんたは、俺が知っているどの騎士よりも、よっぽど騎士らしい。少なくとも、俺はそう確信したぜ」
トランスは、その言葉にも特別な感情を示さなかったが、わずかに、本当にわずかに、兜の奥の影の中で瞳が動いたようにベックには見えた。
「……そうか。お前の信念、受け取った」
トランスはそう言って、再び前を向いた。その言葉は、ベックの過去の幻滅に対する、静かな肯定のように響いた。
ベックは、爽やかな気持ちで、先頭を歩くトランスの後ろに続いた。
「さて、村に着いたら、まずは飯の支度だ。最高のシチューを食わせてやる。この程度の修羅場、数えるのも面倒だからな」
彼は、軽薄な笑みを浮かべ、再びプロの冒険者としての顔に戻って、森を抜ける光を追った。
誰得ベックさんのデレでした




