震える鎧
石畳のひび割れたハガイの街を後にし、トランスは荒涼とした草原へと足を踏み入れた。
全身を覆うくすんだ鉄色の鎧が、乾燥した風に軋む。重厚な装甲は、まるで大地から掘り起こされた鉄塊のようだ。彼の胸に空いた穴は、空虚な虚無を象徴しているかのようだった。
露店で水と干し肉を買ったことで、少女に渡した銀貨と合わせて、彼の所持金は完全に底を尽きた。最早、安宿に泊まる余裕すらない。
トランスは、記憶の欠片を探る旅の資金を稼ぐため、そして、己の存在意義を見出すため、ギルドで受けた解毒草の採取依頼を遂行しなければならなかった。
草原は広大で、どこを見ても茶色く枯れた草木が広がるばかりだ。解毒草は湿地帯に自生すると聞くが、この辺境の地で湿地を探すのは困難を極めた。彼は騎士であり、薬草の知識など持ち合わせていない。
「……識別できない」
トランスは、数時間かけて集めた幾種類もの草を、脱げない鎧の無骨な手で慎重に調べた。どれも似て非なるものばかり。成果は極めてわずかだった。
夕刻、西の空が血のような朱色に染まる頃、トランスは小さな岩陰を見つけ、野営の準備を始めた。
彼は、腰に帯びた、幾度も刃こぼれを繰り返し、切っ先が欠けて短くなった実戦用の剣を地面に突き立て、手のひらを地面にかざす。
微弱な魔素が、彼の体を通って地面に流れ込み、摩擦熱を生み出す。簡素な魔術による焚火が、パチパチという音を立てて燃え上がった。
トランスは、その炎を見つめながら手頃な石に座ったまま、ゆっくりと目を瞑った。
記憶の空白が、再び彼の精神を侵食し始める。自分が何者なのか、なぜこの鎧を着ているのか。胸の穴は、何かの象徴なのか、それとも致命的な傷跡なのか。
炎の揺らめきの中に、過去の残像が浮かび上がった。
――親友…であろう顔。
貧しい出自だったが、共に切磋琢磨し、小国の近衛騎士にまで昇り詰めた男。彼はいつも笑っていた。
『トランス、お前は本当に不器用だな。だが、その不器用さが、お前の真の優しさだ』
記憶は朧げだが、あの国は、滅んだ。魔王軍の侵攻はあまりにも突然で、圧倒的だったからだ。
――炎と、血と、悲鳴。
トランスは、市民も、王族も、そして何より、親友を守ることができなかった。その時の無力感と、魔物に対する強烈な恐怖と嫌悪が、今も彼の魂を縛り付けている。
記憶が曖昧でも、彼は知っている。恐怖に打ちのめされ、ただ立ち尽くすことしかできなかった自分の姿を。
「……責務を果たせなかった」
そのトラウマが、今も魔物と相対する際に、彼の体を竦ませる。この重い鎧は、彼の体を守るためではなく、彼の「逃げたい」という本能を封じ込めるための枷なのではないか。
トランスは、感情を押し殺すように深く息を吐いた。
「……問題ない。今は、この責務を果たす」
彼は、何もない虚空に向かって、そう断言した。
***
翌朝。冷たい朝露が、鎧の錆びた表面を濡らしていた。
トランスが重い体躯を起こすと、彼の視界の隅に、動く影があった。
「う……」
かすかな、しかし明確な呼吸音が聞こえる。
少女だった。
昨日の薄汚れたチュニックのまま、泥と朝露に濡れながら、彼女はそこに立っていた。トランスが立ち去った後、彼女は街を出て、彼を追ってきたのだ。
トランスは警戒心から身構えたが、少女の瞳を見て、その意図を理解した。翠色の瞳には、疲労と、しかしそれ以上の強い献身的な意志が宿っていた。
少女は、震える小さな手をトランスに向けた。その手には、泥と血痕で汚れた痕跡があった。彼女は、自らの指を傷つけながら、夜通し解毒草を探し回ったのだろう。
彼女が差し出したのは、トランスが探していた解毒草だった。
トランスは、一瞬、言葉を失った。極度に寡黙な彼にとって、これほどの情動を突きつけられるのは稀なことだった。
彼は、少女の瞳をじっと見つめた。彼女は、トランスの不器用な優しさに報いようと、自らの危険を顧みずに追ってきたのだ。
「……そうか」
トランスは、簡潔に、しかし深い感情を込めて呟いた。
「お前の信念、受け取った」
彼は静かに解毒草を受け取った。これで依頼は達成できる。
その瞬間、遠くの森の奥から、けたたましい雄叫びが響き渡った。
「グオオオオォッ!」
それはゴブリンの叫びだったが、単なる獣の咆哮ではなかった。何らかの指揮官がいるかのような、組織的な、そして殺意に満ちた号令だ。
トランスの全身が、一瞬にして硬直した。トラウマが、彼の神経を麻痺させる。
直後、森の境界から、一人の冒険者が血を吐きながら転がり出てきた。彼は胸を押さえ、何かを叫ぼうとするが、声は出ない。
トランスは即座に状況を判断した。この辺りの魔物は単なる野盗ではない。
冒険者は、視界の先で息絶えた。縋るようにこちらを見つめたまま。その遺体は、首を…切られていた。
トランスは、魔物への恐怖で震える体を無理やり動かし、少女に振り向いた。
「……行け」
彼は短く命じた。
少女は、トランスの鎧にしがみつくように、首を横に振った。彼女の瞳は、拒絶と、トランスを守りたいという強い意志を訴えている。
トランスは、この子供の献身的な心に、自らの過去の過ちを重ねた。彼女は、かつて自分が守れなかったものだ。
彼は、背中に羽織っていた、長年の風雨に晒され、ボロボロになった濃い青の古びたマントを、乱暴に引き剥がした。
「これを着ろ」
トランスは、そのマントを少女の小さな体へと押し付けた。
少女は、トランスの意図を理解し、マントを身に纏う。マントは彼女の顔以外を覆い隠し、彼女の翠色の瞳だけが、トランスを見つめていた。
このマントは、彼の守りたいという想いの象徴である鎧の一部だ。今、彼は、そのマントに、守るべきものを託した。
「解毒草は、街のギルドに届けろ」
トランスは、報酬として受け取った解毒草を、少女の手に握らせた。
「お前には、生きる責務がある。……完了しろ」
少女は、言葉を発せない代わりに、その瞳の奥で、トランスへの深い感謝と、別れを惜しむ悲哀を訴えた。彼女は、トランスの鎧に最後の別れを告げるように、そっと頭を擦り付けた後、踵を返し、街へと続く草原を走り出した。
トランスは、少女の小さな背中が見えなくなるまで、動かなかった。
そして、彼は森の闇へと向き直る。
森の境界線から、三体のゴブリンと、一匹のオークが姿を現した。彼らは単なる野蛮な魔物ではなかった。ゴブリンは、錆びたとはいえ、剣と鎧を装備し、オークは鎖帷子と巨大な斧を携えている。統率された、経験豊富な一団だ。
トランスの全身は、恐怖によって震えが止まらない。胃の底から込み上げてくる嘔吐感を、彼は感情の抑制によって無理やり押し込めた。
(逃げたい。このまま、この重い鎧を脱ぎ捨てて、どこか遠くへ)
しかし、彼の背後には、彼が今、逃がしたばかりの小さな命の残像がある。
彼は、腰から、何度も刃こぼれを繰り返し、切っ先が欠けた、実戦用の短くなった剣を抜き放った。剣は、彼の震える手の中で、カチャリと音を立てた。
トランスは、兜の奥深く、暗い影に隠された素顔を、魔物たちに見せることなく、感情を排した声で、己に言い聞かせた。
「……問題ない。これが俺の責務だ」
彼は、一歩、魔物たちへと踏み出した。重い鎧が、大地にその重みを刻みつける。
「この先は、俺の死に場所らしい。守ってみせろ…国は守れずとも、せめてあの子だけでも」
トランスは、その言葉を、己の魂に向けて放った。そして、胸の穴から吹き込む冷たい風を、全身で受け止めた。
戦闘が、今、始まる。




