銀級冒険者 ベック 1
ベック視点です
夜の帳が辺境の森を深く覆い、焚き火の淡い光だけが、地面に敷かれた粗末な毛布の上で揺れていた。火の爆ぜる音と、遠くで聞えるフクロウの鳴き声が、静寂を切り裂く。
ベックは焚き火の傍ら、腰を下ろしていた。だが、彼はいつものように眠る体勢には入らず、ただ無言で炎を眺めている。彼の視線は、数メートル離れた場所で、背中を木に預け、微動だにしない巨躯に向けられていた。
トランス。それが、この奇妙な旅の仲間、全身を錆びた鉄色の古びた鎧で固めた騎士の名前だった。
ベックは短く息を吐いた。初めてトランスを見た時の印象は最悪だった。逃亡騎士。それ以外の何者でもない。騎士というものは、主君の剣となり、誇り高くその責務と共に散るのが美徳だ。それを捨てた者は、ただの鉄屑か、あるいは、何か恐ろしい罪を犯した裏切り者である。
「……また、警戒ですか、トランスさん」
サラが静かに声をかけた。彼女は薄い水色のローブに身を包み、トランスの隣で眠るリーゼに毛布をかけ直している。
「あの人は、本当に寝ているのを見たことがありません。それに、食事もあまり……」
サラの声には、トランスを気遣う優しさが滲んでいた。世間知らずの娘と、軽薄な弓使いのトニーは、この寡黙な騎士の表面的な優しさに簡単に絆されている。トランスは、忌み嫌われていたリーゼに、有り金すべてを渡したという。それは騎士の義務でもなければ、冒険者の仕事でもない。ただの、お人好しだ。
ベックは、トランスのくすんだ胸部中央に空いた、内側が覗けるほどの巨大な穴に目を留めた。あれは単なる損傷ではない。何らかの破滅的な一撃を受け、かろうじて機能しているだけの、生きた墓標だ。
「あれはただの自己満足だ」ベックは冷たく言った。「騎士の責務を放棄した者が、罪滅ぼしに施しをしている。それ以上でも以下でもない」
「ベックさん」サラは悲しげに彼の名を発した。「トランスさんは、リーゼちゃんが呪いのせいで周囲から受けていた嫌悪を、一切気にしていなかった。彼は、ただ困っている人を助けただけです」
「そうか。だがな、嬢ちゃん。世の中は、善意だけで回っているわけじゃない」
ベックは、トランスの存在が、彼の抱える厳格な価値観を揺さぶることに苛立ちを覚えていた。特に、最近の出来事が、その不信感を複雑なものに変えていた。
数日前の馬車の護衛中、彼らは森の奥から現れた魔物に襲われた。ベックはトランスの頑丈な鎧を活かし、魔物の注意を引きつけるよう指示した。
その時だ。トランスの巨躯が、わずかに、だが明確に震えたのをベックは目撃した。彼は魔物との戦闘経験が皆無ではないはずだ。あの戦場で鍛えられた鎧が、何かに怯えている。トランスは剣を抜くことすらできず、ただ防御の姿勢を取るのが精一杯だった。彼の全身が、制御不能な恐怖に支配されていたのだ。
「ちっ、使えねぇ」
思わず悪態をついたベックは、トランスの背中に小さな重みを感じた。リーゼだ。彼女は、トランスに譲り受けた金の刺繍が施されたマントに包まれながら、その小さな拳で、トランスの兜を「コン!」と軽く叩いた。
『うっ……』
リーゼの、言葉にならない短い鳴き声が、トランスの耳元で響いた。その直後、トランスの震えがぴたりと止まったのだ。彼は、まるで催眠術が解けたかのように、即座に姿勢を立て直し、魔物へ向かって短く突進した。その一連の動作の不自然さと、リーゼの不可解な行動に、ベックは毒気を抜かれた。
(あの騎士は、魔物に対しては子供のように怯える。だが、守るべきものが明確になった時だけ、その恐怖を押し殺す)
それは、ベックが知るプロの戦士ではない。それは、狂信的な献身か、あるいは——自己破壊的な衝動だった。
ベックは立ち上がり、音もなくトランスへと近づいた。ベックの隠密性は、夜の闇と同化する。トランスは、彼の接近に気づいている様子はなかった。彼は、まるで彫像のように動かない。
「トランス」
ベックは声をかけた。トランスは一拍置いてから、ゆっくりと首をベックの方に向けた。兜の奥、暗い影の中に瞳の光を捉えることはできない。
「……何か」
その声は、いつも通り感情を排し、冷徹だった。
「あんた、いつ寝ている?」
ベックは単刀直入に尋ねた。
「必要に応じて、休息は取っている」
「嘘をつけ。俺はあんたをずっと見ている。この旅の間、あんたは一度も、兜を外していない。食事も水も大してとらず、そして……用も足していない」ベックは顎をしゃくった。「その鎧は、あんたの体を、どうにかしているのか?」
沈黙が訪れた。焚き火の炎がパチリと音を立てる。
トランスは、ゆっくりと、右手を兜の側面に上げた。そして、軋むような音を立てながら、兜を外した。
見慣れないトランスの顔を見つめて、ベックは息を飲んだ。
暗い影から現れた顔は、彼が想像していたような、戦場を知り尽くした三十路の猛者ではなかった。彼の顔立ちは驚くほど若く、精悍ながらも、まだ傷のない肌をしていた。
だが、その瞳。
ベックは、数々の修羅場を潜り抜けてきた。戦場で、絶望と恐怖に打ちひしがれた兵士の目を見てきた。トランスの瞳は、それらとは違っていた。それは、生きる意志を失ったわけではない。しかし、何か決定的なものが、内側から「折れて」しまった者の眼だった。若さとは不釣り合いなほどの、深い影と疲弊がそこに宿っていた。
トランスは、外した兜を地面に置いた。彼の短い髪が、夜風にわずかに揺れる。
「……お前」ベックは、自分の声が、予想外に震えていることに気づいた。
トランスは、再び一拍置いた後、静かに答えた。
「この鎧は、私から、多くのものを奪った」
彼の声は、低く、重い。感情が抑制されているかのようで、かえってその苦痛がベックに伝わってくる。
「記憶、そして、生身の体で生きるための、幾つかの機能だ」
彼は言葉を詰まらせた。
「私は、この鎧を脱ぐことができない。そして、脱げば、私は、存在し得ない」
ベックは、その言葉の意味を即座に理解できなかった。それは比喩ではなく、事実として語られていた。この騎士は、鎧に生かされている。そして、その鎧が、彼から人間としての生理的な欲求を奪い、恐らくは生命活動の大部分を代替しているのだ。
「あんたは……」
「訳ありだ」トランスは簡潔に断定した。「貴殿の不信感は当然だ。私は、貴殿の知る騎士ではない。しかし、私は、貴殿たちに害をなすことはない」
トランスは、ベックの目を見つめた。その「折れた眼」には、嘘や欺瞞の光はなかった。ただ、深い疲労と、途方もない孤独が宿っていた。
「私を信じてもらうしかない。それが、今の私にできる、唯一の返答だ」
ベックは、舌打ちをしたくなったが、できなかった。彼は、トランスが一度も自分の不幸や苦しみを口にせず、同情を誘おうとしないことに気づいた。トランスは、その恐ろしい現状を、ただの「事実」として提示したのだ。
ベックは、自分の中の、逃亡騎士に対する根深い偏見が、音を立てて崩れていくのを感じていた。彼は、この若者が、どれほどの重圧を抱えてこの旅を続けているのかを想像した。魔物への恐怖に震えながらも、それでも正義感によって立ち上がり、そのたびに小さな少女に兜を叩かれて正気に戻るという、滑稽だが、同時に痛ましい現実。
「……そうか」ベックは、短く相槌を打った。
「その『訳あり』が、俺たちに迷惑をかけねえ限りは、問題ない」
ベックはそう言って、再び焚き火へと向き直った。
(ちくしょう。なぜ、俺はこんなにも、こいつを嫌いになれない)
ベックは、トランスの静かな苦しみが、かつて自分自身が抱えていた、ちっぽけなトラウマやコンプレックスを、洗い流していくような感覚を覚えた。
この男は、騎士の責務から逃げたのではない。彼は、その責務そのものに、囚われているのだ。そして、その檻の中で、彼は、誰にでも等しく優しい、根っからの善意を、ただ愚直に実行している。
「……飯だ」ベックは、焚き火に火をくべながら、ぶっきらぼうに言った。「食わねえなら、置いていくぞ」
トランスは、返答しなかった。ただ、静かに再び兜を被り、その全身を、錆びた鉄の沈黙の中に隠した。
ベックは、その沈黙を肯定と受け取った。そして、彼は、この奇妙な騎士と護衛を続けることが、もはや依頼料のためだけではないことを、深く理解し始めていた。彼は、この「折れた騎士」が、いつか完全に立ち直る瞬間を、見てみたいと願っていた。その時、このくすんだ鉄の塊が、ボロボロのマントが変わったように、白銀の聖鎧へと変貌するのだとしたら。
ベックは、心の中で、小さく呟いた。
(全く、面倒な獲物を拾っちまったもんだ)
だが、その胸の内には、確かな熱が灯り始めていた。それは、プロの冒険者としての警戒心ではなく、どこか、世話焼きの親のような、情動だった。彼は、この旅が単なる護衛ではないことを悟っていた。これは、トランスという名の、巨大な謎と、その運命を巡る、危険な道行きなのだ。
そして、その道は、ベック自身の過去の亡霊たちとも、いつか対峙することになるだろう。彼は、短剣の柄を握りしめた。
ツンツンベックさん




