森の主
森は、地響きのような唸りを上げたオーガの巨体が大地に崩れ落ちた後、再び深い静寂を取り戻した。
ウリは、その巨獣の死骸から牙を抜き、勝利と、そして深い喪失の感情が混ざり合った、複雑な咆哮を上げた。それは、血のつながった者の復讐を果たした誇りと、森の主を失った悲しみの両方を内包していた。
トランスは、ウリの背から降りた後、全身の力を使い果たしたように、その場に立ち尽くしていた。背中に感じるリーゼの重みは、魔力を極限まで消費し、深い眠りに落ちていることを示していた。慈悲のマントのくすんだ光は、微かにトランスの魔素を吸い上げている。
「……俺は、守れたのか」トランスは、誰にともなく、か細い声で呟いた。彼の声には、いつもの感情を排した冷静さよりも、張り詰めた糸が切れた後の疲労の色が濃かった。
ベックは、素早く魔糸を回収し、短剣を鞘に戻した。彼の顔には、安堵の表情と、奥の手を使ったことへの不満が半々に浮かんでいた。魔糸特有の生臭さと粘着性が、彼の装備にまとわりついている。
「ちっ、最悪だ。このベタつき、数日は取れねぇな」ベックは悪態をつきながらも、トランスの肩を力強く叩いた。「だが、よくやった。とんでもねぇ化け物だ。貴殿の奥の手と、嬢ちゃんの『反転』がなければ、全滅だった」
トニーは、緊張から解放され、その場に大の字になって寝転んだ。
「へへ、生きてるって、最高じゃねぇか!」トニーは空に向かって笑いかけた。「ベックの旦那、あの見えない糸は何なんだ? 蜘蛛の魔物でも狩ったのか? 規格外の武器じゃねぇか!」
ベックは、トニーの軽薄な問いかけに、深緑の瞳を細めた。
「くだらねえ質問は後にしろ、トニー。あれは、お前のようなガキに教えていい代物じゃねぇ。それに、補充が面倒だ」ベックは、冷たく言い放ったが、その口元には、わずかに笑みが浮かんでいた。「それより、帰って飯だ。今夜は最高の獲物を仕留めたんだ。腹が減っているだろう」
「マジか! 最高の飯と最高の獲物! さすがベックの旦那!」トニーは弾むように立ち上がった。
一方、サラは、まだ地面に座り込んだまま、杖を握りしめていた。彼女の顔色は青白く、水色の瞳には、深い自己嫌悪の影が落ちていた。
(私はまた、制御を失うところだった。あのままだったら、戦闘どころか、トランスさん達まで巻き込んでいたかもしれない……)
トランスは、サラのただならぬ様子に気づき、静かに彼女の傍に歩み寄った。彼は、無言で、しかし確かな力で、サラの肘の下に手を差し入れた。
「サラ」トランスは、短く、彼女の名前を呼んだ。
サラは、トランスの温かい手に触れ、反射的に顔を上げた。
「トランスさん……」彼女の声は微かに震えていた。「申し訳ありません。私の魔力制御が不安定で、皆さんに迷惑をかけました……」
トランスは、サラの言葉を遮るように、短く答えた。
「問題ない。貴殿の魔法が、我々の命を繋いだ」
トランスの言葉には、一切の感情の揺れがなかったが、その断定的な響きは、サラの自己批判の連鎖を断ち切った。
サラは、トランスの底知れない優しさに触れ、ようやく安堵の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます、トランスさん……」サラは、いつもの様子に戻り、トランスの体を支えに立ち上がった。「さて、討伐部位の回収を始めましょう。オーガの素材は高値で売れます。特に、あの巨大な角は……」
サラの提案に従い、ベックとトニーは、それぞれナイフを取り出し、オーガの硬質な皮膚を剥ぎにかかった。トランスは、背中のリーゼを気にかけながら、その場を離れずに立っていた。
その時、ウリが、オーガの死骸ではなく、その脇に横たわる、もう一つの巨大な、しかし明らかにオーガとは異なる、厳かで神聖な雰囲気を纏った遺骸に鼻を擦り寄せていた。それは、先にオーガの胸部に致命的な一撃を与えていた、巨大な角を持つ大猪の遺骸だった。
ウリは、その遺骸に顔を埋め、悲しげに「きゅうううう……」と嗚咽を漏らした。
トランスは、その光景を見て、森の主が、己の命を懸けて、この森と、ウリを守り抜いたのだと察した。オーガの胸に穿たれた深すぎる傷は、その証拠だった。
トランスの内に、騎士としての、失われた記憶の残滓が、微かに蘇った。敗者にも、敵にも、等しく敬意を払う。それが、騎士の務め。
トランスは、ベックとトニー、サラの回収作業を遮るように、ゆっくりと、森の主の遺骸の前に進み出た。
全身を覆うくすんだ鉄色の古びた鎧は、戦闘の泥と血に塗れ、その姿は哀れでさえあったが、トランスの立ち姿には、揺るぎない威厳があった。
彼は、背中のリーゼを抱き直すと、右膝を地面につき、左膝を立てた。そして、腰に帯びていた、何度も刃こぼれを繰り返し、切っ先が欠けた剣を、ゆっくりと抜き取った。
トランスは、折れかけた剣を逆手に目の前に掲げ、兜のバイザーを、わずかに、しかし確実に開いた。暗い影に覆われた表情は、それでもはっきりとは見えなかったが、その動作には、深い敬意が込められていた。
彼は、頭を垂れ、沈黙の中で、森の主の魂に、騎士の跪礼を捧げた。
「……感謝する。貴殿の勇気と、責務に」
その静かな声は、森の静寂に響き渡った。
トランスの厳粛な行動に、ウリもまた、その大きな鼻先を地面に伏せ、長い時間、頭を垂れた。
回収作業を中断していたベック、トニー、サラの三人は、トランスの予想外の行動に、息を呑んだ。
ベックは、短剣を胸に当て、森の主の遺骸に向かって深く頭を下げた。
「……プロの流儀だ。安らかに眠れ」
トニーは、軽薄な笑みを消し、静かに矢筒を背負い直すと、一拍の黙祷を捧げた。
サラは、トランスの背中に、騎士の魂を見た。彼女は、杖を胸元に抱き、深い慈愛の念と共に、森の主の犠牲に感謝した。
その時、異変が起こった。
森の主の遺骸が、突然、優しい黄金色の光に包まれた。光は、オーガの死骸をも照らし、その光の粒子は、まるで森の意志であるかのように、ウリの巨体へと流れ込み始めた。
「きゅっ……!」
ウリは、驚きと、体内に流れ込む強大な力に、短く鳴いた。ウリの体躯は、光を吸収するにつれて、みるみるうちに膨張していった。全身の剛毛の縞模様は消え、濃い茶色と黒の、威厳に満ちた毛並みに変化した。その体格は、光が収束したときには、元の二倍ほどに巨大化していた。
ウリの牙は、さらに鋭く、長く伸び、その姿は、まさしく森の新たな主の威容を纏っていた。
森の主の遺骸は、光と共に完全に消滅した。
「……継承の儀、か」ベックは、深緑の瞳を大きく見開いた。「森の主の血を引く者に、その力と、森の加護を渡す儀式だ。辺境の伝説では聞いていたが、まさか、目の当たりにするとはな」
ベックは、ウリの成長を認め、短く称賛の言葉を投げかけた。
「悪くねぇ。ウリ、お前も立派な主になったな」
ウリは、新しい力に満ちた体を揺らし、トランスに向かって、力強く「ブモォォ!」と鳴いた。それは、感謝と、強くなった自分を見てほしいという、無邪気な喜びの叫びだった。
トランスは、ウリの成長を静かに見つめ、頷いた。
トランスが、地面に立てていた欠けた剣を鞘に戻そうとした、その瞬間。
今度は、トランスの剣が、穏やかな白銀の光を放ち始めた。
光は、オーガの死骸から、まだ回収されていなかった、巨大な右の角を吸い寄せた。オーガの角は、邪悪な魔素を失い、純粋な硬質な物質となり、トランスの欠けた剣の切っ先へと、まるで生きているかのように融合し始めた。
剣は、白銀の光の中で形を変え、オーガの角の持つ力と、トランスの聖鎧の魔力を吸収しながら、徐々にその色を深めていった。
光が収束したとき、トランスの手に残されていたのは、もはや錆びた実戦用の剣ではなかった。
それは、まるでオーガの血を浴びたかのように真紅に輝き、複雑な装飾が施された、重厚な片手剣へと変貌していた。刃の切っ先は、オーガの角の硬度と、トランスの魔力によって再構築され、以前の欠けた部分など、跡形もなくなっていた。
「な……なんだ、あれは」トニーは、呆然と呟いた。
「……変質? いや、融合?」サラは、知識を総動員して、その現象を理解しようとしたが、見たことのない光景に、言葉を失った。
一行の驚きの眼差しは、知識豊富で頼れる世話役であるベックに集中した。彼らが求めているのは、この異常な現象に対する、ベックの冷静な分析と説明だった。
しかし、ベックは、その深緑の瞳を、驚愕のあまり大きく見開いていた。彼は、腰のポーチをまさぐりながら、困惑と苛立ちを隠せない様子で、悪態をついた。
「おいおい……冗談じゃねぇ。武器が、魔物の素材を吸収して、こんな変化を遂げるなんて……」
ベックは、頭を掻きむしり、諦めたように、感情を込めて言い放った。
「さすがにこんなの、俺は知らねぇ。初見だ。トランス、貴殿の装備は、一体何なんだ」
トランスは、真紅に輝く、新しい剣の柄を、静かに握りしめた。剣は、彼の手に馴染み、まるで自分の体の一部であるかのように感じられた。
トランスは、答えを持たない質問に、いつものように短く返答した。
「……問題ない。これが、俺の責務だ」
彼は、真紅の剣を鞘に納め、森の奥、彼らが目指すべき都市へと、静かに視線を向けた。旅は、まだ始まったばかりだった。彼の失われた記憶と、この鎧の真の力を探る、長く、過酷な旅路が。
物知りベックにもわからないことはあるようです




