オーガとの闘い
森は、一瞬の白銀の閃光の後、再び重苦しい静寂に包まれた。
オーガは、自らの攻撃を跳ね返され、一歩後退した。その血走った一つ目には、憎悪とともに、初めての「警戒」の色が宿っていた。
トランスは、胸部で激しく脈打つ鼓動を感じていた。それは恐怖心と、リーゼの魔力消費の限界を知らせる、二重の警告だった。
背中に感じるリーゼの重みは、微睡みから、深い昏睡へと移行しつつあることを示していた。慈悲のマントは、トランスの魔素を吸収し、リーゼの生命を維持しようとしているが、反転魔法は彼女の命を削る行為に等しい。
(リーゼのことを考えれば。反転は、あと一度が限界だ。)
トランスは、欠けた剣をオーガに向けた。彼の身体は、恐怖で震えていたが、その恐怖を押し隠すように、全身の筋肉を硬直させた。
「……問題ない」トランスは、喉の奥から絞り出すように言った。「お前の相手は、この俺だ」
ベックは、木の陰から事態の推移を冷静に観察していた。トランスの鎧が放った光と、オーガが受けた衝撃。それは魔法的な反動であり、トランス自身の力ではない。背中にいる少女が鍵だと、彼は瞬時に理解した。
「トランスの野郎……とんでもない奥の手を持っていたな」ベックは、その顔にわずかな驚愕を滲ませたが、すぐにプロの表情に戻った。「だが、あのオーガも学習したはずだ」
ベックは、隠密行動を解き、トランスの背後、オーガの死角に回り込みながら、指示を出した。
「トニー! 奴の意識を散らせ! サラ嬢、トランスが動いたら、いつでも援護できるように準備しろ!」
トニーは、恐怖で硬直していた体を、ベックの張り詰めた声で無理やり引き戻した。軽薄な笑みはひきつっていたが、彼の琥珀色の瞳には、辺境の狩人としての意地が燃え始めた。
「へっ、へいへい! ベックの旦那は相変わらず容赦ねぇな! でも、俺っちの弓の腕を見りゃ、アンタも惚れ直すって!」
トニーは、震える手で矢を番え、オーガに矢を射るが、硬い皮膚がそれを通さない。それでも構わないというように、彼は隠れ潜みながらも矢を打ち続ける。
鬱陶しそうにしながらも、オーガは、トランスの鎧を警戒し、突進ではなく、巨大な左手をゆっくりと広げた。捕獲するつもりだ。反転を警戒し、直接的な打撃を避ける、知恵のある行動だった。
トランスは、オーガの意図を察知した。捕獲されれば、リーゼの反転は発動しない。
しかし、トランスは逃げなかった。恐怖に打ち勝つ唯一の方法、それは、守るべきもののために、自ら危険に飛び込むことだった。
トランスは、オーガの巨体が手を伸ばしてくるその瞬間、低く姿勢を落とし、まるで影のように、オーガの股下へ滑り込んだ。
オーガの巨体が、一瞬、トランスを見失った。
トランスは、オーガの体幹に最も近い、太腿の内側に向けて、欠けた剣を渾身の力で突き上げた。
しかし、オーガの皮膚は岩のように硬質化しており、トランスの剣は、浅い裂傷を与えるに留まった。ねっとりとした赤黒い血が滲み出す。
「グオォォ!」オーガは、不意打ちの痛みに雄叫びを上げた。
トランスは素早く体勢を立て直すが、オーガの手が迫る。あわやと思った瞬間、何かに気づいたかのようにオーガの手は捕獲を中断し、トニーの放った矢から目を庇った。
「ちっ、勘がよすぎるぜ」
その時、ベックが動いた。
ベックは、トランスの浅い傷を確認し、即座に勝機を見出した。トランスがつけた傷口は、奥の手を食い込ませる最高の足場となる。
「トランス! 奴から離れるな! 貴殿の動きが、俺たちの命綱だ!」
ベックは、腰に隠していた特殊なカートリッジを取り出し、親指でレバーを弾いた。極めて細く、視認しにくい、粘着性の魔糸が、彼の短剣の切っ先に絡め取られた。
ベックは、驚異的な機動性で、音もなくオーガの背後へと回り込み、トランスがつけたばかりの裂傷めがけて、短剣を投擲した。
短剣は、足に当たることなく通り過ぎるが、ベックが手を引くような動作を見せると、見えない糸のようなものが絡みつき、オーガの右太腿の裂傷に深く食い込んだ。
「グオオオアアア!!」
魔糸は、トランスの傷口からオーガの肉の奥深くへと食い込み、切れることなく神経を刺激する。オーガは、あまりの激痛に、片足を上げ、よろめいた。
「今だ、サラ嬢! 奴の機動力を完全に奪え! 左足だ!」ベックは、トランスへ向かって叫んだ。「トランス! 受け取れ! 奴を地面に引き倒すぞ!」
サラは、震える体を無理やり動かした。彼女の周囲の魔素は、異常なほど濃く、彼女の体質は、まるで毒を吸い込んでいるかのように熱を発していた。
(……どうか、これ以上は私に魔法を使わせないでください。もう、抑えきれなくなってしまいます!)
魔力回路が制御に追いつかない。だが、躊躇している時間はない。全員、命を懸けている。
「くっ……!」
サラは、母親の形見の杖を、血の滲むほど強く握りしめた。彼女は属性制御の不安定さを理解していたため、四大属性の中でも、最も制御が容易な氷属性を選択した。
しかし、魔力吸収体質がこの濃密な森の魔素を吸収しすぎていた。
「凍結・槍!」
サラの放った氷の槍は、通常の三倍の太さと、恐ろしいまでの冷気を伴って、オーガの左足、膝の関節めがけて突き刺さった。
「グアァァァァァァァ!」
オーガは、激痛と冷気に耐えかねて、大きくバランスを崩した。
その瞬間、サラの澄んだ水色の瞳の奥に、一瞬の暗い影が走った。極度に内向的で悲観的な、水属性への豹変の予兆だった。
(駄目だ。魔力を使いすぎた。私は、また……役立たずになる……)サラは、自己嫌悪に苛まれ、その場で膝をつきかけた。
「嬢ちゃん、よくやった!」ベックの賞賛の声が、サラの耳に届いた。「トニー! 追い打ちだ!」
トニーは、サラの魔法で動きを止めたオーガの左足を狙い、矢を連射した。矢は、氷の槍が作り出した亀裂に次々と突き刺さり、オーガの左足は、もはやまともに体重を支えられない状態になった。
トランスは、オーガの激痛による一瞬の隙を逃さなかった。彼は、ベックの短剣から伸びる魔糸を、欠けた剣の切っ先で巻き取りながら、オーガの右足にさらに深く食い込ませていく。
オーガは、両足を拘束され、激しい痛みに悶えながら、その巨体を大地に叩きつけられそうになっていた。
トランスは、呻いているウリの元へと駆け寄った。
ウリは、打撲と裂傷を負い、辛うじて体を起こすのが精一杯だった。親を倒され、自身も敗北した怒りと、トランスを危機に晒したことに、その目は涙を浮かべていた。
トランスは、ウリの巨体に触れ、全身の魔力を集中させた。
「治癒」
トランスの鎧が再び白銀に輝き、その光はウリの体へ流れ込んだ。まるで時間が逆行したかのように、ウリの傷口は瞬時に閉じていき、折れた肋骨が元に戻る音が、かすかに響いた。
ウリは、驚きと、湧き上がる生命力に、短く「きゅっ!」と鳴いた。彼は、完全に回復したことを、全身でトランスに伝えた。
「ウリ、行けるか?」トランスは、簡潔に問いをかける。
ウリは、トランスの指示を理解し、その巨体を低く伏せた。トランスは、背中のリーゼを抱き直しながら、ウリの背中に飛び乗った。
オーガは、激痛に耐えながら、うつ伏せになりかけていた。ベックとトニーは、さらに矢と牽制の攻撃を続け、オーガの意識を地面に引きつけていた。
トランスは、ウリの強靭な剛毛を掴み、オーガへ向かって視線を送った。
「ウリ、最大戦速だ」
「ブモォォ!」
ウリは、森の主の子として、全ての怒りと生命力を込めて、周囲を駆け回った。その突進は、地響きとなり、大地を揺るがす。
ウリの突進の勢いは、魔糸を牽引し、拘束をさらに強め、オーガの体をついに仰向けに引き倒した。
さらに勢いは止まず、とうとう周囲を駆け回っていたウリは、オーガへと突進を開始する。
トランスは、突進の直前、ウリの首に手を当て、指示を囁いた。
「思いっきり行け」
オーガは、巨体を地面に叩きつけられ、一瞬、動きが止まった。
トランスは、ウリの背中に伏せるようにして乗っていたため、オーガの視界から完全に消えていた。オーガは、トランスを見失い、混乱した。
オーガが、仰向けになった体勢から、トランスを捜索しようと頭を上げかけたその瞬間、トランスは背中のリーゼに意識を集中させた。
「リーゼ。頼む」
トランスの声は、極めて小さかったが、慈悲のマントを通じて、リーゼの意識の奥深くに響いた。
リーゼの体が、わずかに痙攣した。彼女は、深い睡魔の底から、トランスの危機を察知した。
トランスは、ウリの首に指示を送った。
「ウリ、もう一度、全力で!」
ウリは、短く「きゅっ!」と鳴き、仰向けになったオーガの胸部めがけて、再び突進した。
オーガは、トランスがどこにいるのかを把握できず、混乱の中で、ウリの突進を避けようと、残された左腕を振り上げた。
その時、トランスの背中にいたリーゼが、薄目を開けた。彼女の翠色の瞳は、強い光を宿し、その口から、かすれた音となって溢れ出した。
「あ、な、た、を、まも、る」
再び、白銀の光が爆発した。
オーガの振り上げた左腕のエネルギーは、物理法則を捻じ曲げられ、そのままオーガ自身の胸部へと跳ね返った。
「グアァァァァァァアアア!!」
オーガは、自らの攻撃と反転の衝撃を、胸部に受けた。その胸部には、既に森の主の角が突き刺さっていた。反転の衝撃は、その傷口をさらに深く抉り、致命的なダメージを与えた。
そして、その直後、ウリの強靭な突進と、鋭く伸びた牙が、オーガの胸部の傷口を貫いた。
地響きと、骨が砕ける重々しい音が響き渡った。
オーガは、巨体を痙攣させ、その血走った瞳から、急速に光が失われていく。邪悪な魔素が、まるで霧散するかのように、オーガの体から抜け落ちていった。
ウリは、オーガの巨体から牙を抜き、勝利の雄叫びを上げた。
「ブモォォォォォォォォッ!」
トランスは、ウリの背から降り、よろめいた。全身の力が抜け落ち、立っているのがやっとだった。リーゼの存在だけが、彼の体を支えているようだった。
「トランス!」ベックが、短剣を回収しながら、駆け寄ってきた。「無茶をしやがって! だが、やったぞ!」
トランスは、ベックの興奮した声を聞きながら、背中のリーゼを抱きしめた。リーゼは、完全に意識を失い、慈悲のマントの輝きも、今はくすんでいる。
「……完了した」トランスは、震える声で答えた。
サラは、膝をついたまま、オーガの死骸と、トランスの無事な姿を見つめていた。彼女の顔色は、青白いままだ。
(私が、あそこで暴走していたら、大変なことになっていた……」
トランスは、ベックとサラの視線を感じながら、オーガの死骸を見下ろした。恐怖は消えていたが、代わりに、深い疲労感と、記憶なき不安が、再び彼の心を支配し始めていた。
(この鎧は、俺が脱ぐことを許さない。そして、俺は、守るべきものがある限り、立ち止まることも許されない)
トランスは、リーゼを背負い直し、剣を鞘に納めた。




