森の異変1
清らかな空気と、藁の匂いが混ざり合う村の広場に、再び重い静寂が訪れた。
そのやり取りを、アーシャは簡素な木の杖に体重を預けながら、静かに見つめていた。彼女の琥珀色の瞳は、トランスのくすんだ鎧にではなく、その鎧が覆い隠す内面の苦悩を探るかのように、じっと彼を見つめていた。兜が外れた一瞬の、あの繊細な横顔が、彼女の脳裏に焼き付いていた。
「騎士様」アーシャは、かすかに頬を染めながら、声をかけた。
トランスは、ゆっくりとアーシャの方を向いた。
「怪我は、もう問題ないのか」トランスは、リーゼを背負ったまま、彼女の足元を一瞥した。
「ええ、もう大丈夫。本当にありがとう。あなたのおかげで」アーシャは微笑んだが、すぐに真剣な表情に戻った。「それよりも、あたしのせいでウリまで危険に晒してしまった。本当にすまない」
トランスは、ウリの方を見た。ウリは、アーシャの足元に寄り添い、「きゅっ」と短く鳴いた。
「貴殿の怪我の原因を尋ねる。何があった」トランスは、簡潔に尋ねた。
アーシャは、息を整え、森での出来事を語り始めた。
「あたしは、いつもウリに会いに森の奥へ行っていたんだ。薬草を採るついでに。ウリは、森の主の子だけど、あたしにとっては昔からの友達だから」
彼女は、ウリの大きな鼻先を優しく撫でた。
「でも、今日は違った。いつもなら、ウリがすぐに出迎えてくれるのに、奴の気配がなかった。その代わりに、ゴブリンの群れに遭遇したんだ」
アーシャの声が、僅かに震えた。
「あたしは逃げた。でも、その途中で……オークに出会っちまった。あの辺りじゃ、オークは珍しい。一体だけだったけど、そいつの粗雑な刃で、足を折られた」
絶望的な状況だった。辺境の人間にとって、足を折られた状態で魔物に追われることは、死を意味する。
「もうダメだって思った時、ウリが来たんだ」
ウリは、アーシャの言葉に呼応するように、唸り声を上げた。
「ウリは、まるで嵐みたいだった。ゴブリンなんて、一撃で蹴散らして、オークにも迷わず突進した。すでに傷だらけだったけど、あたしを背負って、必死で村まで走ってきてくれたんだ」
アーシャは、ウリの首元に顔を寄せた。
「ウリは、あたしの命の恩人さね。村人たちは、ウリが魔物だって恐れているけど、あの子は、誰よりも優しい心を持っているんだ」
ベックは、その話を聞きながら、腰の短剣を無意識に握りしめた。
「ふん。森の主の子供、か。道理で、ただの猪にしては規格外だと思った」
ベックは、一同に向かって冷静に分析を始めた。
「村長の話や、俺が周辺で集めた情報によると、この森には確かに強力な魔物が住み着いている。森の主、と呼ばれる存在だ。そいつらが、縄張りを維持するために、オークやゴブリンといった下級魔物をある程度、駆逐しているはずだ。それが辺境の生態系の均衡というものだ」
彼は、険しい表情で続けた。
「だが、アーシャ嬢の話を聞く限り、オークの活動が活発化している。しかも、ゴブリンとオークが同じ場所で獲物を漁っている。これは異常だ。森の主の支配力が弱まっているか、あるいは、森全体の魔素の流れが乱れている証拠だ」
サラは、青ざめた顔で頷いた。彼女の魔力吸収体質は、環境中の魔素のわずかな変化にも敏感に反応する。
「私も感じています。この村へ入ってから、空気中の魔素が、以前よりも濃く、不純になっているような……」
トランスは、その分析を静かに受け止めた。
「つまり、このままでは、村の安全は保証されない、ということか」
「その通りだ」ベックは断言した。「ロブ殿の依頼は、この村の治安維持と物資供給の護衛だが、根本的な脅威を取り除かねば、意味がない」
その時、背中にいるリーゼが、微かに身じろぎをした。彼女は、トランスの背中から顔を出し、その翠色の瞳をウリに向けた。
ウリは、リーゼの視線を感じたのか、アーシャから離れ、リーゼが乗ったトランスの前に、その巨体を静かに横たえた。
リーゼは、眠気と戦っているのか、瞳は潤んでいるが、その眼差しは驚くほど澄んでいた。彼女は、そっと小さな手を伸ばし、ウリの硬質な鼻先に触れた。
「うー……」リーゼの口から、か細い音と共に、トランスの聖鎧から放出された清らかな魔素が、慈悲のマントを通じて、ウリへと流れ込むのが、サラにはかすかに見えた。魔力同調の作用だ。
ウリは、まるでその魔素に癒やされているかのように、安堵の息を漏らした。
「きゅっ!」
ウリは、立ち上がると、トランスたちに向かって、顎を森の奥へと向けた。まるで、「ついて来い」と指示しているかのようだ。
アーシャは、驚きに目を見開いた。
「ウリ、あんた……森へ案内してくれるのかい?」
ウリは、再び「きゅっ!」と力強く鳴き、トランスの顔を覗き込んだ。その目は、迷いや恐れではなく、強い意志を宿していた。
ロブは、この異常な状況を、面白がるように笑った。
「いやはや、流石は森の主の子供ですな。言葉は通じずとも、我々の状況を理解しているようだ。トランス殿、どうされますか?」
トランスは、ウリの巨体と、リーゼが交わした無言の意思疎通を静かに見つめた。ウリは、アーシャを救った騎士であるトランスを信頼している。そして、リーゼの力は、ウリの持つ生命力と共鳴した。
「森の奥へ向かう。魔物の発生源を確認する必要がある」トランスは断言した。
ベックは、短剣の柄を叩いた。
「了解だ。斥候は俺が務める。ウリは、森の地理に詳しい最高の案内人になるだろう。だが、油断はするな。依頼人であるロブ殿は……」
「村で待機しておきましょう。いつでも避難できるようにしておくのご心配なく」
「へっ、出来た依頼人だと助かるぜ」
ロブは予定外の自体にも臆することなく、淡々と自分でできることを始めた。ベックはその肝の据わった有り様に、思わず鼻をならした。
サラは、ローブの胸元に提げたペンダントを強く握りしめた。
「私も同行します。魔素の異常を、より近くで確認しなければ」彼女は、魔力暴走の恐怖を押し隠し、知識人としての責務を優先した。「ただし、トランスさん。もし私が制御不能な状態に陥ったら、迷わず私を止めてください」
トランスは、一拍置いて、サラの覚悟を受け止めた。
「……問題ない。お前の信念、受け取った」
アーシャは、トランスが森へ向かう決断を下したことに、安堵と同時に、強い不安を覚えた。
「騎士様……」彼女は、トランスの背中に向かって、思わず声をかけた。
トランスは立ち止まり、振り返ることなく、アーシャに背を向けたまま、静かに待った。
アーシャは、杖を握る手に力を込めた。彼が、どれほどの重責と、失われた過去の恐怖を抱えているか、彼女の野生的な感応力は感じ取っていた。
「……無理は、しないでくれよ」アーシャは、それだけを絞り出した。彼女の瞳には、熱いものが込み上げていたが、トランスの重荷になりたくないという、不器用な乙女心が、それ以上の言葉を封じた。
トランスは、その言葉に、わずかに首を傾げた。その仕草は、彼がアーシャの純粋な心配を受け取ったことを示していた。
「……承知した」
走り出したウリに、一行は後を追うように走り出した。
アーシャは、彼らの姿が、木々の影に消えていくのを、ただ見送ることしかできなかった。
「……無事でいてくれ」
彼女の切実な願いは、風に乗り、静かに森の闇へと吸い込まれていった。




