シンの怒り
水面に叩きつけた拳が、水しぶきを上げ、波紋を広げていく。視界は暗転し、不気味な鎖の球体に覆われたリーゼがシンの瞳に映る。
「呪詛をあたしに返した……?」
「……ない……で……」
うっとおしそうに顔を振りながら、走馬灯のように映った過去を振り払う。相手のトラウマを刺激し精神にダメージを与えるシンの呪詛を、リーゼが跳ね返した。ただ、すでに乗り越えたものであったようで、表情をしかめ、剣先をリーゼへと向ける。トランスは動かず沈黙しており、蠢く鎖の球体の中心に俯きながら立つリーゼから発せられる、弱弱しい言葉に耳を傾けた。
「彼を……いぢめ……ない……で……」
「喋れないって話だったんだけどな……。何かされる前に、きっちりとめとくか……な?!」
予想外の事態に次の行動を思案するが、不意に圧されるような空気を感じ身構える。呟くようにしてリーゼの口から魔法が発せられた。
「<奮い立つ勇気>……、<変換>」
「ちぃっ!」
魔法の発動がされたとほぼ同時、シンはリーゼへと駆けだすが、その行く手を満身創痍だったはずのトランスが遮った。
「なんだ? そりゃぁ?」
返答は無言。血の流れ出ていた鎧の隙間からは、青白い炎が立ち昇っている。相変わらず左腕は動かないようでだらりと下げているが、兜の奥の双眸は暗く、その表情は窺いしれない。およそ構えともいえないその姿勢から、鋭い赤色の軌跡が放たれる。
「おいおい、手を抜いてたっって訳じゃ……なさそうだな。動きが違いすぎねぇか?」
悪態をつきながら細剣でその攻撃を捌くが、先ほどと違い余裕がない。受け流し切れずに鎧を掠めたり、避けたと思った次の瞬間にはひやりとする一撃が飛んでくる。まるで別人のような剣戟にシンは冷や汗を流すが、ある程度距離を取ると息を整えた。
「ふざけてんのか? おい?」
怒気交じりに声をかけるが、トランスは無言を通す。リーゼに近づこうとすれば問答無用で攻撃されるが、距離が離れるとぴたりと攻撃が止むのだ。まるでそれは、姫を守る騎士のようであった。すでにリーゼは床に倒れている。しかし、リーゼへとシンは視線を一瞬向けると、更に怒りをあらわにする。
「思いあがるな……湧いて出た力なんて大したものじゃない」
鋭いシンの突きがトランスの鎧の隙間を狙うが、鎧どころか剣で弾かれる。シンの脳裏に浮かぶは黒き炎を得た瞬間の万能感。
「所詮誰も救えない。1人じゃできることなんてたかが知れている」
赤い斬撃にひるむことなく前へと出ることで、受け流したトランスの刃が地面へと叩きつけられる。手を差し伸べ救ったつもりの弱者は、権力者に粛清された。
「怒れば勝てる? ピンチになったら何か目覚める? ならなんでそうなる前に力が出せない!」
突きを警戒してか、手を引こうとしたトランスだが、シンは肩を掴み引き寄せると、思い切り頭突きを見舞う。甲高い金属音が響き、シンの脆い兜にはヒビが入る。人に黒い炎を向けるのを躊躇し、仲間が斬られ絶命した記憶。振り払ったつもりの返された呪詛が、シンを責め立てるが、膝をつかせることはなく、勢いとなってトランスへと襲いかかる。
トランスの鎧の硬さに、意識が飛びかけていると、持ち直したトランスが強烈な踏み込みで肩からぶつかり、その勢いのままに剣を地面から振り上げる。殺意の乗った斬撃は、咄嗟に身体をずらしたシンの左腕を切り飛ばした。
「がああああああ! くそがぁ!」
シンの叫びが聖堂内に響き渡り、トランスの振り上げた剣は、躊躇することなくシンの首を跳ねた。
どっとシンの生首が地面へと落ちる。静寂が支配し、どこからか吹いた風が燭台の青い炎をかき消すと、トランスは膝をつき、五体満足のシンが背中から細剣で突き刺していた。
トランスの刺し傷から青い炎が燃え上がり、振り向き様に剣を振るう。シンは細剣を抜こうとするが、抜けないことに気づくと、手首に肘をぶつけ、取り落とした剣を蹴り飛ばした。
「はぁ……はぁ……やるじゃねぇか……でもよ。認めねぇ……認められるか……」
終始無言。トランスは肘打ちで痺れる右手の感触を開いたり閉じたりして確かめている。
「気に入らねぇんだよぉおおおおぉおお!」
五体満足でありながら、なぜか左腕をトランスと同じように脱力したまま、無手のままシンは殴りかかり、呼応するかのようにトランスも素手で殴りかかる。その攻撃がお互いの頬に届かんとするとき、聖堂の扉が勢いよく開き、静かで、威厳のある声が響いた。
「超過魔法<偽りの楽園>」
「おおおおおおぉおぉおお! おぉぉおぉおおおお!?」
2人の拳は頬を通り越し、そのまま肩を組む。兜で見えないが、困惑した表情で顔を引きつらせながら、シンは魔法を解き、トランスはお互いの傷を治し始めた。
「ふぉふぉふぉ、喧嘩はいかんよ喧嘩は。仲良くの」
神父の柔和な笑い声だけが聖堂内に響いていた。