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20××年8月3日

 ❝片桐家にまた一つの命が生まれ落ちた。名は桂丞。巨大な財閥を抱えるこの家にとってもう一人の後継者候補だ。もう一人の子供の名は佳樹、桂丞の一つ上の兄弟である。

 桂丞は何に対しても平凡並だった。一歩で佳樹は天性の才能を持った子供、必然的に父親や親戚から比べられていた。奴は劣っている、なぜこんなこともすんなりできないのだ、と心無い言葉を浴び続けられては耳を塞ぎたくなった。出来ればクローゼットの扉を開けてワンダーランドにでも逃げ込みたいなと幼い頃に何度も思ったがそれはただ単なる現実逃避にしか過ぎない。

 そこから兄に勝ちたいという思いが芽生え始めていた。❞

 パソコンのタイピングをいったん止めて時計の針を覗き込むと既に夜の7時を回っていた。窓から見える景色は既に蛍のように点された街灯達が一気に存在感を放ち始める。ここからは私達の時間だと言わんばかりに眠りについた太陽とは程遠い代替わりとなっていく。ずっと入れっぱなしの集中モードのスイッチを切れば眠気が一気に襲い来る。

桂丞は一度パソコンを閉じてベッドの上に転がり夢の世界に飛び込んだ。


~~~。

 

 彼が高校2年生の春、都内にひっそり存在する高等学校に進学して1年が経過していた。所属している運動部にレベルの高い新たな卵たちが入部してくる。先輩との別れと後輩との出会いが一気に到来する季節。並木に咲き誇る満開の桜が新入生を歓迎しているようにも思えた。

 桂馬は毎日と欠かさず苛んでくる劣等感の泥水に溺れる日々が続いていた。授業中も部活動の一環として入部した運動部でも、帰宅した後でも、どうすれば拭い切れるのか思考回路をフル稼働させる。頬杖をついて窓際の席から見えるグラウンドを凝視していた。

(部活は普通に楽しいけどな…)

「片桐!」

 先生の怒鳴り声でハッと我に返った。

「は、はい」

「何をぼさっとしているんだ、次の回答はお前だぞ」

「あ、すいません」

 クラスのみんなの笑い声が教室中に響く、恥ずかしさを紛らわすためにさっさと席を立って黒板に書かれた数学の応用問題を解きに行った。

 その途中で机の列に挟まれた通路を通っていると

「彼女のこと考えていたのか?」

「この幸せ者~」

 クラスの友人達から囁くように揶揄が飛んできて幼稚的に反論した。

「うるせえ、グラウンドに埋めるぞ」

 眼鏡を掛けた細身の教師から白いチョークを受け取り、指先に粉を付着させて文字を書き始める。片手のノートをちらっと見ながら応用問題を解く。次々と文字を書いていく内にチョーク置きや床に白い粉が料理にかけられる一つまみの塩のように降り注いでいく。自身満々そうに教師にチョークを返したが、怪訝そうな表情で見られていた。

「片桐、ここ間違えているぞ」

「え?」

 拍子抜けた声がポロっと飛び出し、また教室中が大爆笑に包まれた。恥ずかしすぎてもう帰りたいと心底思った。

 学校中に授業終了のチャイムが鳴り響きいつも通り起立、礼、着席の日直から放たれる号令を通して一つの授業を終えていく。

 6時限目前の休み時間、先ほど数学の授業で揶揄ってきた奴が桂丞の視界に入る。

「どうしたんだよ、片桐~。優等生のお前が珍しいな」

「最近疲れているんだよ」

 他人からすれば言い訳の常套句にも聞こえるが桂丞にとっての真実を述べれば確かな答えだった。春はとっくに過ぎて初夏に待ち受ける中間試験に向けての勉強、そして小さい頃から変わらずいくら努力しても目標へ届かないという劣等感。

「部活に勉強に彼女とデートか、羨ましいな、リア充この野郎!」

「フッ、妬いているのか」

「羨ましいだけだよ」

「と言いながら盛大に爆発しろとか思っているんだろ」

 ギクッ…。図星をつかれて表情が一時停止する友人を見て少し笑ってしまった。それとお前にも早く青春が訪れると良いなと軽く返しといた。

 グラウンドに眼をやると彼女が所属しているクラスの連中がグラウンドに集合している。勿論桂丞の彼女も含めて、今日は体力測定で100M走と走り幅跳びをやると彼奴は言っていたか。グラウンドを凝視していると走りたいという気持ちと禍々しい感情が心の中を占めていく。視界の外部から黒いインクでできた模様がガリガリ削り込んでくる。

「何故こんなこともできないんだ」「佳樹に比べてお前は…」

 今考えてもどうしようもないな。どうでもいいことに噛り付きすぎて変なカロリー消費したくない。

チャイムが鳴り響き、クラスのメンバーが一斉に席に着き始めた。「宿題やってねー」「授業始まっちゃう」「早く帰りたい」「眠い」「ちょっと教科書見してくれる?」

 今日終わったらどうしようか…部活休みだし…。帰っても嫌な親父の仏頂面を見るだけでも嫌気が差すから友達とゲームセンターで夜遅くまで遊んでくるのもありだな。警察に補導されそうになったら逃げるけど、まだ高校生だし。

 退屈な授業内容を半ば馬の耳に念仏状態で聞き流していた。ペンをノートに滑らせ、板書される文字を只管模写していく、また後で復習すれば記憶として付いてくるだろうという優等生らしからぬ謎の余裕が湧いてきた。

「片桐~今日暇?一緒に遊びに行こうぜ」

 友人3人が俺を誘ってきた。

「ああ、うん。いいけど」

 学校から少し離れた大通りに向かって歩き、まずCDレンタルの店に制服姿のまま入った。

 趣味の小説作成のお供に何か買っていこうと思った。友人たちと一緒に並んでいるCDの背表紙をしげしげと眺める。

「お?Bremenの新しいアルバム出てる!」

「Bremen?」

「知らない?最近人気上昇中のアーティストだよ」

「へ~」

 朝のニュース番組でも特集されていたが稀に見る天才たちとテロップに書かれていたのをよく覚えている。

手に取ったCDにはOut Siderと赤と青のマーブルカラーを基調とした色合いの文字で書かれたタイトルに高層ビル群に背を向ける目までかかった髪の男性のイラストが描かれていた。

 稀に見る天才ね…。別に個人的な恨みはないがそんな無神経な言葉に嫌気が差した。

「才能なんかあれば苦労しない」

「ん?どうした?」

「何でもない」

 作り笑いで返したが、眼は完全に色が沈んでいた瞳は落日した後の空のよう。CDの敷き詰められた商品棚にあったBremenのアルバムをそっと引き抜いた。ちょっと聞いてみるかな。聞かず嫌いのままで終われないと思い、買って部屋の中でゆっくりと聞くことにした。

「ただいま」

 学校帰りに友達と遊んで帰ってくればすでに20時を時計の時針が回っていた。先に同じサークルを何周もしている秒針、分針は容赦なく追い越し抜かしを繰り返している。

「おっ、おかえり桂丞」

「ただいま…」

 出迎えたのは兄の佳樹だった。黒い髪に茶色の瞳、Yシャツと学校の制服ズボンをそのまま家でも着ていた。頭脳明晰、運動神経抜群、片桐財閥の後継ぎとして期待されている天才エリート、自分としては尊敬しているがその思念をオセロの如く裏返せば真っ黒い感情が蠢いている。

 出身校のレベルも、同じ部活の成績も俺は県大会優勝、佳樹は全国優勝している。同じ優勝でも何か後味悪かった。例えるならばお祝いに出されたケーキにまずいものを仕込まれて食っている気分に近い。

「遅かったな、友達と遊んできたのか?」

「…」

「いや別に咎めているわけじゃないさ、今ある時間を友人と過ごすのはいいことだ。今じゃ受験戦争でそれどころじゃなくなっているけどね。それと晩飯作ってあるから早いうちに食べな」

「おう」

 テーブルに置かれてラップで熱気を逃さないようにされている大皿のおかず、中身はチーズ入りハンバーグだった。多めのシーザーサラダ。味噌汁が入った黒い鍋がコンロの上で冷めきっていた。

 炊飯器から多めにご飯を盛り、再び温めた味噌汁とハンバーグを定位置に置くと「いただきます」の一言で食事を開始する。

 勉強と遊び疲れた体に兄の作った料理が身に沁みる。いつ食っても美味い。

 15分ほどで平らげて食器は全て自分で洗いきったら勉強タイムといこう。脳内に糖分が行き届いている絶好のタイミングだ。この機会は毎日あるわけだが、一秒たりとも逃すわけにはいかない。

 勉強机に向かい、買ってきたCDの曲をウォークマンに転送してからヘッドフォンを取り付けて勉強を開始する。聞くのはもちろんさっき購入したばかりの“Bremen”の“Out Sider”聞き始めてから不思議な感覚に襲われた。独特のメロディ、歌詞、ボーカルの声がその世界に連れていく。ペンを動かしながら全曲聞き終えて天才とメディアに言われる理由がよくわかった気がする。椅子の背凭れに寄りかかり、天井を見た。昔天才と謂われ続けた結果、自らその人生に幕を閉じたアーティストを思い出したのだ。

 死因は部屋のドアノブに括り付けられたネクタイによる首つりだったという。

「僕は天才じゃない。もっと平凡に生きたかった」と遺書を残して自殺したらしい。世間のプレッシャーからか、彼をよく思わない所謂アンチと呼ばれる人たちの嫌がらせか、今じゃ時代に取り残されて忘れ去られようとしている事故だ。

「天才ってどういう気分なんだろうな」

 世間のステータスから抜き出た大きな峰。その存在しかいられない世界ってどんな感じだろう、そこから景色は、どうなんだろう。彼は虚空に手を伸ばして静かに空気を握りつぶした。

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