9.魔法使いの家
シーディの後を追って、雪道を歩くこと約15分。
バスタブが自立歩行してくれたおかげで、百合香は、バスタブの縁に座り、ゆっくりと足湯につかって暖かく移動することができた。もちろん、魔力持ちのマントが変化したファーコートを羽織りながらだ。
そして、たどり着いた場所は、丸太で作られたログハウスのような家だった。
「とりあえず、そのバスタブは玄関先に置いといて、中に入ったら? えっと、そのバスタブの名前を教えてもらってもいいかな」
「バスタブの名前?」
馬っ鹿じゃないの。バスタブにわざわざ名前を付けてる人なんていないわよ。百合香は口をとがらす。
けれども、シーディは、
「うん、魔法の力を持っているなら、そのバスタブだって、立派な魔法使いだ。魔法使いにとって名前は、とても大切なものなんだ。敵には絶対に真の名前は教えちゃいけないんだけど、俺にだったらいいだろ」
いいだろって言われても、まだ、こいつが完全に味方と決まったわけじゃないわ。
百合香は戸惑う。……が、
「”リンナイ”っていうのは、どう?」
「”リンナイ”? どういう意味?」
「意味なんて……別にいいじゃん。」
それが、バスタブの製造メーカーの名前だとは、シーディにはちょっと伝えづらかった。
「まっ、いいか、なら、このバスタブの名前は、今日からリンナイだ。リンナイ、さっきは助かったよ。また、色々と世話になるかもしれないけれど、その時もよろしくな」
玄関先に残したバスタブに軽く手を振ると、後で雪見の露天風呂にでも入ろうと、ちょっぴり楽しみにしながら、シーディは百合香を家の中に招き入れるのだった。
* *
家の中は狭く、玄関から入った場所が直にダイニングキッチンだった。けれども、思いのほか清潔で、シンクの上にある窓辺には、様々な良い香りがするハーブや薬草の小鉢が置いてあった。そこだけ見ると小洒落た主婦の台所みたいだ。
ダイニングの面積の大部分を占めているのは、中央に置かれた木製のテーブルと、壁際に供えられたふんわりしたソファ。そして、一際目をひく、天井にとどく程の高さの本棚。その書架には古そうな背表紙の本がびっしりと並べられていた。
「ふぅん、ここがシーディの家かぁ。思っていたよりかは……ましね」
「まし……って、どうせ、魔法グッズがいっぱいの怪しい小屋を想像してたんだろ。とにかく、ファーコートのままじゃ何だから、俺の服を貸してやるから着がえたら」
シーディは近くの衣類籠からくしゃくしゃに丸めたシャツを引っ張り出して、百合香に差し出す。
「ほら、ちゃんと洗濯はしてあるし」
「え~、やだ。色も黒くて汚いし。せめて、白いシャツがいいな」
「魔法使いは”白”なんて着ません! ”白魔女”は別として」
”白魔女”! その言葉に、身を乗り出して来た百合香を見て、シーディは、あわてて話題を切り替えた。
「えっと、俺の服がお気に召さないなら、お前が羽織っているファーコートにお願いすれば。ただし、それは元々は俺のマントだから、それを貸すのは今日だけだぞ。明日、雪が止んで、町で服を買ったら、すぐに返してもらうからな」
「お願いって、このファーコートに?」
「そう。適当に頭の中でお好みの服を想像して、声をかければ、そいつは勝手に変化してくれる」
「声をかけるって言っても」
「”お願いっ”でも。”よろしくっ”でも、何でもいいよ。そいつの魔法力は優秀だから何でもござれだ」
”俺”とは違って……ね。
シーディは小さく呟く。そんな彼の拗ねた気持ちなど、つゆも気づかず、
百合香は頬を紅潮させた。だって、魔法のマントに命令(お願い?)を下せる日が来るとは思わなかったからだ。心臓がどきどきする。
「シーディ、だったら、私にこのマントの名前を教えてよ」
「はぁ? マントに名前なんてつけてねぇよ」
「だって、さっき、あんたが言ってたことじゃないの。このマントだって、魔法の力を持ってるなら、立派な魔法使いよ。名前が必要でしょ」
シーディは、しばし黙考する。たしかに、バスタブも然り、マントのような魔法のグッズにだって、名前はないよりあった方が魔法力は増すはずだ。
「なら、ベルベットってことで」
こくんと頷くと、シーディが適当に答えたマントの名前を百合香は、頭の中にしっかりと刻み込む。そして、すぅっと、息を深く吸い込んだ。よしっ、願うわよっ!
「ベルベット、お願いっ、私を着替えさせてぇ!」
そのとたんに、鈍色の光が百合香を包み込んだ。ファーコートに袖が現れ、裾の丈が伸びてゆく。零れ落ちた光の残滓は黄金色となり、袖口の金糸の縁飾りになった。鈍色の光は徐々に明るさを増してゆき、それは、純白のドレスに色を変えた。
うわぁ、これって、シンデレラの変身シーンみたいじゃないの。
百合香は夢の舞台に酔いしれる。
そして、数秒後、
願ったり叶ったりの魔法の服を纏った百合香が、お目見えしたのだ。
「はぁ……それが、ユリカのお好みの恰好かよ」
確かに可愛い。品もある。とても様になっている……いや、綺麗と言える!
「けど、それって、まるでお姫様、みたいじゃんか」
シーディは、ため息をつかずにはおれなかった。
”明るい亜麻色のストレートの長い髪に、銀のティアラが輝いている。
純白のドレスに金の縁取り。
ロミオとジュリエットのヒロインのような可憐さ”
その時、頬を染めながら、彼に視線を向けてきたお姫さまは、そんなロマン溢れる出で立ちの ― 百合香 ― だったのだから。