12.命の鼓動よ、集結せよ
俺は灰色猫。この世で最高の魔法使い。
手に入れたと思った瞬間に、その矜持は指の隙間からこぼれ落ちていった。両手と両膝を雪の上につくと、小柄な魔法使いは、がくりと首をうなだれた。
「一番、必要な時に魔法の力が発動しないなんて、俺はやっぱり、とるにたらない者だったんだ」
悲しさと惨めさが、細かな雪の冷たさに混じり合って、頭の上に降ってくる。けれども、寒さを遮ってくれた灰色のマントは消えて、もうここにはいない。
目前にあるのは、銀雪が降り積もる広い雪野原だけなのだ。
空虚な眼差しを自分の体に落として、ため息をつく。
俺に残された物といえば、愛用している灰汁色の革手袋にブーツ。24時間風呂の”RINNAI”のネームプレート。しかも、本体のバスタブは俺を守るために砕け散ってしまって……
「リンナイ、ごめんな」と謝ったところで、黄金色に輝いていたネームプレートも、今は光を失ってしまっている。
灰色猫は、そっと、足元に落ちたネームプレートの"RINNAI"の文字を手で撫でてみた。
「……いや、待てよ。……これって、まだ、温かいぞ」
それが証拠に、ネームプレートが落ちていた場所の雪だけが四角い形に溶けている。
革手袋をはずずと、灰色猫は地面にそっと手を触れてみた。
とくん、とくん、とくん、とくんと、
「鼓動を感じる……。何だ、これは……?」
周囲を見渡してみると、雪面の所々にも雪が溶けて、ほんの少しだけ茶色い地面が外に姿を現している箇所がある。
その時だった。
”ふぁあ、今度こそ、本当の雪解け時が来たのかしら”
ひょっこりと厚い雪を押しのけて、土の下から小さな緑の新芽が顔を出したのだ。まだ、寝ぼけ眼の小さな芽は、きょろりと辺りと見渡すと、
”きゃああっ、あの時の物凄く怖い魔法使いっ!”
真上から見つめてくる漆黒の眼差しに気づき、慌てて地中に身を隠した。
「あっ、待ってくれっ。俺、何もお前に悪さなんてしてないだろっ」
”嘘よ、だって、わたし、見たもんっ。あんたが氷柱の塔に、下から這い上がる稲妻をお見舞いしたところを”
それを聞いた灰色猫は、以前、白魔女が建てた氷柱の塔を壊すために、自分が繰り出した必殺技 ―逆さ雷― を思い出した。土の上におそるおそる顔を出した緑の芽を怖がらせないように、出来得る限りの優しい声音で語りかける。
「俺の名前は”物凄く怖い魔法使い”じゃなくて、”灰色猫”だ。もう、白魔女はここにはいないし、俺も力を失くして、もう、あんな怖い魔法は使えないから、逃げないでここにいてくれよ。俺……たった一人きりになってしまって、すごく寂しかったんだ」
”ほんとうに? なら、他の仲間も呼んできてもいい? フクジュソウとか、スノードロップとか、みんな、春になるのをずーっと待って、土の中に隠れてたんだから”
「春? でも、今はまだ冬で……」
”あんた、私の名前を知らないの? ”フキノトウ”よ。春を告げる一番草の。ほら、噂をすれば、話を聞いてきた仲間たちが我慢できずに外に出てきた”
その言葉に灰色猫は、辺りをぐるりと見渡した。厚く積もった雪を押しあげた緑の新芽が、あちらこちらから顔を出している。
「……俺がついさっき感じとった鼓動は、こいつらの芽生えの音だった……のか」
命の芽生え。そうか、長い冬がやっと終わるのか。
俺は、その音をもっと直に感じ取りたい。
突然、履いていたブーツと靴下を脱ぎ捨てて、灰色猫は雪の野原に立ち上がった。
とくん、とくんと、素足に命の鼓動が伝わってくる。
肌を刺すような雪の冷たさが、かえって頭を冴えさせた。全身に未知の力が漲ってくる。握りしめた右の拳の中に突然、湧き上がり、溢れ落ちた光が、それを物語っていた。
そうだ、一人一人の名前を呼ぶ必要なんか、なかったんだ。魔法の国の皆の命は、この国のあらゆる場所にすでに根付いている。
灰色猫は鮮やかに笑った。
今なら作れる。俺だけの魔法の呪文が。
握りしめた右の拳を真っ直ぐに持ち上げて、声をあげる。
「伝え命ぜよ!」
それから、灰色猫は、ゆっくりと手のひらを前方に開いた。
矢のような閃光が、曖昧だった大地と天の境目に、線を引きながら駆け抜けて行く。
地平線の彼方に消える光を見届けてから、灰色猫は、空に向けて朗々と声をあげた。
どの魔法書にも書かれていない ― 自分の心の中で組み上げた魔法の呪文を。
― 東方の蒼海、西方の霊峰、北厳の大地、南空を渡る赤きアルファイド
聞け、我は眠れる大地を揺り起こす先導者。全ての緑生は我が生命の拠点なり。
四神により生み出され、目覚めを待つ生命の種子よ、ここへ来たれ。
大地を護る日の光よ、その芽生えに生命の息吹を与えん ―
これまでの彼のものとは思えぬような玲瓏とした声が、天地四方に深く澄みわたる。すると、空から、ちらちらと銀色の光が降ってきた。
上空に広がった灰色の雲の間をすり抜けながら、小雪のように降りてくる光の粒。
灰色猫は、その光の粒の一つ一つが、空を明るく照らし出す様を認めると、こくんと一つ頷いた。
芽吹いたフキノトウを潰さないように、前に一歩、進み出る。灰色の雲を溶かして、青く晴れてゆく空と光の乱舞に、瞳を煌かせた魔法使いは、
”萌芽”
小さくそう呟く。
それから、大地が震えるほどの力強い声でこう叫んだ。
「命の鼓動よ、集結せよ! 魔法の国の生きとし生ける命を、息吹を、夢を! 再び、此の地へ呼び戻せ!!」
その瞬間に、白いだけだった世界が、大きく息づいたのだ。




