11.春よ、来い
透けていた手が、元に戻ってきた……。
灰色猫は、たった一人だけ、消滅の難を逃れた自分の体を苦い気分で見つめていた。
先程まで、傍にいてくれたベルベットはもう姿が見えない。極寒の中でも、ほのかな温かさが残っているのは、あの健気な乙女の魔法の力か、それとも、俺が握っている24時間風呂のネームプレートの効能なのか。
目の前に延々と広がる白しか色のない世界は無機質で、まるで白紙のノートみたいだった。書いても書いても端から文字が消えてしまう、夢も希望も綴れないノートだけれども。
― あなたが皆の名を呼んで。誰にも知られない世界でも、あなたが知っていれば、それは一つの国になる ―
ベルベットと、思いがけず甘い雰囲気になって、その気になってしまったが、それって、森羅万象、この国に存在した名前を全部、声にして叫べってことなのか。
そんな御大層な名簿なんて俺は持ってないし、始めたが最後、それには途方もない時間がかかるんじゃないのか。
その時不意に、空に薄い雲が広がりだしたのだ。細い雲間から日の光のような微かな明かりが漏れている。光の影が白い空の一角を暗く翳らせた。
「灰色の雲が……」
白にも黒にも染まらない灰色。自分自身の名と同色の雲を見上げて、灰色猫は深い息を吐く。
煤けた色でも、のっぺらぼうのような白い空を見せつけられているよりは、ずっと心は楽になる。
その時、灰色猫の頭上から甲高い鳥の囀りが聞こえてきた。
” Why isn't there a red rose in this garden?
(どうして、この庭には 赤いバラがないのでしょう)
If there is one red rose,
(赤いバラが一本あれば)
that person of mine
(私のあの人は)
surely can be happy ... ”
(きっと幸福になれるのに・・)
褐色の尾を振るわせながら舞い降りてきた鳥は、おどけた調子で歌を歌う。
夜啼鳥!
「クソ鳥っ、性懲りもなく、また現れやがった。とっとと失せろ! お前の棲家だった”ナイチンゲールと紅の薔薇”は俺が燃やして、もう魔法書としては機能しないぞ。あの本の結末はバッドエンドだ。赤いバラを手に入れたって、結局は誰も幸せなんかなれないんだよっ」
ナイチンゲールはチチチッと囀ると、大慌てで空間の裂け目の中に身を翻す。
「本当にムカつく鳥だな。あいつは、俺たちの世界をかき回すだけかき回して、都合が悪くなると、別の世界に逃げて行きやがる」
あんな胸糞悪い児童書から魔法の呪文を取り出していた俺も俺だ。今なら分かる。想いを伝えるのに、見せかけの品や言葉などいらないってことが。
「白いバラは白いままが綺麗なんだ。赤いバラなんて、もういらない!」
すると、灰色猫の足元の無機質だった白が、さくりと音をたてたのだ。
えっ、これって雪……か?
上を見上げれば無風だった空から氷と雪混じりの寒風が吹いててくる。
魔法の国に戻ってきた雪景色に灰色猫は目を瞬かせた。その時、空から、くるくると風に舞いながら、灰色猫の手の上に落ちてきた一輪の白い花。
「白い薔薇? ユリカ、これって……ユリカの化身……なんだろうか?」
大好きだった少女の胸で咲いていた白い薔薇が清楚な香りを醸し出している。小柄な魔法使いは、薔薇の花を手にしたまま、雪の大地を踏みしめる。
冷たいけど、生きてる感じ。そう、この感触を足元に感じていると、俺の魔法の力が増幅されてゆく気がする。今、皆の名前を呼べば……、魔法の国をここに戻すことができる。多分だけど。
いや、大丈夫だ。俺はこの世で最高の魔法使い ― グレイ・マウザー ―。絶対に失敗なんかするわけがないんだ!
灰色猫は決意を固めた。
「ユリカっ、ベルベットっ、リンナイっ、京志郎っ、ミラージュっ……あと、城下町とか俺のご近所とか、動物たちとか、空と大地と海も、その他、いろいろっ!」
空に向かって声をあげる。けれども、一々、名前を呼ぶなんて、本当にキリがない。だから、とにかくだな、ここは全部まとめて……
「ここに戻れ、魔法の国のすべての者たち! 」
だが、
「駄目か……」
目前にはちらちらと降る粉雪が舞うだけで、延々と広がる雪景色以外には、特に何の変化も起こらなかったのだ。
* *
「ちょっと、ちょっと、私はあいつらみたく小説の中の人物じゃないんだからね。こんな場所に閉じ込められるなんて、理解不能っ!」
”謎の声の主”は突然、部屋ごと閉じ込められた白い空間で、地団駄を踏んでいた。
まさか、白魔女か灰色猫に魔法をかけられてしまったのか?でも、実在している私にどうして魔法がかけれるのよ? 特に灰色猫なんて、有名でも何でもなくて、単に私の書いたファンタジー小説のキャラにすぎないのに。
文章を修正したくても、パソコンはフリーズしたままで、今の状況に手出しはできない。
こんな怪しい状況では、下手に外には出ない方がいいのかもしれない。いや……出たくないっ、寒いしっ。
謎の声の主は、どこに届くかも知れぬまま、窓を開くと大声で叫んだ。
「灰色猫っ、もう、あんたに全部、任すからっ。だから、さっさと、こんな状況を終わらせて! それでもって……いい加減に」
春よ来い!
明けましておめでとうございます。
灰色猫と百合香からご挨拶。




