10. この世で最高の魔法使い(挿絵あり)
誰もかれも、どこもかしこも、何もかもが、失われた場所に、灰色猫はぺたりと座り込んでしまっていた。
ここは、真っ白で寒いだけの世界。
空はあるのか、どこからが雪の丘なのか、古代魚たちが飛び出してきた海なんて、本当にあったのか。
空と大地と海の境界線は? 目視だけではまったく区別がつかない。ましてや人の姿なんて、人っ子一人、見えやしない。
圧倒的な白の中に取り残された孤独。その責め苦に唇をかみしめながら、灰色猫は、自分自身の手をじっと見つめた。
透けてきてるよ……な。
「俺もじきに消えてなくなる……すべてが、ジ・エンドってことか」
ユリカ……、お前とも、もう二度と会えないのかよ。
泣きたい。マジで。
「ちぇっ、何がこの世で最高の魔法使いだよ。”取るに足らない者”だった俺が、身の程知らずな夢を持ったばかりに、結局は大切なモノを全部、失っちまった」
その時突然、白い空間を引き裂いて、ふわりと灰色の影が宙に浮かび上がった。失意のどん底にあった魔法使いは、ドレスの襞を翻した美しい乙女の姿にはっと目を見開く。
グレーサファイアを思わせる澄んだ瞳がこちらを見下ろしている。
― そんな風に自分の力を疑わないで。あなたは自分が思っているよりも、ずっと大胆で、強くて、賢い ―
「ベルベットかっ? お前っ、まだ、居てくれたのか!」
だが、浮いた場所から伸ばしてきたベルベットの両手も徐々に薄れてきている。一瞬、胸にわいた希望を失い、灰色猫は肩をおとす。
― 顔をあげて下さい。まだ、皆を呼び戻す策はあります。あなたと私が消えぬうちには ―
「どういうことだ?」
― あなたの背中の流星刀で、私の胸をもう一度貫いて! あの黒魔法を使えば、白魔女の”滅びの歌”の効力を逆流することができる ―
「そんなこと……出来るもんか! それに、封印していた記憶を全部、思い出してしまった俺には、もう灰色猫の力なんて残ってない」
― また、そんなことを言う。いつまで、あなたは、そんな枷をかけ続けるつもりですか。あなたは、無意識に自分に魔法をかけて、自分の力の限度を定めてしまっている。それは、大魔法使いを名乗って、この国を背負うことを躊躇っているからではないのですか。もう、無駄な迷いは捨てて下さい。記憶なんて関係ない。あなたは、その気になれば、何時だって、どんな時だって魔法が使えた。だから、私を供物にして、もう一度、黒魔法を使って! そして、その力で皆を、この国を、ここへ呼び戻すのです! ―
一瞬、灰色猫は口を閉ざして、自分の胸に問いかける。
けれども、首を横に振った。
「嫌だ。 俺は、ずっと一緒にいてくれたお前が血に染まる姿なんて、もう二度と見たくない。それに、魔法の国を取り戻すほどの大きな黒魔法を使えば、俺だって、どうなるか分からない。それは”魔王”の所業だ。そんなもんに、なりたくもない」
灰色の乙女は瞳を潤ますと、小柄な魔法使いの襟元に頬を寄せて、そっとその体を両腕で包み込んだ。
― あなたという方は、本当に真正直で、底無しのお人良しで……。でも、ありがとう。私を大切に思ってくれて ―
見つめてくる超美形の乙女の顔がすぐ、目の前にある。さすがにこれには、どきりと焦る。そんな灰色猫の慌てた顔が好ましくて、ベルベットは強引に彼の体を自分の方へ引き寄せた。
「えっと……、これって、俺、どうすれば……」
― こうすればいいのです。たとえ、この身が消えてしまっても、私の心は永遠にあなたのモノ ―
そっと唇を合わせてきた乙女を拒む気にはなれず、なすがままに口付けを交わす。
だが、待てよ、待て、待て。
灰色猫よ、冷静なれ。けっこう、胸がときめいてしまったが、ベルベットって、お前のマントなんだぞ。それに、俺……ユリカとは、色々と未遂のままなのにっ。
ベルベットはにこりと笑みを浮かべる。到底、あの娘には敵わないけれど、一瞬でも灰色猫の心と触れ合えたことが嬉しかった。そのことが新たな魔法の力を自分に流し込んでくれたことも。
やはり、あなたは、この世で最高の魔法使い。
ベルベットは言った。
― 黒魔法はもういりません。『ナルニア国物語』の中の白魔女のように、誰もが知っている名著の中の人物でなくても、一人一人に名前さえあれば、それを大切に思う誰かがその名を呼んでくれれば、私たちはまた蘇ることができる。だから、あなたが皆の名を呼んで。誰にも知られない世界でも、あなたが知っていれば、それは一つの国になる ―
ユリカが最後に残した”RINNAI”のネームプレートが、灰色猫の胸元で黄金色に輝きだした。
― 灰色猫、この国の皆が、姿が消えた後もその名を呼んでいるのが分かりますか。だから、あなただけは、ここに残って。私はあなたを全身全霊で守ります。けれども、白魔女の魔歌を打ち破る奇跡を起こすことができるのは、あなただけなのですよ ―
そう言い残し、灰色猫を抱き寄せたまま、ベルベットの姿も見えなくなってゆく。
姿は見えぬとも、温かな布地の感触は、肌に残りつづけていた。
名前を呼ばれている。ああ、聞こえるさ。自分から名乗るでもなく、そう運命づけられていたその名前が。
灰色猫と。
「消えたくない。生きていたい。この世界に存在していたい!」
その時、初めて、小柄な魔法使いは、自分にかけていた全ての限度をはずすことができたのだ。
 




