9.滅びの歌
”滅びの歌”
それは、白魔女の最後の切り札。手札が切られた瞬間に、この世のすべてが消え失せる。
駄目だ……終わりだ。俺には、もう、何もできない。
空を見上げると、首だけが残った白魔女が、ぽっかりと宙に浮かび上がっている。
灰色猫は、強く唇を噛みしめた。「怖い」と、震える百合香に手を伸ばして、抱き寄せるしか、もう、なす術がなかった。絶望が諦めに変わってゆく。けれども、怯えた心を百合香に知られたくはなかった。
唸りをあげていた海鳴りの音が、急に途絶え、オハンの盾に召喚された古代魚の青い影が、ゆっくりと空を回遊し始めた。
銀色の歯に半壊させられた戦車を諦めたのか、近衛兵長ミラージュに肩を借りながら、黒ロングエプロンの少年がこちらに歩いてくる。けれども、二人とも傷ついて、足取りはひどく覚束ない。
晴れているのに、紙吹雪のような雪片がはらはらと空から落ちてくる。雪片に照り返した日の光の中で、白魔女は両の瞳を閉じたまま、穏やかに微笑みを浮かべていた。
切れ長の目を細めて、灰色猫は天を仰ぐ。
失われたはずの白魔女の体が、首の下にうっすらと白く、オーロラのように輝いて見えるのは、光と影の陰影が作り出した幻だろうか。その姿は、妙に神々しかった。
聖母にでもなったつもりかよ……。
……が、白魔女が口を開いた時、背を貫くような悪寒が走った。
始まってしまった。
― 史上最悪の魔歌の調べ ― が。
鼓膜をゆらし、頭痛を引き起こす低周波は、不吉そのもの。
― Spirit goes to words
(言葉にやどる精霊よ)
I sing
(我は歌う)
A requiem that tell the end of the world ―
(この世の終わりを告げる鎮魂歌を)
「うわあああっあああっ!! 嫌だっ。止めてくれっ」
「マウザーっ、どうしたのっ 」
両耳を抑えてうずくまってしまった小柄な魔法使い。
慌てて彼の背に手を伸ばした百合香は、うろたえるばかりだ。
「嫌だ、嫌だ、嫌だっ!」
「マウザーっ!」
百合香には、”滅びの歌”は聞こえない。その歌の言葉さえも、白魔女の口から出た瞬間に滅びて消え去ってしまうのだから。だが、灰色猫の脳裏に魔歌の旋律は流れ込み、その言葉は記憶の中に、否応無しに刻み込まれていった。
― Death will come soon to hush us along.
(死は静かにすばやく私たちにやって来る)
Dedicate everything to the king of ruin
(私は破滅の王に全てを捧げる)
And all I wish
(そして、私が望むのは)
Dream again in the lost darkness
(失われた暗闇の中で、もう一度夢を見ること)―
”Vanish away”
(消滅)
最後の一節を言い終わると同時に、白魔女の姿はかき消されたように見えなくなった。
浮遊する濃密な雪片の塊が、日に照らされて、ダイヤモンドダストの輝きを放っている。渦を巻いて古代魚の青い影を飲み込んだ雪の光が、突然、大きく広がる。辺り一面は光とも雪ともつかぬ、真っ白な世界へと変貌し始めた。
「消えてゆく? 僕の魔法の国の全部のパーツが……」
唖然と消失する景色に目を向ける京志郎と、注いでくる光を払いのけようと剣を振るうミラージュ。けれども、差し出した手元から、その姿も消えてゆく。二人は北の丘に向けて声をあげた。
「姉ちゃぁぁんん……」
「姫ええっっ……」
― 灰色猫っ! ―
”止めてくれ。そんな風に俺の名を呼ぶのは”
頭を抱えたまま、動こうとしない灰色猫の肩を百合香が揺さぶる。
「マウザーっ、京ちゃんとミラージュが消えちゃうっ。こんなの、駄目っ。二人を助けてえっ!」
消えてゆく弟と婿候補?の姿を目の当たりにして泣いている少女。
”泣くなよ、ユリカ。俺たちだって、じきに消えて、いなくなるから”
灰色猫は、その言葉を心の中に飲み込むと、そっと少女の頬に伝わる涙を手でぬぐう。それから、あえて、強い口調でこう言った。
「笑って、ユリカ。俺がなんとかするから」
俺は世界で一番の嘘つきだ。それでも、この世の最後に見るのが、大好きな娘の泣き顔だなんて、悲しすぎる。
やがて、百合香の足元までが薄れだした。その時、少女が浮かべた綿菓子みたいに柔らかな笑顔。手を灰色猫の胸に乗せて百合香が言った。
「グレイ・マウザー。きっと、私、また……」
それが、灰色猫が聞いたユリカの最後の声。そして、最後に見た姿だった。
* *
「なっ、何なのっ、地震っ?」
震度6? いやいや、今の揺れは6強くらいはあったでしょ。
避難していた机の下から、恐る恐る顔を出した”部屋の主”は、思わず、あれっと声をあげる。
先程まで、WEB小説を読んでいたパソコンの画面が真っ白になってしまっていたからだ。
「これ、停電してるわけじゃないよね。ディスプレイが壊れたってこと?」
自作の小説が勝手に書き換えられてたり、作者の自分が出禁になってしまったり、今の地震も灰色猫が、あちらの側から仕掛けてきた攻撃だったりして……。
それにしても寒すぎる。外の様子が気になり、部屋の主は、窓の外を覗いてみた。そして、口をあんぐりと開いた。
「何……これ」
視線の先にあったのは、全てが消え失せた白の世界。
そこにあったのは、今、その"部屋の主"がいる ― たった一軒の家 ― だけなのだったから。




