3. 救いの女神
皇宮の出口で、京志郎率いる一行は八方塞がりの状態になっていた。
閉ざされた視界の向こうから、白魔女が灰色猫をなじる狂犬めいた叫び声が聞こえる。その声をBGMに、ホワイトアウトの中で戦っている小柄な魔法使いのことを思うと、百合香は今にも泣きだしてしまいそうだった。
すると、雪嵐が突然凪いだのだ。とたんに、彼らの目に飛び込んできた光景は……
大きな口をぽっかりと開け、両手を空に掲げたまま硬直している白魔女と、剣を杖代わりにやっと身を支えている灰色猫。おまけに、彼の傍らには見知らぬ乙女が倒れている……あれって誰?!
音という音はすべてが消え失せてしまっていた。日の光に溶かされ樹氷の欠片が小さく爆ぜる音さえ響いてこない。夕日で雪原が赤く染まっていた。雷鳴や叫声を散々聞かされた後の静かすぎる夕暮れは、かえって怖いような気分を引き起こした。
その時、オペラグラスを手にした京志郎が、素っ頓狂な声を上げた。
「うえっ、夕日がまぶしくて裸眼じゃよく分からなかったけど、雪の上は血だらけだ。さっきよりも、ずっと状況は酷くなってなるじゃん」
「ええっー?!」
慌てる百合香。だが、京志郎は、
「いや、灰色猫と白魔女が動けない状況はかえって有難い。今を逃す手はないぞ。ミラージュっ、行動開始だ! この間に、北の丘に散らばってるフィギュアを集めてくるんだっ!」
「御意!」
ミラージュと部下たちが皇宮から飛び出してゆく。そして、百合香も……
「ちょっ、姉ちゃんっ、僕は姉ちゃんまで一緒に行けとは言ってないっ……けど」
一旦、動き始めた姉を止めることなんてできやしない。京志郎は丘に向けて猛進してゆく後ろ姿に向けて、できうる限りの大声で言った。
「姉ちゃーんっ、 あいつに言って! 助かりたいなら元の姿に戻れって。今、絶体絶命の灰色猫の救いの女神は、姉ちゃんだけだーっ! だから、ものすっごく、が・ん・ば・れぇええ!!」
* *
一方、天空の上に(多分ある)図書館の館長室では、
― 痛たたたっ……、急にお腹の具合がっ ―
突然の腹痛にみまわれた声の主が、ライティングデスクに置いたパソコンの前で、悶々とした声をあげていた。
― も、もしかして、これは、灰色猫使った黒魔法のせい? ううっ、こ、これは我慢できないっ。せ、せっかく、白魔女と灰色猫の戦闘に介入してやろうと、はりきってたのに ―
その声の主は ― トイレ、トイレ ― と、奇声を上げながら、部屋の中から出ていった。
そして、誰もいなくなった館長室のライティングデスクの上では、
パソコンの画面が真っ暗になり、カタカタとキーボードが勝手に動きだした。すると、画面に白い文字列が浮かび上がってきたのだ。
"Nightingale asked for the most beautiful white shining roses in the garden."
(ナイチンゲール(Nightingale)は その庭で一番美しい真っ白に輝くバラに たずねました)
"Why isn't there a red rose in this garden?"
(どうして、この庭には 赤いバラがないのでしょう?)
"If there is one red rose,"
(赤いバラが一本あれば)
" that person of mine "
(私のあの人は)
"surely can be happy ..."
(きっと幸福になれるのに・・)
それらの文字列の中で、『Nightingale』の英単語だけが激しく点滅しだした。そして、その文字が消えた瞬間、
チチチチッ、チチチチッ
甲高い囀りと共に、一羽の小さな鳥が画面の中からするりと外に飛び出してきたのだ。鳥は褐色の尾を翻して、嬉しそうに宙を舞った。
”ナイチンゲール(Nightingale)"
それは、言わずとしれた”時空と時空”を繋ぐ鳥。
* *
天上から ― トイレ、トイレ ― と情けない声が響いてくる。
北の丘に蹲った灰色猫は眉をひそめ、ちっと舌を鳴らした。
「……くそっ、やっぱり、あのクソ館長には黒魔法の効果も腹痛程度ってことなのか……あわよくば、この機会にあいつを殺れると思ったが……」
灰色猫がベルベットを闇へ捧げてまでも、発動させた黒魔法 ―
”聞け、我は時空の扉を開く者
森羅万象、如何なる法則も、我の前では逆流する”
それは、すべての魔法の呪文の効果を裏返す逆流魔法。
すなわち、白魔女の
『真の支配者以外は、すべての者が死に絶える究極の呪文』は、
灰色猫の黒魔法により
『真の支配者だけが死に、残りの者は生き残る呪文』に置き換えられていた。
目を閉じ、精神をを統一して、灰色猫は辺りの様子を心で探ってみた。大丈夫だ。魔法の国の住民たちの息使いは途絶えることなく、ちゃんと聞こえてくる。
また、腹痛程度しか起こせなかったにしても、逆転魔法による真の支配者への攻撃も、ある程度の効果は発揮したようだ。
「ふん、俺の黒魔法はまったく無駄ではなかったようだな。天上からの干渉を少しも感じなくなったぞ。こちらの世界への図書館の扉は永遠に閉ざされた。図書館長の支配者としての力は死んだも同じだ」
ということは、この魔法の国を手に入れるために、次に俺が消すべき相手は……白魔女と、あのモデラーの少年……か。
「ベルベット、俺は、お前の献身を決して無駄にはしない」
自分が手にかけてしまった乙女の青白い手を灰色猫は後ろ手に握りしめる。まだ、血に染まった彼女の姿を見る気持ちにはなれなかった。けれども、自分自身も相当なダメージを受け、思考回路があやふやになってしまった灰色猫は、徐々に闇に心を向けるようになってしまっていた。
この難局を乗り越えるには……更なる、強力な黒魔法が必要なのだ。
「そう……邪魔者は消さないと。どんなに穢れた呪文を使ってでも……」
すべてはこの魔法の国を我が手中に収めるために。
闇色に濁った瞳を生贄の血に染まった大地に向ける。そして、灰色猫は、もっと残酷で、もっと破壊的な呪文を頭の中で組み立て始めた。
……が、その時、
「マウザーっ! こんな所で何やってんのーっ!」
かん高い声が響いてきたのだ。
灰色猫は一瞬、虚をつかれたように思考を止めて、その方向に目を向けた。頬をピンク色に染めて、息せき切った少女がこちらに駆けてくる。
その娘は、倒れた乙女の手を大事そうに握りしめた灰色猫に目をやると、ムッと顔をしかめた。それから、白い息と共に胸に溜まった思いを一緒くたにして吐き出した。
「マウザーっ、あんたねっ、私に白薔薇白で騎士の誓いをたてたのを忘れてんじゃないの?! こんな所で危ないことなんてしてないで、さっさと元の姿に戻りなさいーっっ! 」
 




