3.忘却の時
俺はとっくに気づいていたのかも知れない。
それなのに、魔法大皇帝や白魔女の暗い影を感じながら、自分の廻りが明るいうちはと……知らぬ振りを決め込んでいたんだ。
小柄な魔法使いはため息をつきながら椅子から立ち上がると、ダイニングキッチンの壁に備えられた天井に届く高さの本棚を仰ぎ見た。
祖父が彼のために集めてくれた【英米文学】。
ファンタジーから実用本までジャンルはまちまちだったが、難解だと感じるものほど心が踊り、読み始めると文字が頭の中で積重なって、それらを呪文に組み上げると、自分が巨大な”知の王国”を手に入れたような気分になれた。
でも、俺は……それは空想の中の出来事だと自分自身に思い込ませていた。
背表紙を懐かしむように、一冊一冊を目で追ってゆく。
「分かっている。もう、お遊びはお終いだ」
マウザーは、後ろを振り返った。だが、魔神のような白装束の大男も、灰色の紗がかかった乙女の姿もそこにはなく、椅子の背もたれに残された灰色のマントと、西洋風の白いバスタブがあるだけだった。
「焚きつけるだけたきつけておいて、二人とも今はダンマリを決め込んでやがる」
苦い笑いを浮べたマウザーは、灰色のマントに手を伸ばし、バルコニーがある2階へ続く階段へ向かった。階段を上りながら、トレードマークのマントをさらりと身に羽織る。壊れた窓から吹き込んでくる階上からの雪風が、彼の黒髪を後ろに長くたなびかせた。
”魔法使いたる者”その装いは他者を威圧するモノであるべし"
祖父の言いつけがなくとも、灰色の瞳の中には、宵の明星のごとく一際輝く光がある。
「そう、今が、大魔法使いの名を名乗る時」
けれども、その前に自分の心を安穏な幸福に縛り付けようとする”想い”を俺は消し去ってしまわないと。
外から響いてくる見知った者たちが、騒ぐ声。とりわけ、耳に届くのは1オクターブは高く聞こえる鈴の音のような少女の声。
階段を一歩上がる度に、脳裏に過去の残像が鮮やかな色で浮かび上がる。
”出会った時に、俺の顔を覗き込んできたのは澄んだ瞳を輝かせたバスタイム中の少女だった”
マウザーは、自分自身に忘却の呪文をかける。
― forget (忘れろ)― と。
”ユリカ、愛しの姫。この白薔薇城のバルコニーで、彼女の手をとり膝まづいて口づけた騎士の誓い”
― forget (忘れろ )―
”真実の恋をしている君。幾千の夜、真実の恋を知らずに、ぼくは、その歌を星々に伝えてきた”
彼女を想って歌ったあの歌も。
― forget (忘れろ )―
白薔薇城のバルコニーに、マウザーが立った時、城門の外で一命をとりとめた近衛兵長ミラージュと彼女が身を寄せ合う姿が見えた。けれども、今は、彼らを見下げたような冷ややかな感情が胸をよぎるだけだった。
ただ、頭上でちらちらと陽光を受けて輝く雪の結晶ごしに見た外の景色に、彼は目を細めた。
北側の丘の上の石造りにまだ残っている半壊した城。その塔の上に立つ美しい意匠のケルトの十字架。
城門と町を隔てた川にかかる石造りの橋には西洋風の唐草模様の飾りがあり、町への入口からは赤い煉瓦造りの家々が軒を連ねている。町の南側から、この白薔薇城まで続く小道に添った常緑の木々についた樹氷。町と祖父のいる魔法使いの家を往復し、毎日、通った煌めきの道。
ああ、ここに、もう少し留まっていたかったなあ。
不意にこみあげてくるモノがあり、小柄な魔法使いは瞼を何度も瞬かせた。すると、背後から伸びてきた柔らかな手が、彼の頬をそっとぬぐった。
「ベルベット、余計な真似をするな!」
そう言ったものの、ベルベットが魔法の力を持たず、すべてを動かしていたのが自分自身と知った今では、こんな真似は己を慰めているだけの馬鹿げた行為だ。
マウザーは顔にかかる灰色のマントを無下に払いのけると、バルコニーから身を乗り出し、どことも分からぬ空間に向かって呪文の言葉を呟いた。
― forget her! (彼女を忘れろ )―
安穏な暮らしへの愛着は、忘却の彼方へ押しやった。
白薔薇城のバルコニーから雪降る国を見つめる魔法使いの心を占める言葉は、ただ一つ。
”支配からの解放”
薄い笑いを浮かべると、切れ長の瞳で鋭く前を見据える。
そして、灰色のマントを纏った魔法使いは、白魔女が籠城を決め込む北の丘の氷柱の塔に向けて、射こむようによく通る声をあげた。
「聞け、雪の聖域を汚す者! 我こそが、この地の全てを解放せしめる者!」
声に呼応するように、灰色の空から雷鳴が轟く。
― 我こそは、大魔法使い ―
「灰色猫! 」
白薔薇城が天空から落ちてくる雷に砕かれたのは、彼がそう名乗りをあげた瞬間だった。
 




