9.百合香、物言わぬ姫となる
「ええっ、ミラージュって雪だるまじゃなかったの?!」
軍服姿の凛々しい近衛兵長に抱きかかえられ、栗毛の馬に乗せられた百合香は、現在進行形で起きている事態をまだ把握できずにいた。
もしかしたら、私、囚われの姫?
そんな素敵な……いやいや、これは、とてもヤバい状況ではないのか。
日は暮れ、辺りの景色は薄暮の色に溶け込もうとしている。
軍馬にまたがった兵士たちが、雪煙を舞い上げながら次々に横を過ぎてゆく。
「ミラージュ、夜が来る。早く皇宮に戻ってくれ! お前がいないと黒魔女の機嫌が悪くなって、俺たちが、束の間の人でいられる時間が奪われてしまう」
通り過ぎざまに兵士からかけられた声。
「分かっている」と答えた後に、「悪いな」とその兵士が見せたお為ごかしの申し訳なさそうな顔に、ミラージュはちっと口を鳴らし、栗毛の馬の腹を強く蹴った。
百合香とミラージュを乗せた馬の速度が速まる。
それにしても、先ほどまでいた雪だるま軍団の姿が一つも見えない。ってことは、さっきの馬に乗った兵士たちが、雪だるま軍団だったってこと?
百合香は上目使いでちらりとミラージュの顔を伺う。そんな仕草が拗ねた子猫のようで可愛く思えて、ミラージュは少しだけ表情を和らげた。
「そんな顔をするな。日が沈んで朝が来る前の逢魔が時だけ……白魔女にかけられた呪いがとけて、雪だるま軍団は人間の姿に戻れるのさ。ただし、俺の黒魔女への奉仕と引き換えに」
「黒魔女? 奉仕? でも、シーディからは黒魔女の話は聞いてないわ。北の丘の城にいるのは白魔女で……」
「灰色猫が召喚したのは白魔女だけだったからな。あの爺さんがどう間違ってこうなったかは分からんが、白魔女と黒魔女は同一体だ。ただ、その精神が違う。どちらも残酷非道。俺たちの国を支配したがっていて危険なのには変わりないが、ダイレクトに攻撃してくる白魔女よりも……男好きで陰湿なやり方をしてくる黒魔女には……いい加減にうんざりだ」
「グレイ・マウザーって、シーディのお爺ちゃんのことを言ってるの? 」
「そう、あの老いぼれのせいで、この魔法の国はろくでもない場所になっちまった」
「老いぼれなんて酷い言い方しないで!グレイ・マウザーの名を継ぐためにシーディは四苦八苦しているっていうのに」
百合香の剣幕に、ミラージュはふんと鼻を鳴らした。
確かにグレイ・マウザーは自分の死期を予知して、シーディに魔法を教えていた。けれども、あの若造を跡取りにするつもりなら、奴にシーディ(とるにたらない者)などという名をつけるものか。
「お嬢さん、いくら、シーディのお手付きだといっても、これからは奴の養護はしないことだ。それに、俺に対して少し口が過ぎるんじゃないのか。このまま皇宮に連れてゆけば、あんたは間違いなく黒魔女に八つ裂きにされるっていうのに」
どうやら、ミラージュはシーディに並々ならぬライバル心を感じているようだった。魔法使いとしてはポンコツでも、剣士としては、雪だるまの時に首を切り落とされたり、散々な目に合わされているものだから。けれども、この時、百合香が強く主張したかったのは、そんなことじゃなかったのだ。
「その情報!どこから仕入れたかは知らないけどっ、 私が、シーディのお手付きだなんてことは、まったくのガセネタっ! わ、私は、純粋無垢な女子高生なの、まだ、誰にも手なんてつけられてないっ。だから、そんな風に言われるのはとても心外っ! 訂正してっ!」
その必死な言い様と、嘘を含まない百合香の澄んだ瞳が、ミラージュの心を妙にくすぐった。
「ほう、それを聞いて安心した。ただ、黒魔女に気づかれたくないのなら、もう少し、口を噤んでいてもらわないと……な」
ミラージュにぐいと顎を持ち上げられ、その直後に、百合香は心臓が飛び出しそうなほどの衝撃を唇に感じてしまった。ああ、シーディとの時は、未遂に終わってたのに、
ファー……ファーストキス? このシュチュエーションで、このイケメンと……これって……あまりに突然すぎてぇ。
意識がどこかへ飛んでゆく。あ…れ、何だか体の力が抜けてゆく。
おかしいな。いくら何でも、キスで気絶するわけがないんだけど……。
ぐったりとした百合香を前に抱きかかえたまま、ミラージュは栗毛の馬を北の丘の皇宮へと走らせ続ける。すると、伴走していた馬の上から味方の兵士が声をかけてきた。
「おい、近衛兵長、その娘に毒息を吹き込んで殺しちまったのか。黒魔女への土産が物言わぬ姫だなんて、それはマズいんじゃないのか」
その言葉に、近衛兵長ミラージュは、意味深な笑みを浮かべるだけだった。
白魔女ならまだしも、生きていようが死んでいようが、若い女の土産など、あの黒魔女が欲しがるものか。この姫は俺がもらう。あの小賢しいシーディの鼻をあかしてやるためにも。
ただ、近衛兵軍の誰も気づいてはいなかった。百合香の後を追って、金の猫足をした白い物体が超高速で駆けてきていることなんて。




