8.開かずの扉が開く時
扉の向こうからは、仄かなレモンライムの香りがした。窓には小花の地模様が入ったクリーム色のカーテンがかけられている。
外には細かな雪が降り続いていたが、石油ストーブの灯油の匂いが微かに残り、部屋はまだほんのり暖かかった。
壁にはレトロなタッチのファンタジー映画のポスター。
ライティングデスクの上には、書きかけのノートとアニメキャラの飾りがついたシャープペンシル。
「嘘だろ……この館長室って、姉ちゃんの部屋とまるで同じだ」
それって、姉ちゃんの部屋が館長室だったってことなのか?
シーディと共に館長室に入った京志郎は驚きを隠せない。
「もともと……僕たちの自宅のリビングと図書館の1階は繋がっている。館長室は図書館の2階で、姉ちゃんの部屋は自宅の2階。図書館と自宅でその2階の部屋を共有していたとしても、理屈は通る。そういえば、自宅の風呂場は図書館の地下の横にあったんだっけ。けど……今まで、住んでいて、僕たち、相良家の人間がそのことに少しも気づかなかったっていうのは、不自然すぎるんじゃないのか」
考え込む京志郎。その様子を傍から眺めていたシーディは、今一つ、状況が飲み込めぬまま、館長室の中を検分し始めた。
ライティングデスクの棚にある写真立てを見つけた時、
「これ……ユリカだ」
美しく着飾ったお姫様姿の少女。
ということは、京志郎が言う通り、この館長室はユリカの部屋なのか。
しかし、どうも腑に落ちないと、シーディはライティングデスクの上の書きかけのノートに手を伸ばした。
中を覗いてみると、彼には初見の文字がびっしりと綴られている。
意味はともあれ、漢字が混ざっているのは分かる。前に爺ちゃんが読んでた本で見たことがあるから。……他の文字は、ずいぶん簡略化された表記文字って感じだ。そういえば、ユリカと初めて会った時に、自分のことを”日本”の高校2年生だって言ってた。ってことは、このノートに書いてあるのは、日本語ってやつか。
順にノートをめくり、シーディは、はたと手を止めた。彼にでも読める文字をそのページに見つけたからだ。
”Bubble”
”CASTLE”
おいおいおいおい……これって、俺が前に使った魔法の呪文じゃねぇのか。
シーディは声をあげずにはいられなくなってしまった。
「これって、”ナイチンゲールと紅の薔薇”から俺が抜き出した呪文だ! まったく理由が分からない。この館長室がユリカの部屋だっていうなら、ユリカはここで、このノートに一体、何を書いていたんだよ!」
* *
ジオラマの国。
「あああぁ、落ちるうぅぅぅ!!」
百合香は落下していた。
天を突き抜けてきた巨大な手。その手に抓まれ、空の彼方に攫われるところをシーディに救われたまでは良かったのだが。肝心のシーディの姿は見えず、巨大な手もいつの間にかどこかへ消えて……
「とにかく、誰か助けてぇぇ!!」
その時、百合香の纏っていた甲冑が白い光に包まれたのだ。
「ベルベット! 」
元々はシーディのマントで、今は百合香の甲冑に変化しているベルベットは魔法の力を持っている。
鋼の重さが体から抜け、一瞬のうちに白薔薇のドレスに衣変えした百合香。直後にふわりと上に浮かび上がったような感覚になる。いや、本当に落ちていた体がぴたりと静止したのだ。これも、ベルベットがなせる魔法の技か?
ううん、何かが私の体を持ち上げている。
百合香はおずおずと顔を上げてみた。
「やあ、素敵なお嬢さんが空から降ってきた」
落ちゆく夕日に照らされた金髪が、太陽の残り香みたいにきらきらと輝いていた。いかにも切れ者らしく淀みのない緑の瞳。通った鼻筋。
袖の金糸まで細かく塗装された制服に身を包んだそのイケメンの若い男は、百合香を逞しい腕でお姫様だっこしながら、爽やかに笑った。
うわぁ、どストライクに好みの人! この人が私を受け止めてくれたの? でも、この人、どこかで見た気がする。
百合香はどきどきする心臓の鼓動を懸命に抑え、彼女が出来うる精一杯の可愛い声で、その男に問うた。ベルベットが、甲冑からドレス姿に変化していてくれたことに感謝しながら。
「あなた、どなた?」
「近衛兵長ミラージュ」
「は? えっ、でも、ミラージュは雪だるまじゃ……」
その直後に日没がやってきた。
夕日が山の後ろに沈み、宵の一番星が東の空に明るく輝いている。だが、その光は再び蔓延りだした雪雲にすぐに覆い隠されてしまった。
どこかで、鴉の鳴く声がする。
ジオラマの国に逢魔が時がやってきたのだ。




