お題『仕方がないって諦めるのやめない?』or『飛べたのはほんの一瞬 』【地味】
一面に広がる草原。青い空には申し訳程度しか雲はなく、吹く風は丸みを帯びているかのように柔らかい。
誰もが、寝転んで、そのまま眠りたくなるような光景だった。ここで昼寝でもすれば、間違いなく良い夢が見られそうな暖かさがある。その暖かさは、人も獣も隔てなく、包み込んでくれそうだ。
優しい風が草を撫でると、さざ波のような音がした。しかし同時に、草原を無遠慮に薙ぐ、無粋な音もあった。
草を叩き、土を削り、肉を打つ。いくつも続く不協和音は、草原の隅で、何度となく繰り返されていた。
「へぶっ!」
と、潰れた声の主は、顔面を土にぶつけてもがいていた。
少年である。見た目の頃は、人でいう十かそこら。少しやせっぽっちで、背の高さは子供そのままだ。
ただ、見る者に違和感を感じさせるものがある。
額から、獣が持つような角が生えていた。黒曜石のように見えるそれは、陽に照らされて、存在を主張するかのように輝いている。
よく見れば、少年は背丈に似合わぬ豪奢な服を着ていた。ひかえめながら、しっとりと輝く生地。ところどころには細やかな刺繍がほどこされており、宝石の類こそないが、それが逆に、服の高貴さを引き立てている。
残念なのは、せっかくの服は土で汚され、泥は洗濯しても落ちそうにない。織物職人が見れば、卒倒するかもしれない。
「ま、まだまだ!」
そんな服を気にすることもなく、土を払うことすらせずに、少年は立ち上がった。
まわりには誰もいない。それは、少年が誰もいない、探されても見つかりにくい場所として、この草原を選んだからである。
泥だらけの顔が、真剣に引き締まる。
詩を歌うかのような、不思議な音色を口にする。呪文という、法術を起動させるための、力ある言葉だ。
先ほどから、何度となく唱えていた。唱えて、全て失敗していたが。
呪文は、本で読んだだけで、誰かに教えてもらったものではない。完全な我流である。本来、法術という技術は、専門の法術師から学ぶものだ。
ゆえに失敗を重ねているのだが、少年は懲りずに練習を続けていた。
今、唱えているのは、法術でも簡単な部類に入る、浮遊の呪文だった。
本で読んだのは、三日前。これくらいなら自分だけでもできるという自信を持って、すぐに始めたのだが、一度も成功していない。
浮遊は、ふわりと浮かぶだけのものだ。空を飛ぶことはできない。せいぜいで、水たまりを踏まず、避ける程度のことしかできない。
きちんと習えば、七、八歳の子供でもできる。だというのに、我流にこだわる少年は、
「よ、し、っっと……。うわあ!」
足が、地面から離れるかどうかというタイミングで、転んだ。
今度は、後頭部をしたたかに打ち付けた。下が草原でなければ、大けがをしそうだ。
「う、うっ」
目に涙を浮かべながら、立ち上がる。
「ま、まだまだあ!」
自分を叱咤するように叫んで、また一から呪文を唱えた。
唱えては転び、転んでは立ち上がり、また唱えて転ぶ。
誰かが止めなければ、日が落ちても続けそうなほどに繰り返した。
だからか、ついに、
「殿下、ここにおられましたか!」
少年の背後から、心配を含んだ声が飛んできた。
うっ、と呻いてから振り返ると、見慣れた世話役が立っていた。
口ひげを生やした、老人だった。少年の倍は背が高く、頭には一組の巻き角を生やしている。服は、少年ほどではないが、上品に整えられていた。
「ああ、またお召し物をこんなに汚して……。陛下がご覧になったら、なんと仰るか」
さっ、と顔から血の気が引くのが分かる。陛下、つまりは少年の父だが、怒ると怖い。とにかく怖い。
いまさらだが、自分の身なりを見てみる。侍女が悲鳴を上げそうだとは、一目でわかった。この服が、安物ではないことくらいは知っている。
「さあ、帰りましょう。ケガの手当てもせねばなりませぬ」
世話役に促され、一歩を踏みだす。今日もダメだったのか。自分には法術は使えないのか。
少年が我流を始めたのには、理由がある。少しばかり年上の、姉の影響を受けたからだった。
姉は、誰にも習わずに法術を使いこなしたらしい。少年が苦戦している浮遊の法術を、三歳の頃には習得したそうだ。本を眺めるだけで、上級の法術をマスターし、今では他国の専門機関で教鞭を振るう立場になっているとか。
天才と称され、持ち上げられた姉は、素直に誇らしいと思う。だからこそ、そんな姉の顔に泥を塗るような弟ではいたくなかった。
自分は天才などではない、凡才だ。勉強は苦手だし、体を動かすことだって得意ではない。ただ、王の子供というだけで、他に特筆すべきものは何も持っていない。
だからこそ、何か一つでも特別になりたかった。何もできないから仕方がないと、諦めたくはなかった。
最後の悪あがき、と呪文を唱える。きっと、明日からしばらくは、外に出して貰えないだろうから。
世話役は、すぐに気づいた。
「殿下……」
おやめなさい、と目が語っている。それがなんとも悔しくて、最後の一節まで唱えてやった。
かすかな浮遊感を感じる。いつもはここで法術が効果を失っていた。体が持ち上がろうかという瞬間に、バランスを崩して転げまわった。
どうせ、また転ぶだろう。世話役がため息を吐いて、転んだ少年を、抱きかかえていくに違いない。
目をきつく閉じる。前か後ろか、どちらかは分からないが、転んでぶつける覚悟を決めた。
「で、殿下……?」
世話役が、予想とは違う声を出した。少年にも分かるような、驚きに揺れる声だ。
どうしたのだろうと目を開けてみると、いつもとは違う視界に気が付いた。
世話役の背が、縮んだように見える。あっけにとられた顔が、こちらに向けられている。
恐る恐る、足元を見た。
「あ……」
わずか、ほんのわずかだが、体が浮いていた。せいぜいで拳一つ分だろうが、地面との間に空間ができていた。
初めての成功に、思わず腕を振り上げた。この三日間は無駄ではなかったのだと、世話役に言ってやりたかった。
だが、浮かんでいられたのはそこまで。
「えっ、わっ」
体が前に傾いていく。腕を振り回してなんとか堪えようとしたが、
「あ、危ない!」
バランスは戻せず、大声を上げた世話役に、受け止められた。
ほんの一瞬だったが、成功した。大成功とは程遠い、わずかばかりの時間だったが、それがなんとも嬉しくて、少年は声を上げて笑った。
世話役はやはりため息を吐いた。侍女に悲鳴を上げられることも、父に叱られることも変わるまい。
それでもこの一瞬は、少年にとって忘れられない思い出となった。
何度も何度も失敗しても、諦めなければなんとかなるという自信を得られた。
こればっかりは、姉にも理解できない感覚だろう。今度、姉か帰省したら話して上げよう。
自分でもできることはあると。情けないほど失敗しても、いつかは何かを成せるということを。
「さ、帰りますぞ、殿下」
少年の笑いにつられたか、世話役も頬を緩めて言う。
城に着くまで、少年は笑った。悲鳴と怒声を聞いても、寝るまで少年の笑みは消えなかった。