お題『誰が、私の価値を決めていいと言った』or『あんぱん。こし餡なかった…。 』【ワイルド】
閉店間近のパン屋は、例えるなら人の消えたテーマパークとでも言おうか。
客のみならず、メインキャラクターのほとんどが家に帰り、華やかさを一気に失い、寂しい場所となる。
具体的に言うならば、カレーパンが無い、チョココロネが無い、クリームパンは残り三個で、
「あんぱん、こし餡が無くなってる……」
またか、と肩を落とすのは仕事帰りのOL。寝不足で目の下にはくまがあり、往復の満員電車で髪型が乱れ、長年の相棒たるスーツもしわが隠せなくなってきた。
がっくりとした自分の、唯一の楽しみは仕事場からの帰り道にある、このパン屋でこし餡あんぱんを買って食べることしかなかった。
寒々とした明かりが外に見える。商店街の真ん中にあるパン屋は、幸運なことに、営業時間が長い。OLの帰宅時間でも、なんとか立ち寄れる。
しかし、残念ながら、品ぞろえまではOLを待ってくれはしない。
ここ数日、こしあんぱんが売り切れている。最後に食べられたのは、一週間前だったろうか。食べたくて食べたくて仕方がない。
コンビニのあんぱんは論外だった。OLとて、食事にはこだわりがある。せめて自分の大好物くらいは上等なものを食べたい。
はうう、と子供時代からのクセ、力のないため息を吐く。つぶあんぱんはいくらか残っていたものの、OLはどうしても、あんぱんはこし餡派だった。
妥協したくないので、残っていた塩パン三個と食パン半斤を買う。今日の夕飯は、安物チーズとケチャップを乗せたピザトーストにでもしよう。まだ買い置きサラダが残っていた。それと一緒に食べれば、精神的な野菜不足も補える。
ふらりふらりと、くたびれた体を揺らしながら、パン屋を出た。
吐いた息は白い。冬も間近。そろそろ、横着せずに冬物の衣類を出さねばならない。今週末は、部屋の整理で終わりだろうか。
とぼとぼと歩き、住処である安物マンションまでたどり着く。エレベーターがないので、三階まで階段で上らねばならない。
部屋に入ると、靴を脱いだ。上着を放り投げた。そのまま万年床に身を任せたくなるが、今日はかろうじて、食欲が勝ってくれた。
ビニール袋から買ってきたパンを出した。ビニール袋を放り投げ、トーストしようと思っていた食パンにかぶりつく。
少し乾いた食パンは、口の中の水分を全部持って行った。ダルいと感じながら冷蔵庫を開ける。水の買い置きが残っていたので、ペットボトルからそのまま飲んだ。
「ぷはっ」
水のせいで、食パンの味が感じられなくなった。ひもじくなってきた。
これがあんぱん、さらにこしあんだったら口の中を甘さで満たしてくれるのに。
明日は、今日よりも早く帰ろう。あんぱん欠乏症で精神を病みたくはない。
空っぽだった腹にパンを詰め込んでいく。食パンは、あっさりと手元から消えた。残っているのは、
「塩パンかあ……」
なかなか手が伸びない。適当な残り物を選んだだけで、好物というわけでもない。
口の中を何かしらの味で満たすために、OLは渋々、塩パンと取った。行儀も何も忘れてかじりつこうとして、
「嫌なら食べるな。愚か者め」
は? と大口を開けたまま固まった。
声は、中年男性と感じられた。なかなか渋く、ちょっと自分好み。しかし、
「え? あれ?」
OLは一人暮らしである。迎えてくれる家族はおらず、犬猫の類も飼っていない。ネズミの一匹も部屋にはいないはずだった。
背筋が凍る。まさか、自分が出かけている間に望まれざる客が家に忍び込んだのか。
あいにくと、OLは武術のたしなみなどない。力自慢でもない。男性に敵う可能性はどこにもない。
反射的に飛びのいて、壁に背を預ける。右を左を上を下を確認して、いるであろう人影を一生懸命に探した。
見当たらない。クローゼットの中だろうか。それとも、ベッドの下にでも潜んでいるのだろうか。
のぞくのが、確認するのが怖い。なけなしの力で拳を握る。手の中の塩パンがつぶれ、まだそんなものを持っていた自分に情けなさを感じた。
放り投げようとする、こんなものが侵入者に利くとも思えないが。
「いてっ! いてててっ! 止めぬか、この愚か者!」
声は右から聞こえた。パンを投げる。
「ぐわっ!」
やはり、侵入者はいたらしい。
パンの一個で悲鳴を上げるとは予想外だった。
今のうちに、とスマホを探した。まだカバンの中に入っているはずだ。
警察への番号も忘れかけそうなほどに、追い詰められていた。震えながら、カバンの中を探し、いつものポケットに入れたことすら思い出すのに苦労した。
震える指でスマホのロック画面を通りぬけ電話番号を押そうとして、
「えぇい! 食べ物の扱い方すら知らぬか、この愚か者! この私を食べずに捨てるなど、どういうことか!」
へ? と、恐る恐る振り返る。
だが、そこには誰もいなかった。
「こちらだ、こちら!」
こちらと言われても困る。右も左も上も見て、
「貴様が放り投げたのだろうが!」
下に、声の主はいた。
「……パン?」
「一くくりに言うな! 塩パンだ!」
「塩っ?」
潰れた塩パンが転がっている。自分が先ほど食べようとして、握りつぶしてしまった、塩パンである。
「全く、行儀を知らんのか。食べ物に対する扱いがぞんざいすぎる。先に食われた食パン殿が不憫でならん。よく噛み、味わって食べよ」
声は、確かにそちらから聞こえる。潰れたパンのどこから発せられているかは知らないが、声の主は塩パン、らしい。
「な、なんで塩パンがしゃべる……の?」
疑問をそのまま声に出すと、自称塩パンは呆れたように言う。
「食べ物にもプライドはある。食われ方にもこだわりがある」
「じゃ、じゃなくて、食べ物がしゃべるなんて……」
「お前があまりにも酷い扱いをするので、口を出したまでだ」
この塩パン、なんとも偉そうである。会社の上司でも、ここまではいかない。
「た、ただの塩パンなのに」
「ただの? 誰が、私の価値を決めていいと言った」
決めたのはパン屋さんである。税込みで、一個、百十円。
「我が創造主? それは当たり前だ。私はお前には、その権利がないと言ったのだ」
「は、はい、すみません」
思わず、居住まいを正す。相手は塩パンなのに。
「分かればよい。……さて、私もあまり話していられるほど消費期限が長くない。早く食べるといい」
「い、いえ、さすがにしゃべるパンを食べるというのは……。痛く、ありません?」
「大丈夫だ。行儀よく食べられるならば、痛みなど感じるものか」
「は、はい、では……」
潰れていた塩パンを、丁重に持ち上げ、食べる。
「うむ、よく味わうといい。これでも味には自信がある。我が創造主は良い腕をしているからな」
「お、美味しいです」
「うむうむ。食事は行儀よく、食べ物への礼儀を忘れてはならない。後、食事のバランスは考えよ」
「は、はい、サラダ食べます。……サラダもしゃべったりしませんよね?」
「それはサラダ殿次第だ」
食べ終わると、塩パンの声も消えた。残った二個も、丁寧に食べる。
言われたとおりにサラダも食べた。こちらは静かだった、何も言わない。
食べ終わると、満腹感と一緒に安心感までやってきた。ちゃんと食べたので叱れることはないだろう。
しかし、徐々に冷静になるにつれて、塩パンの声を思い出す。
大事なのは、内容ではない。
「……パンが、しゃべる?」
現実か、幻聴か。どちらにせよ、自分はかなり追い詰められているらしい。
シャワーを浴びて、歯を磨いて、ベッドに横になって、
「明日、休もう」
上司に言うべき言葉を考え、胸中で何度も練習し、
「よし」
絶対に休む。なんと言われても、休む。誰がなんと言ってこようと、休む。
心を病んで倒れるよりも、休息をとって体調を万全に戻す方が大切である。
とにもかくにも決心して、眠りに落ちた。
翌日。目が覚め、就業時間前に素早く休暇の連絡を入れると、着替えて外に出た。
今日こそは、こしあんぱんを食べよう。副菜も忘れずに買って、栄養バランスも考える。
パン屋とスーパーの営業時間までもう少し。
久しぶりに楽しいと思える朝だ。陽の光を楽しむように歩き、商店街までの道を堪能する。今日は、食べ物全部が美味しいだろうと確信しながら、献立を考えて行った。




