お母さんの子
帰ってうちのドアをあけたら、すぐに2人の怒号が聞こえるのだ。
雨で濡れた傘の水滴を丁寧に落とし、私はゆっくりと家の廊下を歩いた。
「だからそういうところが嫌なのよ!」
「そういうだけで、自分の悪いところをなおそうともしないお前のほうはどうなんだ!」
リビングに顔を出さず、自室に戻る。微かに罵り声がまだ、聞こえる。
31になったばかりの私のお母さんは綺麗で、40になったばかりのお父さんは有能な投資家だ。
家に帰ると、いつも美味しい匂いがした。私は大声でただいまを言って、急いでリビングで、お母さんに飛びつくのだ。「お母さん、今日のご飯は何?」って。
でも、もういい匂いはしない。
お母さんはもういない。
私は、浮気相手の子供だそうだ。私のお父さんは、お父さんじゃない。
お父さんは、私に怒らなかった。怒鳴らなかったし、叩かなかった。
酷く悲しそうな顔で私をただぎゅっと抱きしめた。
お母さんがまた出ていった家で、私はレトルトカレーを温めながらお父さんに聞いた。
「ねぇ、私どっちの子になるの?」
お父さんは眉をあげて、まだ離婚すると決まったわけじゃないよ、と言う。
「じゃあ、もし離婚するとしたら?」
深く考え込むようにして、これからお父さんは「僕のほうかな」と言った。
ちょっと泣きそうになって、誤魔化す。
良かった。私、お父さんの子になりたいんだもの。
「嫌よ、嫌! この子だって母親と一緒に居た方がいいわ!」
お母さんの声って、本当はこんなに大きいのね? と私はとんちんかんなことを考えながらソファに座っていた。
でも、これはもう2人で決めたんだ。お父さんが低い声で言う。
「嘘! ねぇ、あなたもお母さんと一緒がいいでょ!? 」
しつこい。
「だってお母さんにいつも優しかったじゃない!
お願い……嘘、嘘でしょ……」
お母さんから零れた涙は、やっぱり綺麗なままだった。
その涙が床に落ちたのを見届けて、私は一言言った。
「お母さんの子になんて生まれなきゃよかった」
お母さん、あの後友人の人達に連れてかれるまでずーっとリビングで泣いてたなと思い出す。
悪いことしちゃったかな。
でも私本当にお母さんの子は嫌だったんだよ。
お母さん、と誰もいない部屋に語りかける。
「やっと私、お母さんのこと好きになっていいかな」
涙が溢れる。それは悲しい涙なんかじゃない。
私はやっとお母さんと肩を並べることが出来る。それが本当に嬉しかった。
相手の男なんて関係ない。だって私、その人以上にお母さんのこと愛してる自信があるもの。
最後にお母さんに愛されるのは、私だ。
「もう『お母さん』って呼ぶのもやめなきゃね」
そう呟いて、私は微笑んだ。
だって本当にお母さんのことが好きだから。