春風駘蕩
「じゃ、あとはこのデータを来週納品すれば完了。さっき確認したけど、エラーもなかったし大丈夫だったわよ。間に合ってよかったわね」
私はPCの画面を見ながら、安堵の息を吐いた。
「ありがとうございました。稲生主任が気づかなかったら、どうなっていたか」
「私が気づかなかったら、きっと安達君がエラーを見つけて対処してたわよ。大丈夫、私が退職しても十分仕事をこなせる実力はあるわよ」
「……まだまだ、自信はないんですけど」
私がプログラムをチェックする間、隣の席で息を詰めて見守っていた安達君が、苦笑する。
「なに言ってるのよ。システム開発の二代目神様って言われるくらいの実力があるんだから、自信を持って頑張って」
私は立ち上がり、硬くなった体を伸ばした。
安達君がこの一週間手こずっていたプログラムの修正を終え、ホッとする。
この仕事の主担当は、入社三年目の安達君で、本来なら私がプログラムに触れることはない。
けれど、たまたま目にしたPCの画面上のプログラムに違和感を感じて声をかけたのだ。
安達君よりも多少長い経験値が役立ったのか、安達君がどうしても解決できなかったエラーの原因を見つけ、アドバイスをした。
そして、安達君が修正をおこない、無事完了。納期に間に合いそうだ。
「稲生さんが退職したら、しばらくの間は右往左往しそうです」
徹夜が続き、疲労を隠せない表情のまま、安達君は肩を落とした。
子供の頃からパソコンに触れる機会が多く、その奥深さにひかれてシステムエンジニアを目指したという安達君は、わが社期待の「システム開発の二代目神様」だ。
その才能と実力は、社内の誰もが一目置いている。
ちなみに、初代「システム開発の神様」は、今は隣の課を率いている春川課長だ。
入社以来、努力と勉強を続け、その実力は社内一だと言われている。
本社で大きなプロジェクトを成功させ、いくつかの営業部で実績を積んだあと本社に戻り、高い役職に就くというのがわが社の慣例だ。
春川課長もその例に漏れず、本社での重要案件に携わり続けている。
「そのうち、春川課長が安達君をプロジェクトに抜擢するって噂だし、鍛えてもらいなさいね」
「春川課長は憧れです……美人の奥様も、有名ですからね」
安達君が、羨ましそうにつぶやいた。
「あ、萩尾さん……じゃない、今は結婚して春川さんね。知ってるの?」
「はい。神様が溺愛するキレイな奥様って有名ですから」
「そうね。キレイだし……とても強い人……懐かしいな。あ、おしゃべりしてる暇はないんだった。あとはよろしくね」
時計を見ればすでに十八時を回っていた。
私は机の上を手早く片付け、更衣室に駆け込んだ。
残業で疲れた体にかまうことなく会社を飛び出すと、キレイなイルミネーションが目に入った。
輝く色とりどりの光が大通りを照らし、わくわくさせてくれる。
心も体も、癒されるようだ。
混み合う大通りを急いで歩いていると、目に入るのは楽しげに笑い、愛情に満ちた瞳で見つめ合う恋人同士。
腕を組んだり手をつないだり、誰もがみな今日を楽しんでいる。
足早に歩きながらも、すれ違う恋人たちの温かな空気を感じ羨ましくなる。
思わず「いいなあ」と口に出すのも、仕方がない。
新年を迎え、恋人たちは特別な時間を過ごしているんだろう。
ショーウィンドウに映るグレーのコートと黒いハイヒールを履いた自分の姿に気づいた。
乱れた髪を直したくて、立ち止まりそうになる足を必死で動かせば、目の前にようやく駅が見えた。
腕時計は二十時を指している。
アンコールだけでも見られるだろうか。
カツカツと音を立てながら、駅に向かって歩みを速めた、
コートのポケットに手を入れ、この日のために用意してもらったチケットを確認する。
ヴァイオリニストの市川巽のコンサートチケットだ。
人気の演奏家だけにチケットを手に入れるのはなかなか難しく、年に一度手に入ればいいほうだ。
いつもなら、手に入らなくても泣く泣く諦めるけど、今回はどうしても行きたくて、市川巽のマネージャーである内川さんにお願いしてチケットを用意してもらった。
ファンのみなさん、ごめんなさい。
けれど、今回だけは許して欲しい。
今日は私にとっては節目となるコンサートなのだ。
ポケットの中でチケットを握りしめれば、愛しい人の顔が浮かぶ。
巽に会いたい。
ただそれだけの想いに後押しされて、私は改札口を駆け抜けた。
「今演奏している曲が終わると同時に入ってください。ご希望通り最後列のお席をご用意しましたけど、よかったんですか?」
「はい、ありがとうございます。無理ばかり言ってすみません」
「由梨香さんが無理をおっしゃられたのは初めてですよ。いつも巽のチケットはご自分で用意されるじゃないですか」
「それは、当然ですから」
小声で話す私に、内川さんが苦笑する。
「巽も納得していませんけどね……」
ヴァイオリニストの市川巽。
三十歳を過ぎ、演奏に艶と深みが出てきたと評判の人気演奏家。
演奏内容だけでなく、その整い過ぎた見た目ゆえに女性からの人気も高く、チケットを手に入れるのはなかなか難しい。
後援会の優先申し込みを利用しても、チケットが手に入らないことも多いのだ。
手に入らない時には自宅のお気に入りのソファに体をうずめてCDを聴くことにしている。
「言ってもらえれば、いつでもチケットはご用意しますよ」
会場に続く扉の前で、内川さんが言葉を続ける。
何度そう言われたことだろう。
チケットの抽選に外れて落ち込む私に、内川さんはいつもチケットを用意すると言ってくれるけれど、それはだめなのだ。
「私と同じように巽の演奏を聴きたいファンの方は多いから……いいんです。自分で手に入れてこそ、楽しめますから」
「だけど、由梨香さんが客席にいれば巽も気持ちがのるんですよね」
私の言葉に呆れたようにそう言った内川さんに、私は首を横に振る。
「巽は、私の存在に気持ちを揺らすようなヤワな演奏家じゃありませんから」
「そうは言っても……」
「いえ、巽の演奏が私に影響されることはないですから。そうでなければ今の場所まで来られなかったはずです」
小さく笑った私に、内川さんは肩を落とした。
「まあ、それはそうなんですけどね。……巽も由梨香さんも頑固で困ります」
からかうような声に、私は「それはすみません」と肩をすくめた。
長く市川巽のマネージャーを務めている内川さんにしてみれば、私と巽の付き合いは理解できないのかもしれない。
高校時代付き合っていた巽とは、高校卒業と同時に別れ、巽はヨーロッパに渡った。
ヴァイオリニストになるという子供の頃からの夢をかなえるためだ。
音楽院に身を置き、ヴァイオリンだけに時間を費やした巽は、世界的に有名なコンクールで優勝したことをきっかけにその名を知られるようになった。
ヨーロッパだけでなく、世界各地で開いたコンサートによってさらに演奏家としての地位を確固たるものにし、七年ほど前に日本に拠点を移している。
巽が帰国してすぐ、偶然という名の巽の計画によって再会した私たちは、恋人としての時間を再び刻み始めた。
再会した当時、私はシステム開発を本業とする大手企業に入社して二年目で、仕事で自分の未来を切り拓こうと、もがいていた。
事務職採用だった私は、仕事の面白さに触れるにつれ、総合職への異動を望み、あらゆる講習会に参加したり、資格取得に励んだり。
一人前に仕事ができるように必死だった。
学生時代からずっと、何事にも『それなり』というもので満足し、就職だって会社のネームバリューだけで決めたといういい加減さ。
就職してからというもの、それまでの自分を反省することばかりだった。
学生時代には通用していた運の良さとその場しのぎの要領の良さは役に立たないと知り、自分を嫌いになる一方だった。
そんな自分を変えるきっかけがなんだったのかはよく覚えていない。
けれど、一流企業と言われるだけあって、会社でともに仕事をする同僚や先輩、上司たちの真摯に仕事に向き合う姿勢は尊敬に値するものばかりで、次第に私に変化が表れ始めたのだ。
このままじゃいけない。
流れ作業のように目の前にある事務仕事を処理するだけじゃだめだ。
自分が満足できる仕事を見つけてとことん突き詰めたい。
そう思い至ったのが入社二年目の頃で、たまたま先輩女性社員である七瀬さんが社外で行われる研修を受講するということを聞き、上司に頼んで私も参加した。
ほとんど勢い。そしてそれが始まりだった。
そして今では、当時よりも多少成長した自分を好きになり始めている。
『努力を苦にしない今の稲生さんなら、自分が納得できる仕事に就けるはずよ』
その後も何度か一緒に講習会を受講した七瀬さんが言ってくれた言葉を励みに、仕事に没頭している。
巽との付き合いは順調だとはいっても思うように会えるわけではない。
なにせ世界的に有名な音楽家だから。
会いたいときに会えないどころか、国境を幾つも超えた先でヴァイオリンを弾いているのだ。
もう、寂しさというより、会えないことを当然だと思うしかない。
そして、その寂しさを埋めるために、私は仕事と向き合っていたのかもしれない。
巽と再会し、そして仕事に没頭し始めてから約七年、来月三十歳を迎える私はひとつの節目を迎えた。
「それにしても、珍しいですね。私としては嬉しいことですが、由梨香さんがチケットを私に頼むなんて初めてですよね」
ぼんやりとしていた私は、内川さんの声にハッと視線を上げた。
「巽のチケットは必ずご自分で用意されているのに、何かあったんですか?」
怪訝そうな内川さんに、私は曖昧に笑った。
「今日は、どうしても巽の演奏が聞きたかったんです。だから、チケットが手に入らなかった時には泣いちゃいました。……お世話になりました」
私はそう言って、軽く頭を下げた。
自分で用意したチケットで巽の演奏を聴くと決めていたとはいえ、今日はどうしてもの想いで内川さんのお世話になった。
内川さんは「喜んでご用意いたしますよ」と即座に引き受けてくれたけれど、それも今回限りにすると決めている。
「由梨香さんが来られているので、巽もきっと、張り切って演奏してますよ」
「……だといいんですけど。結局、仕事で遅くなってしまって……」
「いえいえ、大丈夫です。あ、演奏が終わったそうです。十分ほど休憩が入りますのでどうぞ。楽しんでくださいね」
内川さんは、会場内にいるスタッフからの連絡をスマホで確認し、私に笑ってくれた。
そして、そっと扉を開けてくれた。
私は内川さんに頷いて、会場に体を滑り込ませた。
ほの暗い客席の最後部席が私に用意された席だ。
ちょうど目の前にあった席には、巽が用意してくれたという目印がわりのクマの小さな人形があった。
私はそのかわいらしさにホッとしながら手にとり、腰をおろした。
演奏の合間のこの十分の休憩をはさみ、残り二曲とアンコール。
開演に間に合わなかったのは残念だけど、数曲でも聴くことができる。
私はホッと息をつき、柔らかな座席に体を預けた。
「明日は何時の飛行機なの?」
「昼頃だから、朝はゆっくりできるんだ」
「そっか。じゃ、朝からいつものモーニングでも食べにいく?」
テーブルにコーヒーを置き、巽の目の前に座った。
コンサートが終わったあと、一足先に帰った私の家に、巽がやってきた。
こうしてふたりで過ごせるのは一か月ぶりだ。
秋以降、コンサートで忙しい巽は全国各地を回っている。
ホテル暮らしが続き、疲れているのか少し痩せたような気がする。
「ちゃんとご飯食べてる?」
「ああ。誰かさんと違ってお菓子で夕食を済ませるようなことはしてないから安心しろ」
意味ありげに笑い、私を見る巽。
「お菓子が夕食って……高校生の頃の話でしょ。今はちゃんと作ってるわよ」
「……みたいだな。さっき冷蔵庫を開けたら食材がかなりあったから、安心したけど」
「でしょ?あ、お腹がすいてたら何か作ろうか?」
巽が好きなメニューを頭に浮かべながら立ち上がると、巽の手がすっと伸び、私の手を掴んだ。
「ここに来るまでにスタッフと食べてきたからいい。……あ、あれがあったら食べたいかな」
「あれって、パンケーキ?」
「そう。いつも作って冷凍してるだろ?」
期待に満ちた巽の声に私は頷いた。
「何枚食べる?巽が好きなブルーベリーもあるけど、生クリームと一緒に添えようか?」
ウキウキしながら冷蔵庫に向かえば、巽があとを追ってきた。
「座っててよ。あ、リビングに巽が載ってた雑誌とか新聞をまとめてあるから読んでれば?」
冷凍庫からパンケーキを取り出し振り返れば、目の前に巽がいた。
180センチの長身で見おろされれば、160センチ弱の私はかなり小さい。
おまけにキレイだという形容がぴったりの端正な顔。
はっきりとした二重の目で見つめられればドキドキしてしまう。
「えっと、すぐに用意するから、待ってて」
冷蔵庫を背に、あまりにも近い距離で私を見つめる巽に胸が高鳴る。
……三十路間近のくせに、いつまで巽にときめいているんだ、私。
高校の時からずっとそうだ。キレイすぎる顔で愛想がないくせに男性から嫌われることもなく、おまけに女性からの熱のこもった視線に反応することもない。
周囲に敵を作ることなく、かといって冷たいわけじゃない。
勉強を教えたり、学校行事ではリーダーとしてクラスメイトを率いていたし。
そして、成績だっていつもトップを争っていた。
欠点なんて何も見つからないオトコ、それが巽だ。
大人になった今もそれは変わらない。
「あの、巽?」
感情が読めない表情で、巽は私を見つめ続ける。
吐息が重なりそうなほどの近すぎる距離に、私の鼓動はどんどん速くなる。
すると、巽は私の手からパンケーキを取り上げると、背後のシンクの上に置いた。
「あ、あれ……それ、レンジで温めようかと」
「わかってる。生クリームもブルーベリーも頼むし、とりあえず2枚」
穏やかな口調で巽はそう言うと、私の腰に手を回し、抱き寄せた。
目の前には巽によく似合っているカーキ色のセーター。
去年のクリスマスに私がプレゼントしたものだ。
「巽……?離してくれないと何もできないけど」
私を抱き寄せたまま離そうとしない巽にそう言っても、巽はそれを無視し、両手で私の頬を挟む。
近づく巽の顔を見ながら、私は反射的に目を閉じた。
そして、自分からも顔を近づけ巽の唇を感じる。
社会人となり、巽と再会してからずっと、こうしてキスを交わし体を重ねているというのに、何度触れ合っても照れくさい。
巽への恋心は、高校生の時のままだ。
「ゆりか」
キスの合間に巽が私の名前を呟く。
演奏家なのに、艶があり色気があるその声を聞けば、声楽家でも生きていけそうなほど魅力的。決してのろけているわけではないけど。
「たつみ」
巽の声に震えた私は、両手を伸ばし巽の首にしがみついた。
そして、唇が重なる音がキッチンに響く。なんて恥ずかしくて愛しい空間だろう。
さらに体を寄せた私は、巽のキスに応えながら胸がいっぱいになった。
手をつなぐことも、抱きしめられることも、もちろん体を重ねることも。
巽となら幸せに感じるいくつものこと。けれど、キスを交わす時間が、一番好き。
今みたいに抱き合いながらキスだけに夢中になることはもちろんだけど、すれ違いざまに軽く触れ合うキスや、並んでソファに座りテレビを見ている合間に交わすキス。
ほんのわずかな愛情のしるし。
それだけで心は満たされる。
私って安上がりだなと思いながらも、高校を卒業してから数年間、巽と離れて過ごしていた空虚な時を思い出せば、わずかな愛情でさえ幸せに思える。
それに、たとえ軽く交わすキスやハグでも、巽の想いが軽いものではないとわかっているから。
「巽、好き」
ぎゅっと巽に抱き着いて、背伸びする。
耳元にそう呟けば、巽はのどの奥でくくっと笑った。
「どうしたんだ? 内川さんにチケットを頼んでコンサートに来たり、素直にそんなことを言うなんて、珍しいな」
そう言った巽は、私の耳を甘噛みする。
「ん……っ、や、だめ」
「ここが弱いよな。高校の時から変わんないな」
「だから、だ、だめ」
巽は私の言葉に構うことなく私の後頭部を手で押さえ、耳元を唇で撫でる。
するすると動く唇がくすぐったいだけでなく、時々舌が優しくそのあとをたどり、そのたび体がびくびくと跳ね、足元から力が抜けていく。
「や……たつみ?」
巽にしなだれかかるように体重を預け、小さな声をあげた。
視線を向けた先には、熱い欲が浮かんでいる端正な顔があった。
濡れている唇からちらりと見えた舌に、胸の奥が苦しくなる。
思わず顔を寄せ自分のそれと絡ませたくなるけれど、熱い体の中に微かに残っている理性を総動員して堪えた。
巽と付き合いを再開してから長いとはいっても、国内だけでなく海外にも仕事で行くことが多い巽と過ごした時間はそれほど多くない。
今日会えたのも一ヵ月ぶり。
何度、最後に抱かれた夜を思い出しながら、寂しさに耐えただろう。
「もっと……」
背伸びだけじゃ足りなくて、巽に抱きついたまま片足を上げて巽の足に絡ませた。
それは、いつの間にかできたふたりだけの合図だ。
抱き上げて欲しい。そして離さないで欲しい。
想いを素直に口に出せない私が、唯一伝えることができる合図。
ゆっくり会える数少ない日の中で、寂しさに耐えた私が思わず見せるその仕草に、巽はいつも応えてくれる。
何も言わず、私を抱きしめ、包み込んでくれる……。
私はそれを待ちながら、頬を巽の鎖骨あたりに乗せ、足を必死で絡ませた。
すると、「どうした?」と巽の心配そうな声が聞こえる。
積極的に巽との距離を縮めようとする私に驚いているようだ。
それほど感情を顔に出さない巽だけど、私への愛情は言葉でも仕草でも素直に見せてくれる。
私を抱く時にも、我慢することなく自分の熱が冷めるまでとことん想いをぶつけてくるし、私が困っている時には迷うことなく手を差し伸べてくれる。
恥ずかしさや照れくささはないのかと聞けば、離れている時間があまりにも長い分、一緒にいられる時くらい、甘えたいし甘えさせたいということらしい。
そんな巽の強引な性格に対して、私はまだまだ気恥ずかしさが先に立ち、なかなか溢れる想いを口にも態度にも出せない。
なのに、今の私はこうして抱き上げて欲しいと巽にせがんでいる。
巽が私の様子をいぶかしがるのも不思議じゃないけど。
「この一ヵ月、寂しかった……その前は二カ月会えなかった」
「由梨香」
ぐずぐずと呟く私の体を抱き上げ、巽はリビングへと戻った。
ソファにおろされるのかと思ったけど、巽はテレビの前に腰をおろすと自分の膝の上に私を座らせた。
そして、私をその体に抱きかかえるように包み込んでくれた。
「どうした? 特技は我慢と強がりの由梨香がそんなに素直になるのは……ちょっと怖いな」
あやすように体を揺らし、私の顔を覗き込む巽。
普段と違う私に、不穏な何かを感じているようだ。
「いつもなら自分でチケットを用意できなかったら絶対に俺の演奏を聴きにこないのに。今日は内川さんにチケットを用意してもらうし」
「あ、うん。内川さんにはお世話になっちゃった。お礼しなくちゃ……」
「いいんだよ、そんなの。いつも俺のスケジュールを埋めすぎて由梨香に申し訳ないって言ってるから、チケットの用意ができてホッとしてるはずだ」
うんうんと頷きながら、巽はそう言ってくれるけど。
やっぱり巽の演奏は自分の力で手に入れたチケットで聴きに行きたい。
「巽のプライベートは私が独占したいけど、演奏家としての巽はひとりのファンとして正々堂々とチケットを手に入れたいの」
これまで何度も口にした思いを巽に伝えた。
すると、巽は小さな息を吐いた。
「ほんと、面倒な女だよな。俺は俺だろ? チケットくらい素直に受け取れよ」
「ん。そういう機会もあるかもしれないけど……」
これからも、そんな機会はない方がいいかな、と思いつつ俯くと。
「で?どうして今日に限って内川さんに手配してもらったんだ?」
「えっと……それは」
巽の問いに、思わず口ごもった。
今日会えたら絶対に言おうと思っていたけど、いざ問い詰められると言いづらい。
巽が私の決断に反対することはないだろうけど、勝手に決めたことをどう思うのか、不安だ。
「由梨香?」
巽は私の体を持ち上げ、向かい合わせにおろす。
そして、顔を近づけると、歪めたままの唇で私の唇をふさいだ。
「理由を言うまでキスし続けるぞ」
吐息交じりの声があまりにも色っぽくて、それもいいな、黙っていようかなと思わずちらり。
すると、そんな私の想いを察したのか、巽は「キスだけじゃないからな」と低い声で迫ってきた。
それだけでなく、フレアスカートをめくり、足をじりじりと指でなぞり始めた。
「や、やだ」
思わず巽の手を叩き、スカートを整える。
だけど、巽が伸ばした足を跨いだ状態の私にはそれが限界で、足を閉じたくてもそれがなかなか難しい。
もぞもぞ体を動かしていると、焦る私を面白がるように、巽が小さく笑った。
「これ以上のことなら何度もしてるし、今夜も寝かせるつもりはないんだけど。いつまで恥ずかしがるんだよ。……ま、それが由梨香だけどさ」
「か、からかわないでよ」
「おー、顔が真っ赤」
「誰のせい……」
私は両手を顔に当て、巽の視線から逃げるように顔を背けた。
たしかに巽に抱かれたことならたくさんあるし、思い出すだけで体が熱くなるようなことを色々、そう、色々されてきたけど。
やっぱり恥ずかしいものは恥ずかしいのだ。
あたふたした心を落ち着けるように浅い息を繰り返していると、巽が私の顔を覗き込んできた。
「ちょ、ちょっと待って、今の顔、見せたくない」
思わず顔を隠そうとした手を、巽がつかみ、それを許さない。
「巽……」
か細い声でつぶやけば、巽は互いの額をコツンと合わせた。
「俺のことが大好きで会えない時には泣いてるに違いない由梨香のこの顔、見せろよ。照れて赤くなって、涙も零れ落ちそうで。それは全部俺のせいだろ? そうでなきゃむかつく」
「むかつくって……」
巽の言葉が、なんだかおかしくてくすりと笑ってしまう。
「で、さっき聞いたチケットの理由だけど?」
「あ……」
「忘れてないぞ。さあ吐き出せ。……別れる以外の理由なら、俺はちゃんと聞いてやる」
「わ、別れるなんて、やだ」
巽の言葉に瞬時に反応した私は、大きな声を上げた。
「別れるなんて絶対にやだ。高校の時は立ち直れたけど、今別れたら私、もう無理。何もできなくなる」
荒々しい声で口をついて出た言葉に、巽はニヤリと笑った。
「そうだろうそうだろう。俺がいなきゃ由梨香はダメになるよな。安心しろ。由梨香が別れるって言いだしても別れてやる気はないから」
巽はそう言って、私の背中を優しく撫でてくれる。
良かった……。
別れるなんて言葉が出てきただけで慌ててしまう。
どこまで私は巽に惚れてるんだろう。
ホッとした私は、ふうっと息を吐き出した。
「別れたくないから、仕事、やめることにしたのに」
「……え? 仕事、やめるのか?」
ホッとした途端思わず口にした言葉に、巽が驚いた声を上げた。
「あ……、う、うん……」
別れるなんて言われて、動揺したせいか、言いづらくてなかなか言えなかった言葉を、思いがけず呟いてしまった。
ちゃんと言おうと思ってたけど、もう少し巽の様子を見ながらにしようと思ってたのに。
「いつ? もう会社には伝えてるのか?」
「うん……言った。というより、ありがたいことに来週から私の送別会が続いてね、月末に退職予定です」
次第に小さくなる声。
どう思っているかと不安で、うかがうように巽を見た。
この数年、退職についてずっと悩んでいて、ようやく結論を出したのが去年の初め。
巽に相談したことはない。
言えば「せっかく築いたキャリアを捨てるなんてもったいない」って言われるだろうし、そう言われて悩まない自信もなかったから、巽には何も言わずひとりで決めた。
「会社に迷惑はかけてないのか?」
意外に落ち着いた巽の声にコクコクと頷いた。
「今年一年をかけて引き継ぎをしたし、お世話になった方には社内外含めてちゃんとご挨拶もした」
「そうか。俺には理解できないプログラミングの仕事だったけど、楽しそうだったな」
「うん。自分でやりたいと思って頑張ったからね……職種変更もして、かなりのめりこんだ」
総合職に変わる試験を受け、それまで触れたことのないシステム開発の世界に身を置き、それこそゼロから学んだ。周囲の人の足を引っ張りながらもくらいつき、ひとつひとつ教えてもらってようやく〝主任″という役職に就くこともできた。
事務職から総合職に変わる女性が増えつつあるとはいっても、その中で初めて役職に就いた私。
社内報でも紹介され、このまま順調に昇進していくだろうと周囲からの期待も大きかった。
私自身もその期待に応えなければとがむしゃらに仕事を頑張っていた。
もちろん、苦しいことも多かったし、女性が注目を浴びることに批判的な男性からの視線もあった。
でも、仕事で結果を出すうちにそんな視線も少なくなり、次第に仕事が面白くなっていった。
「でも、私が仕事を頑張ってきたのは、胸を張って巽の隣にいたかったからだって、気づいたの。ヴァイオリニストとして確固たる地位を築いてる巽には、中途半端な人間は似合わないって思ってた。だから仕事も頑張ったし昇進もできた」
勢いづいて早口になる私の言葉に、巽は戸惑いを隠せないようだ。
「俺の隣って、それは由梨香に決まってるだろ? 好きなんだ、お前が。それだけで理由になるだろ」
私の言葉が理解できないとでもいうように、首をかしげた。
「それに、確固たる地位っていうけど、俺はまだまだこれからも練習してもっといい演奏ができるようにならなきゃならないんだ。今はたまたまCDも売れてるしコンサートのチケットも完売が続いてるけど、自分の演奏技術の未熟さは俺自身がよくわかってる」
自分のこととなると、必要以上に謙虚な巽。
ファンの方や音楽評論家の方からの評価がどれほど高くても、決して満足せずおごることもない。
コンサートを開けば即完売、CDを発売すればチャートの上位に食い込み長い間ランキングを賑わせているというのに。
巽は自分の演奏を少しでもよりよいものにしようと努力を続けている。
高校卒業後、ヨーロッパで学んでいた頃に師事していた先生のもとでのレッスンを今でも続けている。どれほど忙しくても、その時間だけは削れないと言って、半年に一度はヨーロッパに出向いている。
たとえ、寝る時間を削っても、そして、私と過ごす時間がなくなっても、自分の技術向上につとめているのだ。
それほどの努力を続けているのに、今もなお、巽は自分の演奏に対しては謙虚な姿勢を崩さない。
それが、彼の演奏家としての伸びしろにつながっているのかもしれないけれど。
「巽が自分の演奏に満足してなくて、まだまだ上を目指してるのは知ってるよ」
「上を目指すというか、足りない部分を強化していくというか……」
「どっちでもいいよ。巽の努力が素敵な未来につながるっていうのはわかるから」
自分の演奏についてはなかなか強気に出られない巽の言葉を、やんわり遮った。
私のことになると強引すぎるほど強引なのに、演奏のこととなるとその片鱗はまるで見えない。
謙虚な姿勢といえば聞こえはいいけれど、裏を返せば貪欲なのだ。
これでもかというほど自分の演奏技術の向上のために時間と努力を費やす。
本人にしてみれば、それは自信のなさと未熟さにしか思えないようだけど、周囲からは「どこまでうまくなれば気が済むんだ?」という呆れた声も聞こえる。
内川さんも私も、それは同じ意見だ。
現状に満足しない向上心、それが巽をここまで成長させた原動力だ。
だから私もそれを見習ってきた。
巽の隣に躊躇なく並べるよう、とにかく仕事を頑張ってきたのだ。
「私ね、巽が努力してることも悩んでることも知ってるし、側で見てきたから自分も同じ場所にいられるように仕事で努力してきたんだけど」
「ああ。総合職に変わってからは、とくに熱心だったよな。俺が日本に帰ってきてもシステムの本番で会社に泊まり込みやら出張やらで会えない時も多かった」
「ごめんね。女だからって免除にはならないから。連日の泊まりでお風呂にも入れない日もあるから会いたくなかった日もあったし」
私はへへっと肩をすくめた。
巽は苦笑し、「寂しいのは寂しかったけど。まあ、体を壊さないかどうか、それだけが心配だったな」とつぶやいた。
寂しいと言われて、うれしくなる。
そして、会社を退職する理由が、ほんの少し言いやすくなった。
あまりにも忙しい日々が、私の将来にどう影響を与えるのか……。
なんて格好いい理由を言いつつ説明しようかと思っていたけれど、そんなのどうでもいいのだ。
結局、最大にして唯一の理由、それは。
「あのね、私が会社を辞めようって決めたのはおととしの年末まで参加していたプロジェクトが無事に完了した頃なの」
「そんなに前? なにも言ってなかっただろ」
「うん、ごめんね。私の仕事は言えないことも多くて、黙ってることが癖になってるのもあるんだけど……プロジェクト参加は夢だったから、あの二年間はあっという間で……でも、自分の実力のなさに苦しんだ時間でもあったけど」
自らその道を選んだとはいえ、職種の変更をし、プロジェクトの参加という社員の多くが目標としているものに参加することの厳しさを身に染みて感じた二年間だった。
自分のふがいなさに脱落しそうになったのも一度や二度じゃない。
何度やめようと思ったか、数えることもできないけれど、それでも頑張れたのは巽が自分を厳しく律しながら前進していく姿を見てきたからだ。
「プロジェクトが終了して、仕事に向き合う自信はついたけど……巽がイタリアで熱を出して寝込んで帰国が延びたって内川さんから連絡があった時に、自分はなんのためにこんなに必死に仕事ばかりをしてるんだろうって思って」
「あれは、俺が無理をしすぎたからだろ? 由梨香には関係ない」
私の言葉に、巽が焦った声を上げた。
「ううん。私には関係ある。大切な人が海外で寝込んでるのに、どうして私は側にいられないんだろうって、苦しかった」
「それは……俺だって、同じだろ。由梨香が日本で寂しい想いをしながら俺を待ってるのに海外でレッスンを受けたり演奏したり……仕事だとはいっても、いつも悩んでる。由梨香の側にいられない時間が、もどかしいんだ」
巽はひと息でそう言って、悔しげに息を吐いた。
巽が口にした言葉は、私の気持ちを代弁したものだ。
そう、一緒にいられないのが、もどかしい。
四六時中一緒にいられない理由を挙げれば両手で足りないくらい、すぐに言える。
ふたりがそれぞれ、目指している道を突き進んでいるのだから、寂しい、切ない、苦しいは胸の奥にしまっておかなければならないってこともよーくわかってる。
社会人としての責任もあるし、巽には巽の演奏を楽しみにしているファンの方がたくさんいる。
国内だけでなく、海外にもたくさん。
私だって、地域限定採用の事務職から、全国転勤も有りの総合職への職種変更を経てプロジェクトの参加、そして主任にまでなった。
少なからず、私を目標にしている女性が社内にいることも知っている。
就活中の大学生向けの会社説明会で壇上に立たされ、自分のこれまでの経緯を話す機会も何度かあった。
女性にも望む職種への変更や役職に就くチャンスが多くあるという、会社のイメージアップ作戦。
何名かの女性がその顔として駆り出され、私もその中のひとりとして表舞台にも立った。
大企業と言われるわが社の顔ともなれば、あらゆる媒体に顔を出すこともあり、そのたび自分のこれまでの努力と、目標を叶えるために後押ししてくれる上司と会社のシステムを話してきた。
決して嘘でも誇張でもなく、私が自慢に思う会社のことを話してきた。
そして、いつしか私は女性社員の希望の星と呼ばれるようになった。
自分の努力と実力次第で、やりがいのある仕事をすることができるのだというお手本のような女性。
不本意ながら、そう見られるようになった。
だからこそ、自分の思いだけで簡単には退職できなかった。
もし私が簡単に会社を辞めるようなことがあれば、「やっぱり女はダメだな」と言われるだろうし。
そうなれば……私を目標にしている後進たちの道を閉ざしてしまわないかと、危惧していたのだ。
それに、中途半端に退職できないことはもちろん、私がこのまま順調に仕事を続け、出世することを会社から期待されているとわかっていた。
だから、決断できなかった。
「だけどね、巽が海外で寝込んだり、せっかく日本でコンサートを開いても会いに行けないし、それになにより……抱いてほしい時に抱いてもらえないのが寂しかった……あ、抱いてっていうのはその、あの、ぎゅって抱きしめてもらうってことで、ね」
自分が言った言葉に思わず焦った。
抱いてほしいなんて、そりゃ、もうひとつの意味もあるけど、って、今はひとまずおいとくけど。
「だから、もう、辞めるって決めてから……周囲に迷惑をかけないように一年かけて引き継ぎやら根回しやらあれこれ。ようやく、退職手続きも完了して、いよいよ送別会ラッシュなの。それに備えて今日は残業……」
コンサートの開演に間に合うように頑張ったけど、後輩に振り分けなければならない仕事がいくつか漏れていて、焦ってマニュアルを作っていたのだ。
数曲だけはどうにか聴けて良かったけれど、もしかしたらダメかもしれないとドキドキした。
「巽は、これからしばらく海外での仕事が増えるって言ってたし、日本でのコンサートは当分ないって聞いて……それに、えっと……巽の独身最後の日本での演奏は、どうしても聴きたかったから、今回だけは内川さんにお願いしたの」
「は?」
「そう、それが、どうしてもチケットを手に入れたかった理由なの」
私は強い口調できっぱりとそう言って、巽の目をじっと見つめた。
正直なところ、自分の気持ちを口にしたことがあまりにも恥ずかしく……目を閉じて巽の反応を待ちたいところだけど、それは、だめだと自分を励ます。
「プ、プロポーズするつもりで、今日、演奏を聴きに行ったの」
「やっぱりプロポーズ、なのか?今の〝独身最後の〟っていうのは」
意外にも、巽は平然とした様子でそう言うと、くくっと小さく笑った。
呆れているような驚いているような、そんな笑い声だ。
「俺は長い間由梨香といるから理解できたけど、『独身最後の』って言葉でプロポーズなんて、普通気づかないぞ?」
どこがおかしいのか、巽は肩を震わせている。
「笑わないでよ。私には精一杯の言葉なのに」
「悪い悪い。まあ、由梨香がどうして内川さんにチケットを頼んだのかはわかった。独身最後の俺の日本での演奏を聴きたかったんだよな。で、仕事を辞めるのも、了解。これからは俺が由梨香の財布になってやる。安心しろ。これでも結構稼いでるから、とはいっても将来は謎だけどな」
「謎じゃない。たしかにどうなるかわからないけど、巽なら、なんとしてでも音楽で生きていくでしょ? そのあたりは心配してない」
「そっか」
巽は私の髪をそっと梳き、そのまま私の体を抱きしめた。
そして、顔を私の肩口に乗せると、くぐもった声でつぶやいた。
「プロポーズの後で悪いけど、追加公演が来月あるんだ」
「え? 追加?」
「そう。今日でとりあえず国内の公演は終了だったんだけど、ヨーロッパ公演の前にもう一度、弾けることになった」
ふうっと息をついた巽の手が、私の頭を抱いた。
「追加って、夢のひとつだったんだ。公演途中でその話は出たんだけど、会場を抑えるために内川さんが頑張ってくれてさ。俺って幸せ者だろ?」
ほんの少し震えている声は、喜びで溢れている。
これまで何度もコンサートは開いているけど、巽自身のスケジュールや会場の都合などでなかなか追加公演を実現させることはできなかった。
日本だけでなく海外でも演奏をしていて忙しいのも理由のひとつだ。
仕方がないとはいっても、私のように、チケットが手に入らず悔しい思いをする巽のファンも多く、追加公演を望む声を耳にするたび、巽は胸を痛めていた。
だけど、二カ月後に始まるヨーロッパ公演の準備のために近々渡欧する予定だし。
「……大丈夫なの?」
心配する私に、巽は「もちろん」と即答した。
「だったら、ヨーロッパ公演は?」
「それも予定通りだ。たまたま三週間ほど空いてる時期があって、そこに内川さんが追加公演を入れたんだ」
「そうなんだ……」
本当に大丈夫なのか心配だけど、巽の明るい声を聞いて、安心した。
なにより、巽の演奏を愛してやまない内川さんが、巽に無理をさせるわけがない。
これ以上私が心配しても仕方がないのだ。
それに、ようやく巽の願いが叶うのだから、私も一緒に喜ばないといけないな。
「だからせっかくの由梨香のプロポーズだけどさ、早く実行に移さないと、独身最後の国内での演奏っていうのは今日じゃないかもな」
もったいぶるような巽の声に思いをめぐらせると、ふと気づく。
「あ……そうか。その追加公演が最後ってことになるの? そうなると、その追加公演のチケットこそ頑張って手に入れなきゃ。あ、後援会の先行販売ってあるの? あとで内川さんに聞いて確認……あー、こうしてられないや。えっと、電話してみようかな……」
大切なことに気づいた私は、ソファの横に置いているカバンを取ろうと立ち上がった。
早く内川さんに申し込みの詳細を聞かなければ。
焦りながらカバンに手を伸ばすと、その手を巽がつかんだ。
「巽?」
驚いて巽を見れば、苦笑しながらくつくつ笑っていた。
「……やっぱり鈍いよな」
「鈍い? 私が?」
「そう。あのさ、俺としては、今日の公演を独身最後にしようと思ってるんだけど?」
巽は再び私をソファに座らせると、言い聞かせるようにそう言った。
「あ、うん。それって私がさっき言ったプロポーズだよね?」
思わず口をついて出た私の言葉をまねるように、巽は同じ言葉を口にした。
独身最後っていう響きに、私の願いを込めたんだけど、今巽がそれを繰り返したということは、もしかしたら。
「それって……巽からのプロポーズってこと?」
そうであってほしいと願う強い想いをどうにか抑えながら問えば、巽は力強く頷いた。
「もちろん、俺からのプロポーズ。すぐにでも籍を入れて、独身生活を終わりにしよう」
このまますぐ役所に駆け込みそうな勢いでそう言うと、巽はうれしそうに額を合わせた。
久しぶりに会ったせいかスキンシップが激しいような気がするけど、それはもう、どんとこい。
額だけじゃ物足りなくて、私は巽の胸に抱きついて、頬をすりすりと寄せた。
巽の背中に回した手には思いのほか力が入ってしまい、指先が痛い。
「巽、たつみ……」
小さな声でつぶやけば、巽も私を抱き返してくれる。
どうしてこの温かさを感じられないまま仕事を続けていられたんだろう、私。
もちろん、仕事に多くの時間を割き、頑張ってきたことに後悔はないけれど、やはり、巽以上に大切なものはない。
わかっていたはずのことに改めて気づき、巽への想いが溢れ出す。
巽を、愛している。
その想いは目の奥を熱くし、涙だけでなく、言葉となる。
私は、溢れる想いを抑えきれず、もう一度、わかりやすい言葉で巽にプロポーズした。
「お嫁さんに、してください」
私の言葉に対する巽の答えは、そのあとすぐに寝室に連れていかれ、私の体に赤い花を散らしながら伝えられた。
「入籍はすぐにということですが、結婚式はいつ頃を考えてらっしゃいますか?」
内川さんの落ち着いた声が部屋に響き、巽と私は顔を見合わせた。
巽との結婚を決め、互いの両親への挨拶も終えたあと、内川さんを交えて今後のことを話し合うことになった。
巽のマネージメントをしている事務所での打ち合わせに私が参加するのは初めてだけど、巽との付き合いが長い私は、事務所に顔見知りも多くて大した緊張もない。
打ち合わせルームで巽と私、内川さんと、マネージメント室長の小倉さんの四人で向かい合って座る。
小倉さんは五十代半ばの女性で、イタリアの音楽院で学んでいた巽の才能を見抜き、演奏家として活動を始めるきっかけを作ってくれた人だ。
学生の自分にはその実力はないとためらっていた巽を口説き落とし、日本でのデビューを実現させた強者。
グレーのパンツスーツを着こなす細身の体からにじみ出る熱意はかなりのもので、今も巽の結婚を、夏に発売のCDの売り上げにつなげられないかと考えている。
「巽に恋人がいるというのは周知の事実だから、結婚することで人気が落ちることも、もちろん演奏家としての力が損なわれるとは思わないけど、一生に一度のことだから、プロモーションにも利用しましょう」
力強い声でそう言って頷く彼女に、巽は苦笑している。
「プロモーションもいいですけど、俺たちはとっとと入籍するのでマスコミに発表するならよろしくお願いします」
「わかってるわよ。由梨香さんの存在はとっくにマスコミに知られてるし、結婚も秒読みだと思われてるから問題ないわよ」
小倉さんは私を安心させるように、にっこりと笑ってくれた。
結婚してふたりの息子の母親でもある彼女は本当にたくましい女性だ。
「そうだ、今度のCDに入ってる曲を披露宴で演奏して、宣伝しましょ。マスコミも何人か会場に呼んで、いい記事を書いてもらいましょう。由梨香さんのウェディングドレス姿もキレイだろうし、当日は金屏風の前でふたりで並んで会見ね。きまり」
「え……金屏風?」
小倉さんの言葉に、私の声は裏返った。
会見だなんて、そんなの聞いてないし、するつもりもないのに。
隣に座る巽を見れば、仕方がないなあという顔でため息をついている。
それは小倉さんの言葉を受け入れたってことで、会見するってことなのだろうか。
「巽? あの、ウェディングドレス……金屏風……」
声をかければ、巽は私をじっと見つめ、何故か大きく頷いた。
「不本意ながら、俺、マスコミからカメラを向けられることが多いだろ? 演奏のことだけでなくプライベートも探られるし」
「う、うん……そうだね。今はかなりマシになったけど、前は私の会社にまで来る記者の人もいたし」
以前、雑誌のインタビューで巽が「恋人? 絶対手放したくないオンナならいますよ」とさらりと言ってしまったことがきっかけで、〝市川巽の恋人を探せ〟のようなマスコミの動きがあり、世間でもかなり盛り上がっていた。
コンサートのあと楽屋に出入りする私の姿が写真に撮られたり、海外で一緒にいるところを一般の方に見られ、SNSにアップされたりと、私との関係はあっという間にマスコミに、そして世間に知られることとなった。
当時、巽の人気を確固たるものにしようと躍起になっていた、商売上手で強引、そして人情に厚い小倉さんは怒り狂ったけれど、元来が仕事人間の彼女はあっという間に脳内計算機を作動させた。
そう、私の存在がマスコミに知られ、騒がれていることを逆手に取り、『市川巽』という演奏家を一気に国内に認知させるにはどうすればいいのかと、算段し始めたのだ。
『どうせ巽と由梨香さんは結婚するんだから、それまで、ううん、そのあとも、そのことは利用させてもらうわよ。大丈夫、ふたりが幸せになるために、精いっぱい後押しするし、儲けさせてもらうから』
じっくりと聞けば、その意味に首をかしげそうな言葉も、小倉さんが口にすれば大したことのないように聞こえ、その場で頷いてしまったけれど。
よくよく考えれば、それは私たちの結婚を商売に利用するってことだ。
ちょっと待て、と思わないでもなかったけど、小倉さんの考えの中には巽と私をつつがなく結婚させるという大きな目標があるというのがわかっていたこともあり、腹をくくって任せてみることにした。
そして、マスコミへの定期的な対応を行うことや、巽の口から私との関係をなれそめも含め小出しにしていくことが決まったのだ。
ある程度オープンに対応しなければ、マスコミの動きが盛んになり、あることないこと週刊誌に書かれたり、ネットにアップされ、取り返しがつかないことになるかもしれない。
それを防ぐために、巽と私の付き合いを、それなりに出すと決まったのだ。
結婚が決まればちゃんと会見を開くし、そのほかのプライベート情報も、なるべく公表する代わりに、無茶な取材はやめてもらう。
そして、私への取材はすべてお断りということにしてもらった。
私は一般人なのだ、それはもう、当然だろう。
その取り決めがなされて以来、私への突撃取材はなくなったけれど、ふとした瞬間、隠し撮りされているなと感じることもある。
おまけに、巽への取材依頼は相変わらず続いているらしい。
きっと、結婚が決まったと公表されればその数はさらに増えるに違いない。
……さすが、市川巽。まるで芸能人だ。
そうなれば、市川巽の嫁となる私も、記者会見に臨まなければならないのだろう。
……仕方がない。
「そうだ、巽が師事しているイタリアの大先生にも招待状を送らせていただきましょう。ふふ、きっと世界中で話題になるわね。披露宴で共演ともなればDVDで売れるかも。あ、だけどあの大先生は気難しそうだし、慎重に交渉しないと……」
小倉さんのとんでもない考えに、私と巽は驚き、口をつぐんだ。
近いうちにイタリアにはご挨拶に伺おうと話していたけれど、まさかお忙しい中披露宴に来てもらうわけにはいかないだろう。
飛行機が嫌いらしいし、多分、出席は無理だろうな。
そう思いながらも、巽を見れば「あーあ」というような顔で肩をすくめている。
小倉さんは、すでに次のことに頭の中は移っていて、私のウェディングドレスは巽をバックアップしてくれているデザイナーにお願いしなければとPCに打ち込みながら、ホテルは国内最大の会場を備えたアマザンホテルにしようと電話をかけ始めている。
「入籍は今日でも明日でもいいけど、披露宴の日程は、アマザンと私で調整するから任せてね」
と言い切った。
「小倉さんが動けばなんでも思うがままに進みそうだな」
くすくす笑いながら、巽が私の顔を覗き込む。
「そう、だね」
私も巽と同じことを考えていた。小倉さんが動けばイタリアの大先生も忙しいスケジュールをどうにか動かして、来てくれそうに思えるから不思議だ。
「金屏風の前で会見を一度開けば、由梨香がマスコミの前に顔を出すこともそうそうないだろうから、頑張ってくれ」
巽はそう言って、私の背中をポンと叩いた。
「まあ、私なりに頑張るけど、人前に出るのは苦手だし、今から緊張で泣きそう」
考えるだけでドキドキし、緊張感が溢れてくる。
仕事では強気で交渉したり粘ったりできても、根本は小心者の私。
金屏風を想像しただけで吐きそうだ。
そんな私を高校時代から知っている巽は、「じゃあ、由梨香が自分に自信が持てる、いいものをプレゼントしてやる」と言いながらニヤリと笑った。
ほんの少し胸をそらし、自信に満ちている表情。意味がわからない。
「……プレゼントってなに?」
「なんだろーな」
「あ、婚約指輪……とか?」
「単純だな。もちろん、それは由梨香の指にはめるし外すことは許さないけど。もっといいものだ。ちょっと耳を貸せ」
巽は、子供がワクワクと胸を弾ませているような、生き生きとした表情で私の肩を抱き寄せた。
「ちょっと、巽……」
ここは私たちの部屋じゃない。
国内最大手のマネージメント事務所だ。
向かい側には内川さんと小倉さんがいるし、抱き寄せられるなんて、恥ずかしすぎる。
私は慌てて巽の腕の中から逃げようとしたけれど、そうはさせまいと巽の手にぐっと力が入る。
「大丈夫だ。ふたりは俺らのこんな姿、見慣れてるから。ほら、全然俺らのこと見てないし」
「あ、ほんとだ」
視線を動かせば、アマザンホテルとの打ち合わせを始めた小倉さんと、マスコミ各社へ送る文書をぶつぶつ言いながら書いている内川さん。
ふたりとも、さっきまで私たちの結婚を祝ってくれる優しい顔をしていたのに、今はもう仕事モードの顔に切り替わっている。
おまけに私たちのことはそっちのけだ。
これはもう、結婚という大きな仕事を滞りなく完結させるためのプロジェクトと言ってもいいかもしれない。
「な、だからふたりのことは放っておけ。俺は由梨香と結婚できればその過程はもう、どうでもいいんだ」
「そんな、乱暴な……」
「いいんだよ。ちゃんと披露宴をしておけば、マスコミも満足するだろうし。だから、由梨香は金屏風の前で笑う練習に励んでくれ。あまりにもドレスが似合っている由梨香の姿が女性誌の表紙を飾るんじゃないか? いいな、それ。俺の嫁はキレイだぞって、見せびらかしてやる」
「巽……顔が怖い。小倉さんに毒されてるよ」
整っている巽の顔が、悪魔のほほえみを浮かべている。
普段隠している腹黒さが顔を出して、ちょっと怖い。
けれど、巽は私の言葉を気にすることもない。それどころか。
「惚れた女を手に入れるためなら、腹黒さ全開でやりきるまでだ」
と握りこぶしまで作っている。
「な……、なにそれ」
不敵に笑う巽。
言葉通り、腹黒さが溢れ、おまけに色気まで交じっている。
無敵の格好良さを見せつけられたようで、くらくらする。
……まあ、いいか。
「私も巽のお嫁さんになれればそれでいいから。頑張るよ、記者会見」
一生に一度だと思って、そして、巽のこれからの活動がいい方向に向かう後押しとなるように。
「金屏風の前でにっこり笑って『市川巽の妻です』なんてことを、ちゃんと言うから安心して」
強い口調で巽に伝えた。まるで、決意表明だな。
吹っ切れたような私の声音にホッとしたのか、巽は悪魔のほほえみを消し、いつもの天使のような優しい表情を浮かべた。
天使でも悪魔でも、どちらも見ごたえのある素敵な顔だなと、再確認していると、巽の目がキラリと光ったような気がした。
「巽?」
「ん?」
巽はゆっくりと私の耳元に唇を寄せた。
「今日これから役所に行って、入籍しよう。そうすれば、由梨香は『稲生由梨香』から『市川由梨香』になるんだ。俺と同じ名字で、同じ人生を歩もう」
「巽……」
耳元をくすぐる巽の吐息に体が反応する。
結婚するのだから、同じ名字になることはわかっていたけれど、いざ口に出して言われれば、それが実感できて幸せが満ちてくる。
なかなか一緒にいられない寂しい時間を過ごしてきたけれど、ようやくお互いの体温を感じられる距離で、一緒にいられるんだ。
ふたりでずっと一緒にいられる。
「銀行でも病院でも、『市川さーん』って呼ばれるんだな。いいな、それ」
「や、やだ。これ以上喜ばせないで……」
巽の言葉が、私の目の奥を熱くし、次第に視界がにじみ始める。
今にも泣いちゃいそうだとぎゅっと目を閉じた時。
「俺と同じ名字を由梨香にプレゼントするから、記者会見で緊張しても自信を持て。そのプレゼントは、世界でひとりしか手に入れることができない貴重なものなんだ。だから、それを手にした由梨香は世界一の幸せ者だ。俺の隣で極上の笑顔を浮かべて頑張ってくれよ」
「た、たつみ……」
巽がその言葉を私の耳元に注ぎ終えるのを待たず、私の頬には熱い涙が幾筋も流れ落ちた。
なんてキザなセリフをこうも平然と口にすることができるんだろう、このオトコは。
涙が止まらないし、ひくひくとしゃくりあげてしまうじゃないか……。
涙でにじむ視界の向こう側にある巽の顔を睨みつければ、私の肩に置かれた巽の手がするりと私の腕を撫でた。
愛撫のようなその動きに、体の奥がピクリと反応した。
「その顔、睨んでるつもりだろうけど、意味ないし」
「え?」
巽の堅く低い声に違和感を覚え、首をかしげた。
どうしたんだろう。私が泣く姿なんて、何度も見たことあるのに、感情を抑えたような声を出すって珍しい。
あまりにもブサイクな泣き顔に呆れているのだろうか。
「だって、巽が私の喜ぶことばっかり言うから……ばか」
頬を流れる涙を手の甲でぬぐい、くぐもった声で巽に文句を言った。
すると、巽は私の腕をつかみ、すっと立ち上がった。
「俺たち、今から入籍してきます。あとはお任せしますから、よろしくお願いします。披露宴会場はアマザンでもどこでもいいですけど、カメラマンを頼むなら、由梨香をキレイに撮れる腕のいいカメラマンにしてください。メイクも同様、まずは由梨香ありきで。そこだけおさえてくれれば、小倉さんと内川さんの好きに決めてください」
巽は内川さんと小倉さんにそう言ったかと思うと、『はいはい』と頷く二人を残し、私を引きずるように部屋の外に出た。
出る瞬間、焦って振り返った私に、笑いをこらえたような顔をした内川さんと小倉さんが、ひらひらと手を振っているのが見えた。
「た、巽、どこに行くの?」
エレベーターで一階に降り、足早にロビーを駆け抜ける時も、巽は私の手を離さない。
つかまれた手首は痛むし、打ち合わせだからと気合を入れておしゃれをした私の足は普段履かない7センチヒールに包まれている。
カツカツと響く音はなかなか格好良くて、デキる女性のようだけど、現実は足が痛くて今すぐにでも脱いでしまいたい。
ゆっくり歩こうよと思いつつ、巽の勢いに気圧された私は、何も言えないままビルを出た。
そして、巽は目の前の大通りでタクシーを止めると、私を後部座席に押し込めた。
「ちょっと巽、どこに行くの?」
座席の奥に体を落ち着け、息を整えながら巽を見れば、「北区役所まで」と運転手さんにお願いしている。
「巽? ほんとに今から届けを出すの?」
「そう。早くこうしておけばよかったんだよな。高校を卒業した時とは言わないけど、日本に拠点を移して再会してすぐとか。あー、もったいなかった」
フロントガラスの向こう側を見ながら、巽は悔しそうに顔をしかめている。
その表情もまた、ただただ格好良く、眼福だ。
子供みたいに拗ねている様子もかわいらしい。
「届けと必要な書類はちゃんと持ってるし、今日中に由梨香は『市川由梨香』になるんだ」
「そうか……、市川……」
まさか今日入籍すると思っていなかった私は、この状況を理解したばかりで何も言えず、頷いた。
腕時計を見れば午後三時。
ここから十五分くらいだから、余裕で間に合う。
平日の大通りはわりと空いていて、区役所までの道のりはスムーズだ。
オフィス街から官庁街へと入り、しばらく走れば区役所に着く。
流れる景色を見ながら、落ち着かない気持ちを鎮めるようにそっと息を吐いた。
すると、私が緊張しているとでも思ったのか、巽の手が、膝の上にある私の手を包み込んだ。
爪がキレイに切りそろえられた長い指。
いつも温かさと優しさを私に与えてくれる。
そして、この手がヴァイオリンを操り、素敵な音色を生み出すのだ。
巽が大切にしているこの手を、私も大切にしていかなければ。
それも、嫁としての大切な仕事のひとつだ。
私は空いている手を巽の手の上に置いた。
巽が私を守り、私が巽を守っていくと誓いながら、何度か巽の手の甲を撫でる。
巽がくれるプレゼントは同じ名字で寄り添いながら生きていく幸せ。
そして、私が巽にプレゼントするのは、世界中のどこにでもこうして私の手をつかんで連れ回してもいいという権利だ。
世界中に巽の演奏を待っている人がたくさんいる。
その人たちのもとに、私を連れて行ってもいいという権利だ。
……これがプレゼントになるのかどうか甚だ疑問だけど、ま、いいか。
巽がどう言っても、私はついていくだけなのだから。
「あ、その入り口で止めてください」
巽の声が響き、タクシーは区役所の前に停まった。そして支払いを済ませる。
タクシーから役所の前にふたりで降り立つと、気持ちが高揚していることに気づく。
愛する人との幸せな未来を、結婚という後ろ盾とともに作り上げていく誓い。
それが婚姻届けだと会社の先輩である七瀬さんが言っていた。
聞いた時にはピンとこなかったけれど、いざこうして届けを手に歩いていると、その意味がわかる気がする。
「巽、幸せにしてあげるね」
私は、私の手をつかんで半歩先を歩く巽にそう言った。
同じ名字、結婚しているという後ろ盾、それは私が巽との未来を自信を持って歩んでいける保証のようなもの。
そして、巽からたったひとりがもらえる素敵なプレゼントだ。
私からのそのプレゼントのお礼は、巽を目いっぱい幸せにしてあげるという誓いだ。
私の言葉に耳まで赤くした巽は、歩みを止めることなく私に視線を向け、照れながら小さな声でつぶやいた。
「そんなの、とっくに幸せだ。由梨香と再会してからずっと、俺は幸せなんだ」
巽の声に、私も思わず「うん、私も」と大声で答えた。
そんな甘い言葉をふたりで交わし合いながら、婚姻届を提出し、無事に受理された。
それから一週間あまり。
市川巽の結婚がマスコミに発表された。
発表以降のスケジュールの管理はもちろん小倉さんで、当人である巽と私、そして双方の家族もそれに従うことになっている。
すべて、巽の活動にプラスになるように計画されているのだ。
「似合うかな……?」
試着室から出た私は巽の前に立ち、ゆっくりと回って見せた。
黒地に朱色や赤、そして金色の糸で刺繍された花が咲き乱れる豪華な衣装。
結婚式で着ることになったのは、引き振袖だ。
着物を着る時に、丈の長さを合わせるためのおはしょりを作らずに、丈が長い状態で振袖を着ると、裾を引きずることになる。
これが引き振袖の着方で、花嫁だけに許されているものだ。
私が試着している引き振袖は、小倉さんの知り合いが保管していた由緒あるものらしく、その価値はかなりのものらしい。
今年の秋に決まった結婚式の準備は、巽の渡欧が控えることもありかなり早いペースで進んでいる。
情報公開はまだだけど、この年末、巽は和楽器とヴァイオリンのコラボに参加することが決まっていて、それに向けてのイメージづくりということで決まった引き振袖。
もちろん巽は袴姿。
小倉さんの計画が着々と進められ、巽と私はそのスケジュールに沿ってホテルに通ったりマスコミ向けの写真を撮られたり。
かなり忙しい日々を過ごしている。
「まあ、素敵ですよ。最近、引き振袖を見る機会が増えてきたとはいっても主流はウェディングドレスか白無垢ですからね。新鮮です」
ホテルの婚礼担当の人の声に、緊張していた心がほんの少し和らいだ。
続いて、「ネットでも評判になりそうね。ほんとにキレイ」と目を細める小倉さん。
小倉さんは「記者会見も和装がいいかしら……」とぶつぶつ言っている。相変わらず仕事人間だなと苦笑してしまう。
「由梨香……」
耳元に届いた声に視線を上げれば、いつの間に近くに来たのか、私をじっと見つめる巽の瞳があった。
忙しい合間に衣装合わせに来た巽の袴姿は、とても凛々しくて神々しい。
この姿でヴァイオリンも素敵かもしれない。
「格好いいよ、旦那様」
巽の手を取り、照れる気持ちを隠しながらそう言えば、巽がぎゅっと握り返してくれた。
そして、巽は私の顔を覗き込むと、私にだけ聞こえるような小さな声で囁いた。
「こんなにキレイな由梨香、誰にも見せたくないけど、やっぱり見せびらかしたい」
その甘い声はかすかに震えていて、私の心にすっと溶けていった。
幸せって、今この瞬間のこの気持ちのことをいうのかもしれない。
それから半年以上をかけて小倉さんが準備した結婚式、そして披露宴の写真は、あらゆる雑誌の表紙を飾った。
そのどれもが、巽と私の幸せを、隠すことなく見せつけていた。
【完】