働女
「リーナ!ごめん!こっち手伝ってくれ!」
「あ、はい!すぐ行きます!」
青年が手早く魚を捌く。
調理場はガヤガヤと、大勢の人間でごった返し、カウンターの外では給仕をする女の子たちでいっぱいだ。
“エリー”と呼ぶ者はここにはいない。
リーナ、それがエリーの新しい名前であった。
この大きな酒場では、いろんな人間が集まる。素性なんて知らない、冒険者や、騎士、怪しい人間も好奇心から紛れ込んだ貴族のお坊ちゃんたち、体を売る女もいれば、男もいる。そんな誰を拒むこともない大酒場“ドーム”。
エリーのいた国とは違う、隣接している大きな国だった。
元いた国がそもそも三国が交わる境にある小さな小さな国だった。
国の規模が違えば制度も違う。
人口が少なくなったこの大国が起こしたのは、他国から広く人を入れる、という対策だった。
だから入国にはほとんど審査もない。
あるのは出国の時だけ。
一度入国すればよほど王族の書状などがない限り出ることは叶わない、という場所だった。
(ここなら大丈夫、)
エリーは仕事に没頭しながら新たな自分の居場所に安堵していた。
お金は自分で稼ぐ。
逃げる時持ってきた宝石類はロリーに返した。その代わり彼は少しばかりのお金を用意してくれた。
「こんなものを持ったまま入国したら危険です。」という彼の忠告は正しかった。
この場所は荒くれ者も少なくない。
治安がいいのは王都くらいでその周りは毎日がお祭り騒ぎのような賑やかな国。
騎士も多いから事件にこそなりはしないけれど、安心はできない。
髪を染め、羊飼いをしていた頃と同じくらいに肌は焼け、一応接客なので自分で化粧をするようにもなった。
(逃げ切れてよかった…ルイス様は、旦那様、お元気かしら)
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あの時、本当に逃げ切れて良かった。
逃げ出したその日、だいぶ来たな、とエリーは馬から降りた。
明け方近くになるまで休みなく走り続けた馬は疲れを見せるどころか「まだ行けるから撫でてくれ」と言わんばかりに鼻先をエリーにすりつけようとしてくる。
人懐っこい馬だ。
主人であるロリーにはあまり懐いている様子ではなかったのに。
その辺の木に馬を繋ぎ、器に川の水を汲んでやる。喉は渇いていたようでガブガブと飲みだす馬に微笑みかけ、エリーも少し休むために座り込んだ。
鞄からパンの入った袋を取り出す。
乾き気味のパンはパサパサして飲み込みにくい。何口か食べ、水筒の水を飲む。
目的の国境まではあと少しだ。
なんとか乗り切ろう、と決意新たに、これ以上食べる気のしなくなったパンを袋に戻そうとしたその時、ガサ、と後ろの茂みが動いた。
「誰!!?」
じっと茂みを見つめると生い茂った草の中からフラりと男が現れた、と同時に男は倒れた。
倒れた男に焦り、思わずエリーは駆け寄った。うぅ、と呻く男。
「どうかしたんですか…?」
「腹が…ぱん…」
え、パン?と反射的にエリーがしまいかけたパンを差し出せば、男は驚くほど素早い動きで奪い取り、あっという間に乾いたパンを食べてしまった。
あまりの光景に呆然とし、水筒を差し出せば先ほどよりおとなしく、それを受け取り一口含んで飲み下した。
「…た、助かりまし、た!」
ガバ、と土下座して礼を述べだす男におもわずエリーはもう一つパンを差し出した。
男はキョトンとした顔でエリーを見つめ、エリーも、同じくキョトンとした顔でその男を見つめた。
まだ朝になりきっておらず、薄暗い中ではあったが、男の目に涙が浮かぶのがわかりエリーは思わず動揺した。
「女神、様…」
「…え?」
女神?と聞こうとすればどうやら日が出てきたらしい。ちょうどエリーの後ろから顔を出した陽の光が男を照らし出していく。
暗めの青髪、この国では滅多に見ない色だった。瞳の色も青く澄んでおり美しい、と素直にそう思った。
年齢的にはエリーと同じくらいか、一つ上くらいに見える。泥で汚れた顔も整っていることがわかる。
そんな男に女神呼ばわりされてエリーは困惑した。
「あの、お腹空いているなら食べます…?」
「え、あ!いや、えっと、ありがとうございます!…いただきます…!」
あ、食べるんだ、とやっと差し出したパンを受け取った男はよく見れば身なりのいい人間だった。
エリーは思わず身を強張らせた。
貴族に繋がりのある人間だったら困る。
時間もない。
とにかくもうここを離れなければ、旦那様たちが手紙に気がつくのも時間の問題だ。
「では、行きますね。」
パンを食べる男に馬にもたせていた予備の水筒を渡し、エリーは去ろうと動いた。
男はさらに驚いたように固まり次には叫ぶようにエリーを引き止めた。
「お、お待ちください!」
「…どうかされました?」
「ご迷惑ばかりで申し訳ない!その、隣国のバームに行きたいのですが!!どちらでしょうか?!」
恥ずかしいのか顔を少し赤らめながら問う青年。バーム、は隣の大国。エリーの目的地でもある所だった。
「バームでしたら、私も向かっている最中です。急ぎなのですが相乗りが出来るのなら一緒に行かれますか?」
こんな時に私は何を言っているのか、とエリーは自分に問うた。しかし、行倒れ寸前だったこの人をこのまま置いておくことも心苦しい上に、目的地が一緒。自然と相乗りを提案していた。幸い大した荷物も乗せていない。
この人さえ良ければ馬に二人乗ることは可能だった。
(誰かと喋りたかったのかな…)
エリーはこの青年を見捨てたくなかった。
昔、育ての母が「助けた命には責任を持ちなさい」と言っていたのを思い出しエリーは無意識のうちに彼に手を差し伸べた。
「旦那様に報告ね。あの女は本当に男と逃げた、と」
にやりと顔を歪める。
エリーは追われていることに、気がついていなかった。
「噓がホントになっちゃったのね、オクサマ」
しかしそれはエリーを連れ戻すようなものでもなかった。
「消えてくだされば、それで良いのです。」
エリーはそうして敵ばかりの巣窟から逃げ出すことに成功した。