側女
「ルイス様、お願いがございます。」
普段なら絶対入ることのない書斎に訪ねて行ったのは第一夫人であるエリー。
妻の行動に驚きながらもルイスは部屋に通した。
ルイスは仕事には厳しい。
美丈夫だが、目つきの悪いルイスは普段物静かで怖い印象がある。
幼い頃は無邪気な雰囲気もあった、今は見る影もなく、これが大人になったということなのだろうかとエリーは寂しさを感じていたことが懐かしい。
しかし今はそれどころではない。
ソファに促されたのを断り「ここで結構です」とルイスの前から離れなかった。
「どうした…」
「…今日、その、夜に…話したいことがありますので、部屋に来ていただけないかと。」
エリーは意を決してルイスの目を見た。
ルイスが動揺しているのは明らかだった。エリーの脳内に緊張が走る。
ルイスは目を瞑り、エリーの肩を押した。
彼が首を横に振る。
エリーにはそれがひどくゆっくりに見えた。
「悪い、今日は…シャーリー、第二夫人が来ている。彼女をもてなさなければいけないから、今日は無理だ。明日必ず行く。」
エリーは穴が開いたようだった胸の穴が確かに広がっていくのがわかった。
(そう、そうね。なにを考えていたのかしら…来てくれると思っていたなんて)
今朝の、馬車の感じを見てわかっていた。
相手はルイスと並ぶほどの大貴族で、来たばかりの大切な女性を放っておいて子供一人産めやしない平民出の妻の所になんて来ている暇はない。
それはそうだ。
(わかってたのに…)
エリーは胸の前に組んでいた手を力なく下ろした。
「わかりました。そうでしたね、今日来られる事になっていたのを失念しておりました。大したことではなかったので大丈夫ですわ。」
精一杯の笑顔を向けるエリーにルイスは苦い顔をしながら小さく「悪いな…」と言って唇に軽いキスを落とした。
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エリーは部屋に戻るため、来た道を戻っていた。
歴代妻の部屋であるエリーの部屋は、書斎からは遠い。誰もいない廊下を歩いていると、使っていなかったはずの部屋から声が聞こてえくる。
「…シャーリーお嬢様本当にお久しぶりでございます。」
最近よく聞く名前にエリーは思わず足を止めた。
ここは来賓用の部屋だったはず。しかしこの屋敷では三番目に豪華な造りの部屋で普段に使われることはない。
ここがシャーリーの部屋になっていたのか、とエリーはそっと扉横の壁に寄り添った。
「リサさん本当に久しぶりね。いよいよルイス様と結婚できるなんて、ふふ!私とっても幸せ!」
無邪気な聞き覚えのない声、おそらくシャーリーだろう。
(“幸せ”か、第二夫人という扱いだといのに…彼女は本当に、ルイスと結婚したかったのね)
まるで昔の自分のようだ、とエリーは壁から離れた。
直後聞こえた「私が絶対ルイス様の子供を産んで差し上げるの!」とはしゃぐ声がエリーの胸に突き刺さる。
(私にはできなかった…三年もあったのに、できなかった。若く可愛い、身分ある新しい妻…でもあの娘を妬む資格など私にはない)
エリーは止めていた足を進めた。
幸いだったのは、部屋に着くまで誰にも会わなかったことくるいだろうか。
エリーは最後に思い出が欲しかった。
最後にもう一度抱いてほしい、と。
確かに愛されていたのだ、という証が欲しかった。今更、と思えるだろうがエリーにはそれがけじめだった。
しかしそれは叶わなかった。
エリーよりシャーリーを優先したルイス。
その瞬間にエリーは全てを諦めた。
嫌だった。
第二夫人の噂が出てきてから、エリーの心は落ち込むばかりだった。
きっと私は嫉妬に狂う。
愛されているのか確かめるのも、第二夫人を優先されるのも、彼女にキスをしたのか、彼女を抱いたのか、彼女に愛を囁いたのか、気になって、気になって、気になって雁字搦めになる自分に耐えられる気などしなかった。
ましてや彼女に子供ができたら?
一体誰が耐えられると言うのだろう。
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夜、エリーは人知れず屋敷を出ようとした。
鞄には服が数着と下着、後は申し訳ないと思いつつ、売ってお金にするために持ち出したルイスから送られた宝石やネックレスなどだった。
結婚指輪だけは置いてきた。
いや、ただ置いてきたとは言い難い。
屋敷裏にあった倉庫のハンマーで叩いた指輪は歪み、もう二度と誰もこれを付けることの無いように、と手紙の横に置いていった。
置手紙を置くかは悩んだ。
嫉妬にかられた家出などと思われないよう、それでいてルイスやシャーリーを責めずに済む内容のものにしたかった。
『旦那様へ
突然のお手紙失礼致します。
離婚していただきたく思いお手紙書きました。お役に立つ事もなく三年も面倒見てくださったこと、感謝しております。私の身勝手をどうかお許しください。私にも想い人がおりますので、どうぞ、私のことはお忘れになり旦那様もお幸せになられますよう。 エリー』
同封したのは離婚に同意した、というエリーの署名入りの書類。
今日は本当にラッキーだった。
部屋から出るときにもエリーは誰にも会わずに済んだからだ。
おそらく、家の者はシャーリーとルイスにつきっきりなのだろう。
耳をすませば賑やかに話す声が聞こえた気がしてエリーは足を速めた。
しかしラッキーはそう続くものでもなかった。
「…奥様…?どちらへ…?」
玄関ではなく庭先から出ようと思っていたのに、呼び止められてエリーの肩はびくついた。
驚き振り返れば、そこには庭番の老人が立っていた。
この老人は顔見知りだった。
それこそルイスと出会ってすぐに、二人の所にやって来たのが、まだ若かったこの庭番の老人であった。当時は庭番ではなく、執事の一人であったけれども、一線を退いてからは趣味として庭番を自ら買って出たのだとか。
この暗がりでエリーだとわかってしまう彼の勘の良さ、ルイスの信頼も厚い人物に見つかりエリーは動揺が隠せない。
「黙って見逃して」
出て行くことを悟られたのでは、と小さく手が震えた。いや、むしろ彼相手に隠し立てはできないと悟った。
エリーは暗く見えにくい中、祈るような気持ちで彼の目を見つめる。
ここで連れ戻されてはなにもならない。
彼は押し黙り、エリーは彼の返事を待った。
「…旦那様を、信じてはいただけませんか…」
エリーから表情は見えなくとも、彼の声は苦しげに聞こえた。
(信じる、と言われても…)
エリーには考えられなかった。
今まさにルイスはシャーリーにキスをしているかもしれない、肩を抱き、歓迎の言葉と共に愛を囁いているかもしれない。
信じるなど、到底できることではなかった。
エリーが信じることができないのはなにより自分自身なのだから。
嫉妬に狂う自分を止められる気などしない、彼に愛された自分のまま消えたい。
それが彼女の願いだった。
「どちらにせよ…私、では、旦那様のお役に…立てませんので」
やっとのことで絞り出した答えに老人が俯いたのがわかる。
エリーの言わんとすることは伝わったようだ。この老人には昔から正直に話してしまう。この男は簡単に見抜いてしまうから。
もちろんエリーも今まで何もしてこなかったわけではない。
医者に診てもらったこともあった。しかし、そこで言われたのはエリーの不妊であった。
この出来事がシャーリーを迎える決定的なものとなった。
「私はいつか必ず、旦那様を責めてしまいます…今ですら…耐えられてはおりません…ですから。どうか、お許しください…」
思わず溢れる涙を抑えようともせずにエリーは訴えかけた。
男は諦めたのか、ため息ついた。
「旦那様は…貴方様をお探しになるでしょう。ですから、一度うちへいらしてください。馬を、お貸しします。」
悲しげに言う老人はエリーの隣を通り過ぎ自分の家へと案内した。
エリーは羊飼いをする中で馬にも乗ることが多かった。
この人は知っていて提案してきた。
女の足ではたかが知れている。
ルイスがエリーを探さぬわけはない。
しかし、この領地のためには後継が必要だ。彼女が居なくなるのなら、徹底的にせねばならなかった。
老人、ロリーは置手紙の内容を聞き、いざという時には口裏を合わせる約束もしてくれた。
エリーにとってはこれ以上の協力者もいない。
「どうか、ご無事で」
「ロリー、ここまでしていただきありがとうございます。」
お互いがお互い辛そうな顔をしながらの別れだった。
最後にエリーは屋敷を振り返り、目を瞑って祈った。
(どうか、ルイス様に子供が授かりますように)
こうしてエリーという羊飼いだった娘はこの街から消えた。