白髪の旅人
この世界には、二種類の人間がいる。一つは自然に対して論理的な手順に則り、科学と呼ばれる方法で自然の力を利用する者。もう一つは手順や理論などまるで無視した方法で、自然の力を意のままに操ることのできる者。
後者は一般的に、"魔法使い"と呼ばれている。
森の奥深くに、周りの高い木々を圧倒する高さの塔が建っていた。その塔はいつから建っていたのか、その森に住む住人も知らない。
その塔には、ある言い伝えがあった。動物でさえ出歩こうとしない、新月の夜に塔から聴こえる歌声を聴いてはいけない。耳にした者は自我を失う。
「じゃあ、その塔はこの近くにあるんだな?」
白髪の青年は、森の住人にその話を聞いて嬉しそうに返す。話を聞かせた長老は、渋い顔をする。
「やめておきなさい。あんたのように若い人は、無茶をやりたくなるのかもしれない。だが、この言い伝えは本当だ。10年に一度の周期であんたのような旅人が来る。皆、戻って来なかった。」
「そりゃあ、残念だったな。話、ありがとう。」
「待ちなさい。」
長老が止めるのも聞かず、青年はローブを羽織るとテントの外に出る。空を見上げれば、月は出ていない。
「ついてるねえ。」
青年は、意気揚々と光を全て飲み込む闇と化した森に分け入る。
青年はしばらく森を探索すると、立ち止まる。じっと周りの気配を探り、周囲に人がいないのを確認すると、軽く跳ねるように地面を蹴る。すると、青年の体は見えない糸で引っ張られるように上昇していく。あっという間に、青年は森の木々よりも高い位置に辿り着く。
「おお、よく見える。」
周りの木々よりも高くそびえ立つ塔。言い伝えは本当だったようだ。青年がパチリと指を鳴らすと、青年の体は塔に引きつけられたように平行に動き出す。近づくにつれて、塔から少女の歌声が聞こえてくる。その歌声は確かに美しい。しかし、青年は自我を失う程の力は感じなかった。
塔のすぐそばで、緩やかに速度を落として止まると、塔の壁を叩く。中にいる少女の歌声は止まり、窓が大きく開かれる。
「こんばんは。良い歌声だね。」
金髪の少女は蒼い瞳を丸くする。同時に、青年もアメジストの瞳を丸くして、今までにないほどの殺気を放つ。
「お前、何だ?」
青年の殺気をもろに受けた少女は、恐怖で身体が動かない。
「お前、魔法使いじゃないな。だが、人間でもない。」
青年の目には、他の人に見えないものが見えているようだった。少女は何とか逃げようと、部屋の奥に後ずさる。しかし、その動きを青年は見逃さない。
瞬時に、少女の足元に重力が増す魔法がかかる。しかし、少女はまるで何事も無かったかのように、部屋の隅まで後ずさり縮こまる。
「何故、魔法が効かない?」
驚きのあまり、青年は殺気を解く。少女は、しばらくカタカタと震えていたが、青年の様子に気がつき、恐る恐る顔を上げる。
「…すまない。つい、取り乱してしまった。もう、何もしないから少し話を聞かせてくれないか?」
青年は、少女に微笑みかける。
「あなた、魔法使いよね?私を攫いに来たの?」
「攫う?」
少女はどこか投げやりな調子で、青年に近づく。青年は窓の淵に腰を降ろすと、少女に向き直る。少女も青年の隣に腰を降ろす。
「とぼけちゃって。いいのよ、私もう慣れてるから。」
「待て待て。俺はお前に興味はない。ただ、この周辺に魔女が住んで、人間に悪さしてると聞いたから、様子を見に来ただけだ。」
「魔女ならいるわよ。でも、今は出かけてるから当分帰ってこないわ。なんだ、あなたあの人のお弟子さんだったのね。」
そう言うと、少女は残念そうに立ち上がる。青年は決してその魔女の弟子などではなかったが、否定するよりもまず先に少女について知りたくなった。
「いくつか質問していいか?」
「どうぞ。今、お茶入れるから、中入っていいわよ。」
少女の許可を得たが、青年は部屋に入ろうとせずに、その場で質問をする。
「君の名前が知りたい。」
「シーラ。あなたは?」
「俺に決まった名前はない。好きに呼んでくれ。シーラは今まで、魔法使いによく攫われそうになったのか?」
シーラはヤカンを火にかけながら、吹き出す。
「攫われそう、じゃなくて攫われて来たのよ。何度もね。」
青年は改めて、少女の容姿を確認する。見た目で判断するなら、歳の頃は10代前半。高く見積もっても20代には見えない。
「シーラの本当の家はどこなんだ?」
青年が質問すると、シーラは悲しそうに首を振る。
「分からないわ。だって、一番昔の記憶が魔法使いに攫われたときの記憶なんだもの。」
「攫われたときなら、そこがシーラの本当の家だったんじゃないか?」
「さあ、わからない。でも、私はそのときどこにいたのかは覚えてないの。」
重くなった空気を引き裂くように、ヤカンの音がなる。シーラは火を止めて、紅茶を用意する。
「ここにも、攫われて来たのか?」
「そうよ。ねえ、あなた、本当にあの人のお弟子さん?あまりに知らな過ぎない?」
「長く旅をしていたからな。シーラは自分が攫われることに、何か心当たりでもあるか?ありがとう。」
シーラから紅茶を受け取るが、青年は口をつけない。シーラは自分の分の紅茶に砂糖を加えながら、造作もなく答える。
「私には魔法が効かないのよ。私を攫った魔法使いは、皆そう言ってたわ。」
カップの割れる音がして、シーラは窓辺に視線を移す。青年の手にはカップがない。シーラは慌てて窓に駆け寄る。
「ちょっと、あなたカップ落としたわね。もう、後で私が怒られるんだから。後で元通りに直してよね。」
「…ああ。ところで、その話は本当か?」
青年はシーラの言葉を受け流し、話を元に戻す。シーラは青年の目の前に立つと、手を広げる。
「どうぞ。何でもいいから、魔法をかけてごらんなさいよ。」
やや挑発的なシーラに、青年は少し狼狽える。恐る恐る、青年は指を鳴らす。シーラの服が煌びやかなドレスに変わる。シーラは目を丸くする。
「なるほど、シーラの体に直接でなければ、魔法の無効化は成立しないのか。」
「…ちょっと、試してみたかったんじゃないの?」
「さっきので十分だ。カップを借りる。」
青年はシーラからカップの前で、指を鳴らす。すると、全く同じカップが二つに増える。唖然としていたシーラは、突然笑い出す。
「あなたって、いい人ね。」
青年は僅かに目を見開き、少し照れ臭そうに笑う。
「…そんなこと言われたのは、初めてだ。」
「私、あなたになら攫われてもいいわ。」
シーラは青年に詰め寄る。青年はシーラの目を探る。
「シーラは、ここで酷い目にあっているのか?」
「酷いことはされてないわ。今までは、何度も実験に付き合わされたり、解剖されそうになったこともあったわ。魔法じゃなくて、刃物で傷を薄くだけどつけられたこともあった。」
シーラの瞳は次第に曇りだす。
「でも、あの人は私に何もしないわ。実験に付き合わされることもないし、私を傷つけたりなんかしない。何だか、お母さんみたいに優しくしてくれるの。だけど、あの人は私をここから出してくれない。」
青年は窓の外を見たまま、シーラに語りかける。
「シーラはここにいた方がいい。俺と来るよりも、ここでその魔女と暮らした方が幸せだ。」
「あなた、やっぱりあの人のお弟子さんじゃないでしょ。」
「またな。」
青年はそう言って、窓辺か飛び降りる。シーラがすぐに窓辺に駆け寄り、下を見るがそこには鳥の影すらなかった。