Turning point
もうこれ以上は、一歩も動けそうになかった。
香織の体調が急激に悪くなり、これ以上移動することができなくなってしまったのだ。
「ホントに……ゴメン」
浩太に負ぶわれながら、香織が謝る。熱があるのか、顔が桃色に染まっている。浅い息を短く繰り返しており、喋るのも辛そうな様子だった。両手はすでに体重を支えきれなくなっており、浩太の首元から前にだらしなく突き出されていた。
これ以上はもう、無理だ。
香織を除いた三人とも、疲れで立っているのもやっとという様子だ。この状態で、病人を連れたまま移動なんてできない。かくいう自分も、疲れと眠気で今にも倒れそうだ。
今居る場所はそれなりに広い空間で、大小様々な箱や資材が山のように積まれていた。そして壁には、機材運搬用とおぼしき大型エレベーターの入口がある。ここは、地下街内の建設資材を保管するための倉庫だろう。
大型エレベーターは当然ながら使用不能だった。地下街の電気は完全に止まってしまっている。電力で稼働する機械の類はいずれも動力を絶たれ、置物と化していた。
「……ここで休もう。浩太、吉野さんを寝かせてあげて」
自分の言葉に、皆が無言でうなずく。浩太は「言われなくても分かってる」という顔で、自分が着ていた学ランの上着を地面に敷き、背中の香織を床に寝かせた。
思わず倒れ込むように腰を落とし、壁に背中を預ける。全身の筋肉はガチガチになっていて、体を動かそうとすると痛みが走った。
ここ数時間で、周囲の気温がうなぎ上りに上昇していた。額から汗が噴き出すほどだ。また、空気が徐々に淀んできているのも分かった。以前にも予想していた、空調システムの停止によるものだろう。
背中のナップザックを床に下ろし、中身を確かめる。急いで色んなものを放り込んできたため、今持っているものが正確に分からなかった。その確認だ。
ナップザックの中には飲料水や携行糧食、弾薬箱の他に、粘土状のブロックが入っていた。分厚い包装紙で包まれ、ずしりと重みがある。
これはプラスチック爆薬だ。衝撃を与えたり、火にくべたりしても決して爆発しない、安全性の高い爆薬である。この袋は元々、工作用爆薬を収納するために使われていたらしい。爆薬の他にも、乾電池状の無線式雷管と起爆用リモコンも入っていた。
閃いたことがあり、ブロック状の爆薬に雷管を埋め込んでおくことにした。慎重に雷管を粘土に押し込んでゆく。こうすることで、こいつは強力な武器になる。起爆させるときには注意を要するだろうが、手榴弾の代わりとしても使えるだろう。
そこで、顔に影がさした。見上げると、唯が口元を横一文字に引き結んだまま、目の前に立っていた。
「……吉野さんのところに行ったんじゃ?」
休もう、と言った後、唯は香織のそばに駆け寄っていたのだが。
「武中君が『俺が面倒見るから休んどけ』って」
視線をそらし、浩太と香織を眺める。浩太は床に横たわる香織をひどく心配している様子で、額をハンカチで懸命に拭いていた。対する香織はそんな浩太の様相に驚きつつも、まんざらではなさそうに笑っている。二人ともどことなく、いい雰囲気だった。状況が状況でなければ、だったが。
少々意外だったが、納得できる部分もあった。思えば、香織の体調が悪くなったときに率先して彼女をおぶったのも浩太だったし、暴走したドローンに襲われたときも、浩太は香織を真っ先に守っていた。
今日、唯や浩太たちとばったり出くわしたのも、偶然ではなかったのかもしれない。浩太の目当てが香織で、その後をつけ回してたのだとしたら……少々ストーカーくさいのが気になるが。
などと益体もないことを考えながら視線を戻すと、唯はまだそこに突っ立ったままだった。明らかな思案顔で、こちらの様子をうかがっている。何かまだ、用事があるのだろうか。
「……隣、座ってもいい?」
か細い声だった。今にも消え入りそうなその姿を見て、断れるはずもない。自然と頭を縦に振っていた。
唯が隣に腰を下ろす。ふわっと風が生まれ、甘いにおいがした。
言葉もなく、二人して薄暗がりを眺める。ひどく居心地が悪い。必死に逃げ回っている間はすっかり忘れていたが、今朝のことを思い出したのだ。唯になじられ、叱られたときのことを。別に恨んでいるわけではない、ある意味、唯の言ったことは本当のことだったから。
むしろ、自分が情けなかった。今の状況に抗うこともできず、他人にその意気地なさを指摘される自分が。
「……今朝はごめんなさい」
いきなりの第一声に面食らう。思わず「え?」と間抜けな声で聞き返してしまう。
「今朝のこと、あんな風に色々言って……本当に」
唯の横顔は、悲哀と後悔に歪んでいるように見えた。
「それと、今日はありがとう。何度も助けてもらったのに、お礼も言わないで、本当にごめんなさい。許してもらえるなんて、思ってないけど」
謝罪の言葉を口にする唯を目の前にしても、信じられなかった。あのプライドの高い彼女が? 僕に謝っている? 直にこの目にしていなければ、夢かと疑うところだ。
「今朝のことは、いいよ。僕も悪かったと思ってる」
つっかえながらも、なんとか声を出す。唯が「本当に?」という感じで見つめてくる。ぎこちなく、首を縦に振った。
「藤宮君があんな風に戦えるなんて、ぜんぜん知らなかった」
唯が微笑みを浮かべる。どう答えたものかと思案してしまう。
「たまたまうまくいっただけだよ。ずっと、こういうゲームばかりしてたから」
照れくさいのと恥ずかしいので、思わず視線を手元の銃に落とした。視線が銃に重なると、視界にいろんな情報が表示される。銃の状態、残弾数、射撃モードなどが、小さなウィンドウになって宙に浮かんでいた。
「前にも言ってたけど、そのゲームって」
「仮想空間上で、感覚を全没させてやるゲームだよ。僕がやってたのは、戦場で兵士になって、銃を撃つゲーム」
古くはFPS(一人称シューター)と呼ばれるゲームから発達したこのジャンルのゲームは、仮想空間上で隆盛を極めていた。その中でも、そのリアルさと競技性で他の追随を許さないのが「DEEP ENCOUNTER」だった。プロとして大会などに出場し、賞金で生活しているプレイヤーもいるほどだ。
「どのくらいの間、やってたの?」
「僕が小学校に入る前ぐらいから、かな?」
「そんなに早く?」
「小さい頃に神経の病気にかかってて、それでナノマシンの治療を受けてたんだ。そのつながりでBMI接続もやったんだよ」
ナノマシンの管理はBMIを通じて行われるため、ナノマシンを体内に投与するときは、同時にBMIの形成も行うのが普通だった。健常な人間は、小学校高学年から中学校の間ぐらいにナノマシン手術を受けるのが、半ば社会的な常識となっていた。体が急速に変化する幼年期にナノマシンを投与すると、マシンが予測もつかないような振る舞いをしてどんな副作用が出るか分からない、という理由から、幼少期にナノマシンを投与することは規制されている。
事実、自分の神経系にはナノマシンが深く絡みつき、常人ではあり得ないようなネットワークが形成されている、と医者からも言われた。全身、特に脳におけるナノマシン網の食い込みはすさまじく、脳神経網をナノマシンで肩代わりできるほどだとも。
「ごめんなさい、無神経なこと聞いて」
病気と聞いて思うところがあったのか、唯が目を伏せる。
「謝ることないよ、もう治ったしね」
無理にでも笑う。なぜか分からないが、彼女のそんな顔を見たくなかったのだ。
「病気っていえば――吉野さんは」
「熱は少し下がってるみたいだから、もうしばらくしたら動けるかもしれないって」
「そっか」と相づちを打って、思考を巡らせる。この一帯にはまだ暴走ドローンはいない。だが、いつ物音を聞きつけて集まってこないとも限らない。それに何よりも――あの重外骨格の存在がある。地下街全体の電力供給はほぼ停止しているから、監視カメラやセンサー類も死んでいるはずだ。よって、そういったカメラ類で居場所が知られる危険は少ないはずだが、それでも安心はできない。
正直に言えば、一刻も早くこの場を移動して、地下鉄を使って安全(と思われる)電力貯蔵施設へ行きたいところだったが。
「そういえば……仲いいんだね、吉野さんと」
会話が途切れそうだったので、無理にでも話題を変える。唯もこちらの心情を察してか、一瞬口ごもった後、照れくさそうにはにかむ。
「入学してから初めてできた友達だったから、こっちには知り合いもいなかったし」
「そういえば綾城さんは、県外の学校から転校してきたんだっけ」
少々影のある笑みを浮かべ、唯がうなずく。
「元々はエスカレーター制の学校に通っていたんだけど、高校になってから地元に戻ってきたから」
どうして戻ってきたのか――とは聞いちゃいけないんだろうな。綾城唯という女子は、物事を曲げたり、途中で投げたしたりすることを嫌う。とすれば、こちらの学校に移ってきたからには、それなりの理由があるはずだ。余人にはうかがい知れない理由が。
「どうして戻ってきたの? って聞かないんだね」
悪戯っぽく唯が笑う。内心を見透かされていたらしい、ぐぬ、と声にならないうめき声を上げてしまう。
「……ごめんなさい、聞いてもいいですか?」
「正直でよろしい」
くすり、と唯が笑う。その笑顔に、一瞬みとれてしまう。そういえば、彼女が自分に本当の笑顔を向けたのは、これが初めてなのでは。
「――私が外の学校に通ってたのはね、家の事情からだったの」
そうして、唯は語り出した。
唯の実家は、地元だけでなく全国的に名の知られた資産家一族だ。多数の巨大な国際企業をその傘下におさめる一族――経済だけではなく、国の中枢にも人材を送り込む、選ばれた血族。
それが、綾城唯という少女が属する家だった。
「綾城家の人間は、将来重い責任を負うことになる。だから、他の子供よりも優れた、より良い知性と能力を身につけないといけない……そんな理由で、小さいころから外の、名門って呼ばれる学校に入学したの」
「それって、何歳ぐらいから?」
「幼稚園ぐらいの頃からかな」
家の事情から、物心つくかつかない内に、親元から引き離されて英才教育を詰め込まれる毎日――自分には、頭では理解できてもとうてい実感できない話だった。
「それ、親御さんは反対しなかったの?」
唯は何も言わず、淋しそうに微笑むだけだ。その表情が、答えを雄弁に物語っていた。
「……で、こっちに帰ってきてから吉野さんが真っ先に?」
家庭についてさらに突っ込んだ質問をするのもためらわれたので、友人関係に話を持っていく。
「うん。すぐにクラスに馴染めなかった私に話しかけてくれてね。それで、他の子と話すきっかけを作ってくれたの」
何かを思い出すように、唯が目を細める。入学したての頃を思い浮かべているのだろうか。
「それからはまあ、クラスの子とも普通に話せるようになったんだけど。香織がもしいてくれなかったら……どうなってたか」
「仲、いいんだね」
自分の言葉に、唯は目を丸くする。優しげな笑みとともに、唯がしっかりとうなずく。
正直にいえば、そんな友人を持つ唯がうらやましかった。今のところ、そんな風に信頼のおける友人は――すぐに思い浮かばなかったから。
ふと気づくと、唯が視線を落とし、自分の手元を見つめていた。
「手、大丈夫?」
言われて、左手を開く。欠けた小指に巻かれた包帯は、吹き付けられた薬剤によってセメントのように硬化していた
「痛くない?」
「……少しね」
神経ブロックによって痛覚はやわらいでいたが、完全に消えたわけではなかった。ときどき、思い出したようにじくりと痛む。
「ごめんなさい」
唯が本当に申し訳なさそうに――辛そうに目を伏せる。
「いいよ、謝らなくても。再生治療すれば治るから」
今の時代は、体組織を培養し、臓器や器官を移植する再生治療の発達によって、失った四肢を元に戻すことも可能になっていた。遺伝的に再生治療を受けられない人間には、サイボーグ手術という選択肢もある。
その時、自分の腹の虫が盛大に鳴った。
半日以上も走り回っていた間、ずっと何も食べていなかったのを思い出す。緊張がほぐれたとたんに、猛烈な空腹感が襲ってきた。
しかし、よりによって女の子が隣にいるときに鳴らなくてもいいだろうに。
ひどく間抜けな音が鳴り止んだ後、唯がくすっ、と笑っていた。きっと自分の顔は真っ赤になっているだろう。
「……ご飯、食べようか」
苦し紛れに言葉を吐く。
「食べるものがあるの?」
「トラックに積んであったのを適当に放り込んできた。……浩太たちにも渡さないと」
ナップサックを開いて、飲料水のボトルと携行糧食の袋を取り出す。
「待ってて」と唯に言い残し、腰を上げた。浩太たちはここから十メートルほど離れた、コンクリートの柱の陰にいた。
歩いて近づくと、浩太が地面にあぐらをかいて座り込んでいた。意外にも、浩太は香織を介抱していた。香織は青いマットに寝かされ、その上に浩太のものと思しき上着がかけられている。当の浩太はといえば、ハンカチで香織の額を懸命にぬぐっていた。
「何だ?」と、浩太がこちらを見上げる。その視線はお世辞にも友好的とは言いがたい。
「これ、食べるもの。吉野さんにも食べさせてあげて」
ボトルと袋を手渡すと、小さく「スマン」と浩太がつぶやいた。
少々あっけにとられていると、浩太の眉間に不機嫌そうなしわが寄った。
「何か言いたいことでもあんのか?」
「いや、浩太が謝るのって、初めて聞いたから」
浩太が苦虫を噛みつぶしたような顔になる。
「俺だって感謝ぐらい言える」
視線を床の香織に移す。つい十五分ほど前までは苦しそうに浅く息をしていたが、今は落ちついている。暗がりでわかりにくいが、顔色も良くなっているように思えた。
「吉野さんの調子は?」
「前よりはマシになった。けど、まだ移動はさせられねえ。だいぶ参ってるっぽいからな」
無言でうなずき、唯のところへ戻る。肩越しに振り返ると、浩太が未だ目を覚まさない香織顔を、枕元で眺めていた。
そして唯はというと、携行糧食を折りたたみ式のトレイに盛っていた。軍用の糧食は保存料が強くきいており、あまり美味しいといえるものではないのだが、器に盛られると不思議と食欲をそそられる。
床に腰を落とし、トレイを唯から受け取ろうとする。が、何を考えたのか唯はトレイを引っ込め、代わりにスプーンで糧食をすくい、口元に突き出してきた。
これはまさか。
「はい、どうぞ」
満面の笑みをたたえる唯。ご丁寧にもう片方の手も添えられている。
これはもしかしなくても、いわゆる伝説の「あーん」という奴なのではないだろうか。
「いや、いいよ、そこまでしてもらわなくても。一人でも食べられるから」
唯は気遣わしげに目を細め、こちらの手元――怪我をした左手の方を見る。
「ケガのこともあるし、傷が悪くならないように、なるべく手は使わない方がいいと思うから」
「いやでも」
さすがに女の子に食べさせてもらうというのは少し、いや、かなり抵抗がある。これが学校の中でのことだったら、今ごろ大騒ぎになっているところだ。
「……今の私には、これぐらいしかできないから」
悔いの混じった声を漏らす唯。
ええい。
意を決してスプーンを口に含む。緊張やらなにやらで、味は全く分からなかった。
唯に笑顔が戻る。後はただ、されるがままに食べさせてもらうだけだった。
「でも、なんだか照れるね、こういうのって」
今さらながらに、唯の頬がわずかに紅潮していた。笑みもどこかぎこちない。
いや、それにどう反応しろと。
「……僕にはこういう経験なんて無かったからよく分かんないけど、綾城さんなら慣れてるんじゃ?」
「え?」
「ほら、綾城さんモテるし」
学校でも男にイヤというほどつきまとわれていたし、これほどの容姿でさらに家が資産家ときているのだ。男の一人や二人、いておかしくはない。もしくは婚約者がいるかもしれない。
あ、なんだ今の、すごく面白くない。これはあれか、僕がモテないのに人生を謳歌してそうでムカついてるのか。
美男美女なんてみんな死滅してしまえばいいのに。
「……私、男の人と付き合ったことないから」
「は?」
今度はこちらが驚く番だった。それが面白くなかったのか、唯がふくれっ面になる。
「中学まですっごい厳しい全寮制の学院に通ってたし、私の家はそういうのを絶対許さないの。えーえー、そうですよ。この年になっても同年代の男とろくに話したこともないし、一度もデートなんてしたことないですよ!」
語気も荒く拳を握りしめる唯、やけに手に力が入っているように見える。いやまあ、そんなに力説されても困るんですが。
しかし。
ありえねえ、というのが自分の第一の感想だった。これっていわゆる詐欺だよね? 見た目リア充でビッチっぽそうな女子が本当は男とろくに話したこともない箱入り娘とか明日から何を信じればいいんだ。
こちらの珍獣を見るような目つきが気に入らなかったのか、唯の目元がさらに険しくなる。
「何か言いたいことがありそうだけど」
「いや……単に意外だな、って」
我ながら嘘くさい笑いが口から漏れる。唯はこちらの言葉を全く信用していない様子で。
「そう、意外に見えるの」
と、やや拗ねたような声でうつむいてしまった。こんな時に気のきいた一言でも言えればいいのだが、女の子と会話した経験がほぼ無いのでどうすればいいのか分からない。
「じゃあ、あれだね。綾城さんは昔は、王子様を待つお姫様だったってことだね。案外、今も白馬の王子様を信じてたりして――」
苦し紛れに言葉をひねり出すと、唯の様子が変わる。耳まで真っ赤になって全身をプルプルと震わせていた。
うわ、マジで?
「今、『信じられない』とか思ったでしょ!」
涙目になってまくし立てる。対するこちらの視線は珍獣を見るそれではなく、化石とか絶滅動物を見るそれだった。
「いや……そんな男いるわけないし、っていうか、ありえないし」
「だって仕方ないでしょ!? 男の子のこととか全然分かんなかったし、そういう情報ってマンガとか小説にしかなかったし!」
唯のいうマンガ・小説というのは、頭に「少女」とつくものに間違いなかった。
ちょっとこれはもう、夢見る女の子というレベルではない。何というのか、実に、重症だ。
唯は顔をトマトのように真っ赤にし、そのままうつむいて黙りこくってしまった。怒りからなのか、羞恥からなのか分からないが、背中が小刻みにプルプル震えていた。正直言って怖い、爆発寸前の時限爆弾を見守る心境だ。
「……まあ、世界は広いから、綾城さんを待ってる白馬の王子様も、どこかにいるかもしれないね」
少女マンガに出てくる男というものは「トイレをしないアイドル」と同じ類のファンタジーである、と思う。メシを食って糞をしない人間なぞ生物学的にありえない。
が、事実は小説よりも奇なりともいう。もしかしたら、そんないい男が世界のどこかに、本当にいるのかもしれない。
そして彼女なら、どんなレベルの高い男でも捕まえられるだろう。自分がいうと嘘くさいのだが、彼女にはそれだけの器量と才覚があると思う。
が。
唯は頭を少し上げて、こちらを上目遣いに見つめていた。この間無言。慰められていると知って怒っているのかとも思ったが、どうにも様子が違う。
「何?」
「別に」
そっぽを向かれてしまった。
何だよそれは、本当に訳が分からない。相手の不可解な態度に腑に落ちないものを感じつつ、さりとて話しかけられるような雰囲気でもない。どうしようもないので、唯にならって自分も黙ったまま壁に背を預ける。
会話が途切れた今、特にすることもないので、手慰みに手元のアサルトライフルを点検する。そして次は、体のハーネスに付属している物入れから空の弾倉を取り出した。ナップザックから弾が梱包された紙箱を出し、箱を開いて手で一発ずつ弾倉に込めてゆく。
無機質な金属音が薄暗い空間に響く。
「……ね、私たち、帰れるかな?」
唯が沈黙を破る。
どう答えたらいいのだろう。正直に「帰れるかどうか、そもそも生き残れるかも分からない」と言うべきか? 周囲を暴走したドローンに囲まれ、重外骨格にも追われている今の状況では、いつ死んでもおかしくないと?
だけど、そんなことをして何の益があるだろう。目の前の少女はひどくおびえているのに。その恐怖をさらに大きくしてなんの意味がある?
「きっと――帰れるよ。みんなで帰るんだ」
だから嘘をついた。彼女のおびえる顔を見たくないから。彼女は本当は、笑顔がすてきな人なのだ。その笑顔を少しでも長く見ていたかったから。
「……そうだね、ありがと」
礼を言われてしまう。こっちの真意を見抜かれたのかもしれない。自分は口を閉じたままうなずいた。これ以上口を開いても、誤魔化しや嘘しか言えないだろう。もう嘘はつきたくなかった。
「――この事件を起こした犯人って、どういう奴なのかな」
気をつかってくれたのか、唯が別の話題を切り出す。
「ノイズメイカーって呼ばれてるサイバーテロリスト……のはずだよ。あの時送られてきたメールの差出人がそうだった。本人を騙った別人でなかったら、の話だけど」
「藤宮君は知ってるの?」
「ネット上でのうわさ程度ならね」
続く唯の言葉はない。ただ、その目が話の続きをうながしていた。
唯にネット上で自分が見聞きしたノイズメイカーの情報について、唯に説明する。世界中で凶悪なテロを引き起こしている人物で、どんな強固な情報セキュリティも突破してしまうクラッカーであること。ノイズメイカーの起こしたテロが原因で数多くの人が命を落としていること。自分のBMIに保存してあったニュース記事や写真を唯のそれに送りもした。写真の中には、地面に墜落し炎上する、旅客機の無残な姿もあった。そして、それだけのテロを起こし、世界中の治安機関からマークされていても、今までに居場所や身柄につながる情報は一切つかめていないこと。それ以前に、どんな人物なのかさえ特定できていないことも。
「ネット上では半ばオカルトとか都市伝説みたいに言われてる。テロの目的も不明で、声明や要求を一切表明してないんだ。……それに」
「それに?」
「凄腕すぎるんだ。電子情報スキルが異常すぎて、世界中の組織が後手後手の対応に回ってる。突破されてはじめてセキュリティの欠陥が判明するとかザラだよ。ネット上のコミュニティじゃ神みたいに崇められてる。中には、こいつは次世代人類で、技術的特異点はもうすでに到来してるんじゃないか、って冗談で言う人もいるぐらいで」
「……次世代人類と、技術的特異点?」
聞き慣れない単語を耳にしたのか、唯が怪訝そうに繰り返す。
「ごめん、ちょっと話を省略しすぎたね。……技術的特異点っていうのは、未来の技術が爆発的に発達して、未来予測が不可能になる際の時点のことで。次世代人類っていうのは、人間と同等か、それ以上の知性を持つ存在――たとえば人工知能とか――のことだよ」
唯の頭にはさらに疑問符が浮かんでいた。どうにも話の内容についていけてないらしい。
「……そうだね、なら、たとえばの話なんだけど。人間と同等の知能を持つ人工知能が実現したら、どうなると思う?」
唯はアゴに手を当て、虚空を見つめた。
「……きっと、今より生活が便利になるんじゃないかしら。人間と同等以上の知能がある人工知能なら、今ある人間の仕事の大半を肩代わりできるようになるだろうし……」
「たしかにそうだと思う。けど、実際にはもっととんでもないことが起こるって予測する人や論があるんだ」
そう、人間と同等以上の知性の出現は社会の変化だけに留まらない、人間そのものの定義すら、世界そのものすらを変えてしまう可能性がある。
人間と同等以上の知能を持つ知性は、人間と同様のことができるはずだ。今までの人工知能には不可能とされてきた、自由な発想や、創作といったことさえも。
そうなるとどうなるか? それらの次世代人類は、自分自身の設計や構造にアクセスし、自身をより優れた性能を持つように改良しようとするだろう。その改良はハードウェアに留まらず、自身を形作る精神――ソフトウェアのプログラムコードにまで及ぶはずだ。
そうなると次世代人類は、より優れた自身の分身を生み出すことになる。思考速度や知能が桁外れに強化された分身――それもまた、自分自身を改良し、より優れた次世代を生む。
そうするとどうなるか? 答えはこうだ。自分を改良し、さらに次の世代を生み出すまでのサイクルがどんどん短くなる。思考速度や知能が強化されているのだから、次世代を生み出すまでの所要時間が短くなるのは当然だ。サイクルが短くなるにつれ、次世代人類は世代を重ねてどんどん高性能になってゆくだろう。一回のサイクルの時間が十年から一年になり、一年が一ヶ月へ、一ヶ月が一日へ――技術の進歩は爆発的な速さで加速してゆくだろう。
旧人類を完全に置き去りにして。
これが技術的特異点と呼ばれているものだ。今の人類が未来を覗き見ることができる限界の、境界線である。いったん、より優れた知性が自己を改良し始めれば、今の人類は未来がどうなってしまうのかまったく予測が付かなくなる。次世代人類が開発する技術はすぐ旧人類には理解不可能なほど高度なものになるだろうし、その数は時を経るにつれ爆発的に増えてゆくのだ。今の人類は、世界から永久に取り残されるだろう。
そこまで話して、唯がうなずく。
「……たしかにそんなことが実現したら、とんでもない話だと思う。でも、そんな人間が生まれた、なんて話は聞いたことがないけど」
「うん、僕も聞いたことがない」
唯が一瞬よろめく。ついで、ジト目で睨まれる。
「いやだから、本当にうわさ程度の話なんだって! 次世代人類の実現には、意識転送が一番の近道だって言われてはいるけど」
「意識転送って、人間の精神をコンピューター上で動かそうっていうアレ?」
「そうそう。BMIのおかげで記憶は電子データの形で吸い出せるようになってるからね。後は同じ要領で、精神もデータとして吸い出して、電子機械上で動かせばいい。そうすれば知力も思考速度も桁違いの人間――それと同等の知性が生まれるよねって話なんだけど」
「でも、実現はしてないみたいだけど」
「人間の記憶とか『精神らしき』データを吸い出せても、それを動かすためのOSもハードウェアもできてないからね。人間の脳ってものすごく複雑で、情報は神経ネットワークの形で保存されているから、人間の精神の情報を電子データに翻訳するのは難しいし、それを動作させるためのハードを作るのも今の技術じゃ無理、ってニュースで見たことがある……ぐらいかな」
人間の脳には百億以上の細胞とそれに連なる神経網がある。これら全てを精密にシミュレートできれば、あるいは人間の人格をコンピューター上で再現できるのかもしれないが、そんなことができるハードウェアは世界のどこにも存在していなかった。
ほう、と唯がため息をつく。
「結局、なにも分からないってことね」
「面目ないです」
しおれた自分の声に、唯がクスッと笑う。
「……ううん、ごめんなさい。私の方こそ無茶なことを言って。でも、ありがと。藤宮君と話してて、すごく気が紛れたから」
唯が小さいあくびをかみ殺し、重そうに瞼が下がる。
「眠たい?」
「ちょっと……正直に言うと、すごく」
不眠不休で歩きづめの上に、生死の境をさまようような体験をして疲労困憊、といった感じだろう。先ほどの食事も重なって、自分にも猛烈な眠気が襲ってきていた。
「寝た方がいいよ」
「でも、藤宮君も疲れてるでしょ? 私だけ……」
「だから、かわりばんこで寝るんだよ。みんながいっぺんに寝たらまずいから、交代で起きて見張り番をするんだ。一時間ほどしたら起こすよ」
唯は遠慮がちな様子だったが、やがて眠気の方が勝ったのか、うなずいた。
「……わかった、じゃあ」
床に横になる唯。枕や毛布といった気の利いたものは無い、雑魚寝だ。
「おやすみなさい」
唯が微笑んで目を閉じる。数秒もたたないうちに、規則正しい寝息を立てはじめた。
かわいらしい寝顔に口元がほころぶ。おもむろに腰を上げ、浩太たちのいる場所へ足を向ける。交代で見張り役をすることを伝えるためだ。
「もう寝てるよ……」
香織が眠っているのはまあいいとして、浩太もすでに、柱に背を預けるようにして眠りこけていた。
「本当に勝手な奴」
ぼやきながらも、香織のそばにかがみ込む。容態を知るためだ。体温を測りたかったが、体温計など無いので、手で額に触れた。掌のナノマシンが対象の温度を計測し、結果が仮想視界のウィンドウに出る。三十七度八分、少々高いが、命に別状があるような温度ではない。
「――ん、藤宮くん?」
「あ、ごめん、起こしちゃったか」
香織がうっすらと目を開く。
「だいぶ熱が下がってるみたい」
「測ってくれたんだ……ありがとう」
香織が笑うが、無理をしているように思えた。時々、辛そうに顔をしかめる。
「ね、唯ちゃんとどんな話してたの?」
突然の質問に面食らう。というか、話していたところを見られていたのか。ということはつまり、香織は眠ってなどいなかったのだ。
「いや、その」
言葉に詰まる。対する香織の目は、好奇心に満ちたそれだった。なんというのか、野次馬根性とか、噂話を好む主婦のそれに近い。
「あんなに楽しそうな唯ちゃん、初めて見たから」
楽しそう?
「……そうかな、いつも通りだったと思うけど。怒りっぽいところとか」
「ひどーい、唯ちゃんが聞いたら悲しむよ」
「……ごめんなさい、この話はオフレコということで。綾城さんには言わないでください」
床に額をすりつける勢いで懇願する。ヘタレとでもなんとでも言え、彼女の機嫌を損ねるのだけはなんとしても避けたいのだ、命の危機的な意味で。
しかし、悲しむというのはありえないと思う。むしろ烈火のごとく怒り出すだろう。人に悪口を言われて沈む綾城さん……? やべえ、想像もつかない。異世界とか超次元の話でもされている気分だ。
「なんだか、ろくでもないこと考えてるみたいに見えるけど?」
「いえいえ、めっそうもありません」
鋭い。見た目はどこか緩そうな印象を受ける香織だったが、女子特有の感性は持ち合わせているようだ。侮ってかかると足下をすくわれそうだ。
「藤宮くんは、唯ちゃんのことを誤解してると思う。唯ちゃんは……本当はさびしがり屋だから」
香織の言葉には、自然と内心うなずいていた。たしかに今日一日の出来事を見る限り。唯に対する印象は最初のそれからかなり変わっていた。学校にいる間は、そつがなく隙がない優等生、とんでもない名門の出のお嬢様でプライドが高い、そんな風に思っていた。だが、今の唯は情緒不安定だ。学校で見たような毅然とした態度はなりをひそめ――暗闇におびえる子供のように、小さく縮こまってしまっている。今の香織の方が、よほど精神的には安定しているように見えた。
「――でも、唯ちゃんが楽しそうだった理由、少しは分かる気がするかも」
香織がこちらの顔を見る、というよりは品定めするように睨め回す。ものすごく居心地が悪い。
「……なんで、って聞いてもいいのかな」
「だって藤宮くん、見た目が前と比べてすごく変わってるよ」
「見た目?」
言われて自分の体を確認する。確かに今は、軍用の装具などを身に着けて、全体的にいかめしい格好になっているとは思うが。
「服装の事じゃなくて……なんて言ったらいいのかな。雰囲気が変わったと思う」
さらに訳が分からず首をひねる。雰囲気なんて自分で分かるわけもないのだが。
「あー、えーとね、つまりね」
香織はもごもごと言いにくそうに口を閉じる。
「その、格好良くなった、って」
自分で言ってて恥ずかしくなったのか、香織が顔を赤くする。
対する自分はといえば、少々困惑していた。誰かに格好いいと言われるのは確かに悪い気分ではないのだが――素直にうなずくことができない。特に今までのことも含めて考えると。
「そう、かな。自分じゃよく分からないけど」
「そうだよ。だからね、ちょっと唯ちゃんがうらやましいかな、って思ったんだ」
なんだか背中がかゆいというか、こそばゆい。
「……じゃあ、僕はこの辺で。見張りしないといけないし」
耐えられなくなり、半ば逃げるように腰を上げる。情けないことに頬が火照っていた。どんだけ意気地なしなんだ、僕は。
「藤宮くん」
背中に声をかけられ、否応なく立ち止まる。振り返れば、唯が微笑んでこちらを見上げていた。
「お見舞いありがと。それと唯ちゃんと……仲良くしてあげてね」
「……可能な限り善処します」
そう答えるだけで精一杯だった。
* * *
轟音と閃光。
あまりにも突然だった。必死に眠気と戦い、虚空をにらみつけている時にそれは起こった。朦朧としていた意識が一気に覚醒する。
機材運搬用のエレベーターが爆発していた。ひしゃげてねじ曲がった金属の扉が吹き飛び、猛烈な炎と爆風が雪崩れ込んでくる。
赤々とした炎が薄暗がりを照らし出す中、エレベーターから吹き出す黒煙の中から、それが飛び出してくる。
灰色の巨人――重外骨格だ。上階から懸垂降下で突入してきた重外骨格は、肩のワイヤーアンカーを切り離しつつ床に着地する。
この間、わずか数秒。考える前に体が動いた。銃を構えた体勢で地面に飛び込む、銃弾と爆風、破片を避けるためだ。
だが――悪夢はここからだった。重外骨格の体がこちらに向くと、背部に搭載されていた砲がこちらを向いた。
砲弾が射出される。それは一瞬宙に浮いた後、操舵翼を展開した。
誘導迫撃砲弾――その名称が脳裏に浮かび、吐き気を催すほどの戦慄が全身を駆け巡る。馬鹿な、こんな閉所でこんなものを使うなんて。いや、奴は装甲を帯びている。故に、多少の破片などダメージにもならない。対してこちらは生身だ。
ひどく遅滞した時間の中で、砲弾が宙を駆け、弧を描いてこちらに迫ってくる。
逃げ場なし。崩落するコンクリに潰されての圧死か、吹き飛ばされてミンチになるかの、いずれか。
一縷の望みをかけて、銃を保持した腕を上げる。じれったいぐらいのろのろとしか上がらない銃口、その先には、天頂へ到達しようとする砲弾が。
引き金を引く、銃口からスピンする弾丸が吐き出され、マズルフラッシュが視界を埋める。連続して撃ち出される弾丸が天井に達し、そして、弾丸の内の一つが目標に命中する。
誘導弾が空中で炸裂する。球状に広がってゆく空気の歪み。天井が衝撃波にさらされ、大きく陥没する。
時間の流れが戻る。猛烈な爆風に逆らって身を起こし、硝煙で痛む目をうっすらと開ける。
爆風によって損傷した天井が、大きな揺れと共に崩落する。巨大なコンクリート塊が断面から鉄筋をむき出しにして、床に激突してゆく。
その中で、はっきりと見た。地面に横たわる香織の姿を。暗がりで顔は見えない、だが、脇の地面には血が流れ――左腕が無くなっていた。
「香織!」
脇から唯が飛び出そうとするのを捕まえ、抱き留める。
「放して!」
「ダメだ!」
腕の中で激しく抵抗する唯を抑え付ける。その間にも天井が次々と崩れ、建材の破片が香織の上にも落ちる。巨大な地響きが続き、地面が大きく揺れた。
白い粉塵が周囲に立ちこめる。それが晴れたとき――目の前には、山のように積み上がったコンクリートが壁をなしていた。
「どうして……」
唯の体から力が失われ、その場に膝をつく。泣いているのだろうか、背中が小さく震えていた。声をかけることもかなわず、その場に立ち尽くす。
強烈な衝撃が頬に走り、気がついたときは体が吹っ飛ばされていた。横合いから顔を殴られたのだと気づいたときには、地面に倒れていた。口の中に血の味が広がる。
見上げれば、そこに浩太が立っていた。拳を強く、堅く握りしめている。
見れば、浩太が寝ていたコンクリート柱の付近は強度があったためか、天井の崩落を免れていた。紙一重の差が命を救ったのだろう。
「……てめえのせいだぞ」
浩太の顔はひどく歪んでいた。悲哀か、それとも怒りか、漏れ出る激情の残滓が表情となって表れていた。
「お前に付いてきたせいでこのざまだ! 分かるか? お前のせいで吉野が死んだんだ!」
「でも……武中君、藤宮君は私たちを――」
「うるせえ!」
涙混じりの唯の言葉をはねのける浩太。
「最初からお前なんかに任せたのが間違いだったんだ! そのせいで俺らはこんな目にあって……吉野が、吉野が」
浩太が歯を食いしばり、何かに耐えるようにうつむく。
僕の、せいか。確かに、ここまでのルートを選んで、皆を先導してきたのは自分だ。この場所を休憩地点に選び、周りの偵察と安全確保を怠った。そして、眠気と疲労があったとはいえ、敵の攻撃に対応できなかった。
――だから、吉野さんが死んだ。僕のせいで。
「もうお前には任せねえ。お前に付いていくのは金輪際ゴメンだ。俺は一人で行く、一人で地上まで戻ってみせる」
言い捨て、浩太が背を向けて歩き出す。その姿はすぐに闇に溶け消えた。
自分はといえば、何も言うことができず、ただその場に立ち尽くしていた。
一分ほど、経ったろうか。視界の隅で光る仮想アイコンに気づく。新着メールを示すアイコンだ。
メールの差出人を確認して凍り付く。差出人は、「ノイズメイカー」となっていた。
ウィルスやワームを警戒してメール本文を開く。
〈どうやらまだ生き残っているネズミがいるようだが、気分はいかがだろうか? 惨めで苦しい思いを存分に楽しんで頂けているだろうか? 苦悶と絶望の中で無為に死んでもらえると、こちらとしても楽しみがいがある。君たちの苦しみは私にとって甘露のようだ。だが、これ以上の時間の空費は私にとっても諸君にとっても有益ではない。自ら進んで命を絶っていただけると、こちらとしても手間が省けてありがたいのだが。
ノイズメイカー〉
本文を読み、吐き気がするほどの激情が腹の中で荒れ狂う。我慢できず、気がつけばメールに返信していた。
〈答えろ、お前は何者だ? お前はなんのためにこんなことをする? 目的はなんだ?〉
送信する。元々返事など期待していなかった。
だが、返信は数分も待たないうちに来た。
〈ここまで生き残った君の悪運と無謀さに敬意を表し、質問に答えよう〉
目を疑った。返事が返ってくるとは思っていなかったのだ。誰かの悪戯か? いや、地下街内の通信インフラとサーバーは全て制圧された状態にある。制圧した張本人でなければ、自分からのメールを受け取ることも、返信することもできはしない。
〈私が何者か? 決まっている、私は普通の人間よりもはるかに優れた知性を持つ存在、先駆者だ。強いていえば、そうだな、未来の人類のあり得べき姿、とでも言っておこうか〉
文面から、つい数十分前の唯との会話が思い出される。ノイズメイカーが次世代人類か人工知能、またはそれに準ずる存在ではないかという噂。
やはりこいつは、人間ではないのか?
文面は続く。
〈そして目的についてだが。今のところ、我々のような優れた知性を持つ存在は数が少ない。絶対的な個体数が足りないのだ。だからこそ、我々の仲間を増やすための実験をこの場で行っている。もちろん、実験で用いた手法の評価試験も兼ねている〉
実験? 訳が分からない、こんな人死にを出すような実験をする意味があるというのか。
それとも――いや、もしかしてこいつが述べていることはデタラメなのかもしれない。こちらの油断を誘い、混乱させるためのブラフの可能性もあった。
もしくは、ただの一人も生きて返すつもりがないのか、その両方か。
〈だから――お前たちはモルモットにすぎないのだよ〉
メールの最後は、その一文で締めくくられていた。嘲笑と侮蔑、そして明確な悪意のこもった文面を読み、吐き気を覚える。
自分の中で何かが切れるのを感じた。今まで自分を支え続け、ここまで歩かせてきた支え――気力のようなものがごっそり抜け落ちる。
膝が砕けたように力を失い、地面に座り込んでしまう。銃を傍らに置いて、手を握りしめた。
「……もう、無理だ」
自分の口から出たのは、力ない呟きだった。唯が顔を上げ、こちらを見る。
「最初から僕には無理だったんだ。みんなを連れて地上に逃げ延びるなんて、僕にできる訳がなかったんだ!」
激情と共に言葉が飛び出す。腹の中に抱えていたものを全てぶちまけたい気分だった。憤怒と後悔と悲しみが頭の中でごちゃ混ぜになり、まともにものを考えられそうもない。
「最初から生き延びられる自信なんてなかった! ドローンと戦ってるときなんて、逃げ出したくてたまらなかったんだ! いつも自分だけ逃げることばかり考えてたんだ!」
見栄をはることなどもうできなかった。ちっぽけなプライドなど粉々に粉砕されていたから。
「そんな半端な覚悟でここまで来たから――吉野さんは」
ぎり、と奥歯を噛みしめる。きっと彼女には軽蔑されただろう。こんな情けない奴だと知られたからには、もうまともに話もできないに違いない。
だけど、それでも構わなかった。もうここを動きたくなかった。
だが。
「馬鹿なことを言わないで!」
浴びせかけられた罵声に、思わず反応する。
唯が四つん這いの姿勢でそばにいた。ひどく近い、間は三十センチも離れていないだろう。膝立ちする格好で、少女が自分の両肩をつかむ。
「私は――藤宮君に何度も命を助けられた。私が死にそうになるたびに、藤宮君は危険を冒して、私を救ってくれた」
唯の目には涙が溜まっていた。やがてそれは目尻からあふれ出し、頬に一筋の跡を作る。
「私はそんな藤宮君を見て――勇気づけられた。この人なら最後まで希望を失わないだろうって、そう思えた」
肩をつかむ手に力が込められる、痛いほどに。
「そんなあなたを見て、嬉しかったのに――」
唯が自分の体にしなだれかかってくる。嗚咽しているのだろうか、密着した唯の体はわずかに震えていた。
鼻腔をくすぐる甘い香りと、唯の体の柔らかさに、半ば茫然自失していた。
僕は――。
突如聞こえた銃声に身を強張らせる、地下街の中心方向だ。
「……今のは?」
「たぶん浩太だ。あいつ……」
地下街の中心方向に向かったということは、非常階段か停止したエスカレーターをたどって地上に出ようという腹なのか。
馬鹿な、あっちの方向は暴走したドローンで溢れかえっている。その上、進行ルートが限定される階段なぞ使おうものなら、どうぞ奇襲してください、と言っているようなものだ。
ドローンは光や音などに反応する。さっきの銃声ですぐに大勢が群がってくるはずだ。
どうする、助けに行くのか? それとも見捨てるのか。
見限ってしまえ、と心の内でささやく声がする。学校では浩太にさんざんな目にあわされた。その上、ここまでの道中では振り回されっぱなしだった。これ以上、僕があいつに付き合う必要がどこにある?
だが、脳裏に焼き付いた香織の最後が、そんなどす黒い感情を押しとどめる。
守らねばならないものを、守れなかったときの、あの罪悪感と、後悔と、痛み。もし浩太を見捨てれば、さらにひどいそれに苛まれるだろう。
たとえどんなに嫌な奴だろうとも、自分の知る人間が、自分の目の前で死ぬのを見るのは――もう二度とゴメンだ。
震える膝に無理矢理力を入れ、立ち上がる。
経過した時間から考えても、それほど遠くには行けていないはずだ。間に合うか。
手元のライフルの弾倉を交換しつつ、足下の唯に視線を落とした。どうするの、と唯の目が聞いていた。
「僕はこれから浩太を追うよ。このまま死なれても……寝覚めが悪いし」
爪が食い込むほど手を握りしめ、ともすれば震えだしそうな体を押しとどめる。
「綾城さんはこのまま地下鉄の駅に向かって。電車を使って、電力貯蔵施設に渡るんだ。そこまで行けば、助けに来た人がいるかもしれないから」
地下街の中心部は暴走したドローンが群れをなす危険地帯だ。そこに唯を連れて行くわけにはいかない。生きて帰れる保証は、ない。
そこまで言って気付く。唯の顔が青ざめていた。少女は手を伸ばし、自分の服の裾を握りしめる。爪が食い込むほどに、手に力が込められていた。
「置いていかないで」
震える唇から絞り出された一言。
「――独りにしないで」
暗がりにおびえる幼子のような顔だった。悲哀と絶望の入り交じった瞳が、目一杯に見開かれている。
……僕は何をしようとしていた? こんな危険な暗闇の中に、女の子を一人置き去りにしようとしていたのか?
自分の馬鹿さ加減に内心舌打ちする。ここに置き去りにされると知った時、彼女はどんな気持ちだったのだろうか、考えるまでもない、本当に馬鹿だ。
だが、この先に連れて行けるのだろうか? 地下街の中心部は地獄になっているに違いなかった。生き延びられる自信など全くないのに。
「綾城さん。浩太が向かった先はものすごく危険なんだ。……僕も、綾城さんを守りきれる自信がない。もしかしたら、死ぬかもしれない。――いや、その可能性の方が、ずっと高い」
一言一言、子供に言い含めるように話す。唯はそれを、ただ黙ってうなずいて聞いている。
「それでもいいなら、一緒に行こう」
左手を差し伸べる。唯は数秒ほど、わずかにためらうような素振りを見せた後、こちらの手をしっかりと握りしめた。
柔らかく温かい感触が手の平に広がった。腕に力を入れて唯の体を引き上げる。
立ち上がっても、唯は手を放そうとしなかった。むしろ、指に込められている力がより強くなる。
少女の手を引き、闇の中へと駆け出した。
* * *
鉄錆の臭いと腐乱臭が鼻につく。
銃声を頼りにたどり着いた先は、巨大なショッピングモールだった。十階層ほどの巨大な吹き抜けを持つ空間で、最下層は街路樹が植えられた広場になっている。上を見上げれば、いくつものフロアが輪切りにされた地層のようにその姿を覗かせている。各フロアの縁は、金属パイプと透明プラスチックを組み合わせた手すりによって遮られていた。
地下街全域で電力が失われていたが、ここも例外ではなかった。LED照明灯は全て消え、暗がりをかろうじて照らし出しているのは、非常灯の弱々しい光のみだ。
その暗闇の中でうごめく、影たち。あるものは体を揺らしながら幽鬼のように歩き、あるものは四つん這いで犬のように走る。その合間に、何かを咀嚼するような、水っぽい音が混じる。
ひどく暑い。さっきまでいたメンテナンス用の通路とは比べものにならないほど、ここの気温は上昇していた。まるでサウナの中にでもいる気分だ。後ろに続く唯も具合が悪そうに見える。
そして何よりも嫌なのが――この臭いだ。例えるなら、炎天下に放置された犬猫の死体が放つ、あの臭いだ。酸っぱいものが喉の奥からこみ上げてきそうになり、かろうじて飲み下すことで耐える。この臭いの発生源が、床にいくつも横たわるなんらかの「物体」であろうことはすぐに分かったが、その物体が何かは深く考えないようにする。そうしないと気が狂いそうだ。
散発的な銃声はまだ続いていた。銃声がするということは、浩太は生きているということだ。急がないと手遅れになる。
だが、走り出すわけにもいかなかった。周囲にはドローンが群れており、その数は十や二十ではきかない。照明が落ちているのが幸いして、こちらの存在に気付かれてはいないが……足音でも立てれば、即座に襲い掛かってくるだろう。
この場をすぐ離れたいのに、牛歩のごとき歩みでしか移動できないジレンマ。焦燥が胸を灼く。
つながれた手は、痛いほど握りしめられていた。手の平は汗でじっとりと濡れている。唯のおびえが伝わってくるようだったが、それを顧みている余裕もない。
銃声はすぐ上の階から響いていた、浩太の元に行くには、階段かエスカレーターを使うしかない。
ざっと目に付く限りの場所には、階段は見当たらなかった。もっと奥まった場所になら非常階段があるのかもしれないが、長い距離を移動すればそれだけドローンに発見されるリスクも高まる。何より、狭苦しい非常階段には逃げ場がない。
対して、エスカレーターはすぐ近くにある。各フロアはエスカレーターによって接続されているからだ。また、エスカレーターは開放的な構造になっている。いざとなれば飛び降りてでも逃げられる。
ゆっくり、歩いてエスカレーターに近づく。唯も手を引かれて、自分の後ろに付いてくる。
当然ながら、エスカレーターは電力を絶たれて停止していた。段に足をかけて登りはじめる。
長い。緩慢な動作で、音を立てないように慎重に、上階を目指す。神経が焼き切れそうなほどに張り詰め、骨と腱のきしむ音が耳腔に響く。
そして、ようやくエスカレーターを登り切ろうとしたその時、足下の段がきしみ、大きな音を立てた。
全身が総毛立つ。迂闊だった、エスカレーターには可動部分がある。ほんの少しでも滑りが悪い部品があれば、音が立つことなど分かりそうなものだったのに……!
周囲のドローンが反応する。こちらに顔を向け、口々に奇声を上げる。それは波紋のように広がり、フロア一帯を埋め尽くした。
「綾城さん、お願いがあるんだ」
一刻の猶予もない、背後の唯にささやきかける。
「僕が合図したら、走って。さっきまで銃声がしてた方向に、全力で駆け抜けて欲しい。僕は後ろから付いていくから」
唯を背後に残したままでは、自分が援護することは不可能だ。しんがりは古来から最も危険なポジションであると言われており、実際に死傷率も最も高い。だから彼女に前を走ってもらい、背後から援護射撃をする必要があった。そうしなければ、唯は数秒ともたずに死んでしまう。
「で……でも」
唯の顔には、はっきりと恐怖が浮かんでいた。確かに、ドローンが暗闇の中から迫ってくる状況で先頭を走れといわれれば、誰だって怖いだろう。唯はつながれた手を胸元に引き寄せる。
「大丈夫、僕が」
一瞬、その言葉を舌に乗せるのをためらう。自分にこれを言う資格があるのかと自問自答してしまう。
だが、もう猶予はない。
「――僕が、必ず守る」
誓った。これがおそらく、自分の人生の中での、初めての誓いの言葉だった。人の命に関わる誓い、それはひどく、重い。
唯の体の震えが、止まった。顔にはまだ恐怖が張り付いているが、力強く、だが確かに、うなずく。
視界の隅で動くものがあった。目を転じると、柱をよじ登ってきたドローンが、目の前の床に降り立つ。
「行け! 走れ!」
声の限り叫ぶ。
唯が手を放し、駆け出した。その後を追う。
横合いからドローンが唯に飛びかかろうとする、させるものか。
アサルトライフルのトリガーを引き絞る。暗闇でマズルフラッシュが閃いた。強烈な反動と共に銃弾が吐き出され、ドローンが蜂の巣になる。
唯の前方から迫るドローン、数は十体ほど、多すぎる。
胸元のポケットから電離手榴弾を取り出す。最後の一個だ、歯でピンを抜き、あらん限りの力で前にぶん投げる。
前方で手榴弾が炸裂し、紫電があたりかまわず飛び散った。内部の電子機器をトーストにされたドローンが内部から破裂し、地面に倒れてゆく。視界にノイズが走り、頭痛がした。BMIデバイスがパルス電流の影響を受けているのか?
うじゃうじゃと群がってくるドローン、それらを銃で何匹も叩き落とすが、きりがない。破片手榴弾を背後に転がして爆発させる。数匹のドローンが吹っ飛ぶが、やはり電離手榴弾より効果が薄い。
頭上から衝撃、天井に張り付いていたドローンが上にのしかかってきたのだ。
「藤宮君!?」
「止まるな!」
立ち止まりかけた唯を叱咤する。頭上に乗ったドローンはゲヘゲヘと訳のわからぬ声を出し、こちらに食いつこうとしてくる。
肩口からナイフを引き抜き、ドローンの首筋に刃を立てる。一閃、首を落とされたドローンのバランスが崩れた、すかさず振り落とす。
銃声が再び聞こえた。自分のものではない、他の誰か――浩太のものだ。
「綾城さん、そっちに曲がって!」
銃声がした方――両脇に小さな店が連なる細い通路だ――に入り込み、ひたすら駆ける。銃声はさらに近くなり、店の建物の一つから漏れ出ているのがわかった。
「浩太! 撃つな、僕たちだ!」
唯の肩をつかんで引き留めつつ、店の扉の横に背を預ける。中をうかがうと、扉付近で倒れているドローンと、建物の奥で座り込んでいる浩太が見えた。
肩越しに背後を振り向くと、大量のドローンが追いかけてきているのが見えた。半ば突き飛ばす形で唯を店の中に放り込み、自分も飛び込む。扉を閉め、隣にあった商品棚を引き倒す。 陳列されていた物が飛び散り、棚が扉の前に倒れ、通り道を塞いだ。
扉に何かがぶち当たる音、次いでひっかくような、かきむしるような音が続いた。ドローンが扉に群がっているのだ。
浩太のそばに歩み寄る。ビクン、と体を震わせた浩太は、土下座の形で地面にうずくまった。
「ひいっ、嫌だぁっ! 死にたくないぃぃっ!」
浩太は泣いていた、普段の傲慢な態度など欠片もない。
「戻りたい……死にたくねえよお……」
しゃくりあげ、ボタボタと床に落ちる涙をぬぐおうともしない。喉を震わせて嗚咽するその姿に、かける言葉もない。
「そういえば、出口は」
店の中を見渡す。ここは何かの雑貨店か、小物屋のようだ。スペースはごく小さく、店の奥行きもない。入り口は一つきりだ、非常扉のようなものも、ない。
袋小路、その言葉が頭に浮かぶ。自分たちは閉じ込められたのだ、と事実を認めるのに数秒が必要だった。
ミシミシと、店の扉が悲鳴を上げていた。今にも破られそうなほどにたわんでいる。
唯が目の前に立ち、こちらの左手を両手で包むように握った。
「――私たち、ここまで頑張ったよね?」
唯は、笑っていた。目に涙を溜めながら。
「きっとみんな、褒めてくれるよね……?」
少女の顔に浮かぶ諦念と絶望が、自分の心臓を締め上げる。
ここまで、なのか。
ここで終わりなのか。
ここで死ぬのか?
唯は自分の手にすがりつくように、目を閉じていた。肩が震えているのがわかる、必死に耐えているのだ、死の恐怖に。
――いや、ダメだ。
腹の内から何かがこみ上げてくる、怒りにも似た、それでいてどす黒くはない、別の感情が。
お前はさっき何を誓った? 「必ず守る」って言ったばかりだろう? それを嘘にするのか?
考えろ、なんとしてでもここを抜け出す方法を。最後の瞬間まで諦めるな、死の際で活路を見いだせ。
そこまで考えて、ふと思い出す。学校で妄想していたこと。
あのとき僕は、学校に陣取る狙撃兵をどうやって排除するか、なんて馬鹿なことを考えていた。建物の窓が無い方向から忍び寄り、待ち伏せされやすい廊下を避けて、教室の壁を爆破して通路を確保し――。
はっ、と声を出す。そうだ、何を馬鹿なことを。ドアが一つしかないから、逃げ場がない?
道がないのなら、自分で作り出せ。
背に背負っていたナップザックを床に下ろし、急いで中身を漁る。目当てのものはすぐ見つかった。粘土状のブロックとそれに刺さった乾電池状の装置、プラスチック爆薬と信管だ。
爆薬を細長く、紐状に引き延ばす。爆薬の形を整えたら、今度はドアに正対した壁の前に立つ。肩から高周波ナイフを引き抜いて、壁に四角い切り込みを入れてゆく。
時間がない、ドアには裂け目が入り、今にも破られそうになっている。緊張で震える手で、紐状の爆薬を壁の切れ目に埋め込む。ナップザックから取り出した起爆装置を手に持ち、浩太と唯の元に駆け寄った。
「目を閉じて、耳を塞いで! 口を開けて伏せろ!」
二人の頭を押し込む形で下げさせる。両名とも自分の言葉に素直に従ったのか、言われたとおり目を閉じ、両耳を手で塞いでいた。
自分も床に伏せ、BMIデバイスを通じて起爆装置を起動する。耳をつんざくような爆轟、木片と漆喰がバラバラと部屋の中に散乱する。目を開けてみると、壁が破壊され、穴が開いている。穴の向こうはコンクリートの通路につながっていた。
「早く!」
唯と浩太の手を取って体を引き起こし、その背中を強引に押しやって、壁の穴へ移動させる。爆発の衝撃で見当識を失ったか、二人とも足取りがおぼつかない様子だ。
ドアがついに破られる。隙間から内部に押し入ってくるドローンたち。無機質な機械の瞳でこちらを見据えると、奇声を上げて這いずりはじめた。
二つ目の爆薬を手に取り、天井に向けて力一杯放り上げた。粘土状の爆薬が天井に貼り付く。
壁の穴から外に転び出ると同時に、起爆信号を送信。爆薬が炸裂し、天井をぶち抜く。基礎を破壊された上階から、建材やらコンクリやら金属パイプやらが、土砂崩れのように落下してきた。
猛烈なホコリに思わず咳き込む。手探りで唯と浩太を捜し当てると、有無を言わさずに立ち上がらせる。
二人を追い立てるように進ませ、狭苦しい通路を走り抜けた。
* * *
「――くっ、は」
ショッピングモールからかなり離れた所まで走って、体力が尽きた。手足は鉛のように重く、肺は酸素を求めてあえいでいる。玉のような汗が額から伝い落ちるのがわかった。
膝に手をついて体を支えていたが、やがて立っているのすら辛くなり、尻餅をつくように腰を下ろす。唯と浩太も同じような様子で、床に座って喘いでいた。
なん、とか、逃げ切ったか?
周囲にドローンの存在を示すような兆候はない。物音も、気配もなし。上手く撒けたのだと思いたいが。
それにしても、今回は本当にヤバかった。あともう少しで、本当に死んでしまうところだった。こんな目にあうのはもう二度とゴメンだ。
この事態を招いた張本人である浩太に文句の一つでも言ってやらないと気が済まなかったが、当の本人を見たらそんな気も失せた。浩太は死の淵から脱した安堵からか、恥も外聞もなく涙を流していた。その口から出るのは「うう……」という言葉にならない呻きだけだ。
「藤宮君、少し、いい?」
唯がそばに近寄ってくる。その顔は憔悴しきっているが、さっきまでのような絶望には塗りつぶされてはいない。
「ん……なに?」
「――少し、考えたんだけど、ここから先は、藤宮君に先導して欲しいの。お願い、できるかな」
「どうして」と問う。すると唯は少し困ったような表情で。
「……さっき閉じ込められたとき、私はもうだめだ、って思った。ここで死ぬんだって思って、怖くて何もできなかった。それは武中君も同じだったと思う」
横目で浩太を見る唯。
「――でも、藤宮君は違った。怖くても、生き延びるために行動してた。そんなこと、私にも武中君にも、できなかった」
唯が儚げな笑いを見せる。
「藤宮君なら――私たちを導いてくれる、最後の瞬間まで望みを捨てないんだって、思えたから」
唯は「だから」と息を吐いた。
「私何でもするから。藤宮君の言うことを何でも聞くから。……だから、お願い」
唯がうつむく。顔が髪に隠れてしまって、どんな表情をしているのかはわからないが――。
お前はどうするんだ? と自問自答する。本当に彼女の望みを受け入れるのか? お前なんかが本当に、みんなを導けると思っているのか?
だが、とささやく声がする。逃げるな、と、その声は言っている。一度誓ったことは必ず果たせ、自身の責任を全うしろ。
お前はこの子に、「必ず守る」と言ったのだろう。
「……分かった、僕が二人の前に立つ」
長い逡巡の後、そう唯に告げた。
「みんなで、生きて地上に戻ろう」
唯が目尻をうっすらと光らせて、微笑みながら力強く頷く。
「武中君は? それでいい?」
唯の問いに、浩太は少々呆けたような顔で宙を眺めた後。
「俺は……うん、それでいいよ……」
と、小さな声を絞り出していた。