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ENCOUNTER  作者: 雑兵
2/7

Beginning

 まだ朝だというのに、焼けつくような日差しが照りつけていた。

 地面のアスファルトは太陽の熱をたっぷりと蓄えており、遠赤外線効果かなにやらで、下からも強烈に熱が放たれている。サウナの中にでも放り込まれたように暑い。

 背の低い住宅が立ち並ぶ通学路を、一人鞄を持って歩く。葉を目いっぱい生い茂らせた街路樹の枝の間から、容赦のない陽光が漏れ光っている。

 視界には四角い仮想ウィンドウが展開されており、右下に時刻と気温、左上にGPSマップが表示されていた。

 現在の気温、摂氏三〇度。上半身の半袖シャツには早くも汗がにじみはじめている。額にも汗の粒が浮かんでいるらしく、時々こめかみを伝って落ちる汗の感触が、なんとも不快だ。

 足元を見れば、CGで描かれた矢印が歩道の表面に表示されていた。その矢印は歩道に沿って進み、交差点を右に曲がっている。通学路の順路が表示されているのだ。さらには、通学路の途中に建てられている電柱の周りでは、これまたやはり仮想CGで描かれた看板がくるくる回っていた。

 AR(オーグメンテッド・リアリティ 拡張現実)テクノロジーは、現実と電子情報の境を曖昧にしていた。現実世界に電子情報が進出し、電子の世界と現実の世界が重なり合って存在しているのだ。

 これらの事象を可能としているのはナノマシンと呼ばれる微細な機械群だ。そのナノマシンを媒介とし、脳と電子情報を直接つなぐ技術、BMIブレインマシンインターフェイスが、脳内でこのように現実と仮想現実の世界を合成するのだ。電子顕微鏡でないと見えないサイズの微小機械が人間の体内に投与され、それらが脳などの中枢神経と直接結合することで、電子情報と脳との間の直接的な情報交換を可能としていた。さらにナノマシンは自らネットワークを形成し、人間の第二の神経と呼ばれるまでになっていた。

 BMIは個人端末の機能を持ち、通話のような単純な機能から、ネットサーフィン、全感覚を電子世界に没入させるといった高度機能も併せ持つ。この時代ではナノマシンさえ投与されていれば何でもでき、携帯電話やPCといったかつての個人端末を過去のものとしていた。

 通学路のガイド表示に従ってしばらく進むと、徐々に周りに人が増えてくる。純白の半そでのシャツに学生ズボンを着た男子や、夏用のセーラー服を着た女子達が、談笑しながら歩いていた。

 周りに人が増えるにつれて、学校へと向かう気が萎え、足が重くなってゆく。あそこへ行くのがたまらなく嫌だった。

 やがて歩道の右手に白く背の高い塀が現れ、百メートルほど先に校門が見えた。自分と同じように登校してくる生徒が、次々に校門に吸い込まれてゆく。

 背後から車のモーター音が聞こえた。右手の車道を車が通過し、歩道を歩く生徒たちを追い越してゆく。艶やかな黒で塗装された大型の乗用車で、誰が見ても一目で外国産の車、それも途轍もない値段の高級車だということが分かった。車高がやや低く、タイヤが地面にわずかにめり込んでいるところから、車体に何らかの改造が施されているらしい。防弾仕様なのかもしれなかった。

 黒の高級車は校門の横手で停車した。運転席からドライバーが降り、後部座席のドアを開く。一連の動作は洗練されきっており、礼儀作法も完璧だ。

 後部座席から一人の人物が姿を現す。艶やかな栗色のセミロングをした、見目麗しい少女だ。強い意志を感じさせる大きな瞳に長い睫、鼻は小ぶりながら整った形をしており、唇は小さく、あごは細い。健康的できめ細やかな肌はわずかに桜色に染まっていた。

 車から降りた少女は、学校指定のセーラー服に身を包んでいた。白シャツと紺色のスカートという変哲のない制服のはずなのだが、スタイルがいいためか、周囲の女子生徒と比べてみると存在感が際立っていた。

 少女に視線を合わせると、空中に開いたウィンドウに姓名と所属学級が表示される。そこには「一年二組 綾城 唯」と出ていた。

 生徒が必ず持っている生徒手帳にICタグ(超小型チップが埋め込まれたタグ)が内蔵されており、そこには生徒の個人情報が暗号化されて記録されていた。この学級名と名前を学校側の管理システムが他の生徒に橋渡ししており、認証を受けていない部外者には見えない仕組みになっている。この表示の有効範囲は学校の敷地内と、その周囲十メートルほどに限られていた。

 その少女は背筋を伸ばし、どことなく周囲とは違う気品を漂わせながら、堂に入った歩き方で門の中に消えてゆく。周囲の生徒たちは何かに気圧されたかのように、自然と道を譲っていた

 非日常的な光景だったが、皆も慣れたもので、視線を向けはするがざわつく者は一人もいない。入学当初は相当話題になっていたものだったが、人間は順応する生き物なのだ。

 校門の前まで来た。門の脇にはプレートが埋め込まれており「市立青陵高校」と刻印されている。

 歩いて構内に足を踏み入れる。周囲には笑いさざめく男子や女子のグループがいた。口々に冗談や一日が始まった事への不満を漏らしながら、こちらに目もくれずに続々と校舎に入ってゆく。

 対する自分は、一人だ。話しかけてくる人もおらず、どこかのグループに誘われることもない。自分の周りだけが、まるで真空状態のように人垣がない。

 これだけ喧噪が満ちた空間の中にあって、自分の居るところだけがまるでぽっかり穴が空いたかのように、空虚だ。

 はあ、と深くため息をついて、鉛のように重い足を動かす。周りがこれだけ楽しそうなのに、自分だけは誰からも相手にされていないという事実が、深く胸に刺さる。

 不意に、足で何かを踏んづけてしまった。不幸なことに足に全体重をかけてしまっていたためか、思いっきりそれを踏みしめてしまう。

「いってえ!」

 悲鳴にも似た叫びが響く。慌てて足下を見ると、誰かの足を踏んでいることに気付き、顔から血の気が引く。

「何やってんだ 前見て歩きやがれ!」

 怒りを含んだ声に顔を上げると、そこには一人の男子生徒が立っていた。

 身長は百八十センチ以上はあるだろう。明らかに運動で鍛えた体つきをしており、肩には筋肉が盛り上がっていて、袖から覗く腕は太く引き締まっている。刈り上げられた短い髪は茶に染まっていた。顔立ちは端整で、細い眉に黒の細長い瞳、筋の通った鼻梁に引き締まった頬と尖った顎をしていた。そして耳にはピアスの跡があった。

 視界に仮想ウィンドウが開き、その男子の名前が出る。「一年二組 武中 浩太」と表示されていた。

「おい、なに人の足を踏んでんだよ。謝れよ」

 その男子――浩太は足を踏まれた痛みからか、顔にはっきりとした怒りを浮かべていた。口元は忌々しげにゆがめられている。

「あ……その」

 予想外の事態に、言葉が上手く出てこない。普段あまり人と喋ることも無いからか、舌が錆び付いてしまったかのようだ。

「はあ? 聞こえねえんだよ。もっとはっきり喋れよ」

 イライラした様子で、浩太は腕を組みながらこちらを睨み付ける。その強烈な怒気に当てられて、舌がもつれてしまう。

 周囲の生徒たちはこちらを遠慮がちに眺めやり、我関せずと行った体で避けるようにしていた。中にはなにやら、ひそひそと小声で話している者もいた。

「おい、浩太、何してるんだ?」

 声のした方を見れば、浩太の取り巻き連中と思しき男子と女子たちが、怪訝そうな顔でこちらを眺めていた。

「――ちっ、別に何でもねえ、すぐ行くわ」

 けっ、と浩太は吐き捨て、こちらに背を向けた。そのまま雑踏に紛れ、姿が見えなくなる。

 恥辱と意気地の無い自分に対する怒りとで、頭が熱くなる。思わず、手の平に爪が食い込むほど拳を握りしめていた。

 そこで、二人の女子が校内の街路樹の傍に立ち、こちらを見ているのに気づく。

 一人はさっき車で登校していた少女、綾城唯だった。

 もう一人の女子は唯の傍らに立っていた。唯よりも身長が低く、全体的に小柄で細い体格の女の子だ。髪は薄い茶がかかった黒のショートカットで、小さく整った目鼻立ちをしている。どことなく小動物的な印象を連想させるその女子の頭の上に、「一年二組 吉野 香織」と表示が出ていた。

 唯の表情は険しく、お世辞にも好意があるとは言い難いほど渋い表情だ。憐れみと憤怒と嫌悪が入り混じったような、そんな表情が整った顔に張り付いている。傍らの吉野という女子は、どうしたら良いか分からないような感じでオロオロと周囲を見渡している。

 一瞬の後、唯は視線をそらして踵を返し、校舎の玄関の中に消えていった。吉野は後ろ髪を引かれるような感じでこちらを見た後、唯の後に続いた。

 そっとため息をつき、疲れ切った体を引きずるようにして学校へと向かった。


  *   *   *


 自分は昔から体が弱かった。

 生前の遺伝子診断でも検出できない複合的要因による影響云々、そんな理由で僕は特殊な神経病を生まれながらに患っていたのだと、親から聞かされた。

 神経が徐々に死滅していく病気で、このままではそう長くはない――そう医者から聞かされた両親は、当時最新の医療技術だったナノマシン療法を自分に施した。海のものと山のものとも知れない技術に、藁にもすがる思いだったらしい。

 ナノマシンによる神経系の代替と再構築によって、何とか死ぬことは無くなったけども、それだって「体が非常に弱い」から「体が弱い」に変わっただけで、他の普通の人よりは虚弱なことに変わりはなかった。

 入退院を繰り返す幼いころの日々、その頃に出会ったのが、いわゆるネットゲームと呼ばれるものの一つだった「DEEP ENCOUNTER」だった。

 「DEEP ENCOUNTER」は仮想空間において兵士になりきって戦うゲーム、つまり主観視点で銃を撃ち合って相手を倒すゲームだ。

 「DEEP ENCOUNTER」の売りの一つが、そのリアルさだ。今頃のゲームは脳と電子情報を直接つなぐBMIブレインマシンインターフェイス技術によって、五感全てを仮想空間に没入させることが可能だ。映像や音だけでなく、ざらつく砂の触感や、焼けつくような硝煙の臭い、吹きすさぶ爆風を感じとることができる。

 さらには、恐ろしく高度な物理演算もリアルさを演出する重要な要素だった。物が重力に引かれて落ちたり、壁に当たって反射したりといった、物理現象をほぼ完ぺきに再現していた。物を撃てば壊れるし、壁に銃弾が当たれば穴だらけになるのだ。

 写真と見分けがつかない超高度なグラフィックも相まって、「DEEP ENCOUNTER」は仮想現実シミュレーターとしての性格も併せ持っていた。

 総プレイ人口は世界で一千万人近く、発表から十年以上たってもまだアップデートが続けられている。世界各国の軍の中には、このソフトを戦闘シミュレーターとして採用しているところもある。

 自分はごく幼いころ、それこそ物心がつくかつかない頃からこのゲームにのめり込んでいた。

 小さいころは病気がちで、病院で退屈な時間を過ごす事が多かった。同年代の子供が同い年の子供と遊んだりしている中、一人病室にいるしかなかった。でも、生まれてすぐにナノマシンを投与されていたため、ネットに直接繋がることはできた。そしてネット世界をさまよう中で、このゲームを見つけたわけだ。

 病院で寝たきりでも、仮想空間では思いっきり体を動かして存分に戦うことができた。現実では体が思うように動かなくても、仮想空間上では、鍛え抜かれた兵士と同じように走ったり、銃を撃ったりすることができた。

 そして寝るのも惜しむほどやりこんで、最近では世界ランク十位以内に名を連ねられるようになった。戦い続けているうちに、自分の戦術やスキルが磨かれ、強くなってゆくのがたまらなく楽しかったのだ。


  *   *   *


 昼休憩を告げるチャイムの音が、教室に鳴り響いた。

 前の教壇に立っていた教師が壇上を降り、教室から出てゆくのが見えた。視界の仮想ウィンドウの時刻表示は十二時を示している。途端に教室内が騒がしくなった。

 教室の机に座ったまま、そっと息をつく。視界のウィンドウにはさっきまで授業で使っていた教科書やら資料やら、ノート代わりのメモが表示されていた。

 学校の生徒、というよりは日本人のほとんどがナノマシンによるネットへの直接接続を可能としていた。そのため、学校の授業もネット越しで行われるのが普通だ。宿題やらテストやらの受け渡しも電子媒体で行われていた。

 視界のウィンドウのデータを保存して次々と閉じてゆく。そして、窓の外に目を向けた。

 強烈な陽光が照りつけるグラウンドには、さっきまで体育の授業をしていたであろう男子や女子が、校舎へ戻ってゆく様子が見えた。

 ――この場所って狙撃にうってつけだよね。

 そんなことを唐突に思う。

 地面よりも高く、周囲が良く見渡せるこの場所からなら、グラウンド全てがスナイパーライフルの射程内だった。上から撃ち下ろす形になるので、銃弾に対する重力の影響が少なくてすむ。加えて窓の下はコンクリの壁だから、位置がばれたら即座に隠れて移動できるのも利点だ。スナイパーがここに陣取ったら、かなり厄介だろう。

 じゃあこの場所に陣取る狙撃兵を、自分ならどう攻略するか? 最善なのは建物ごと誘導爆弾で吹き飛ばすやり方だが、それができない場合は?

 もし自分が突入するなら、建物沿いに接近するルートが一番いい。学校の周囲は住宅街だから隠れる場所が多い。できる限り住宅街の間をぬって校舎に近づき、スナイパーが狙えない死角――つまり、校舎の縦長な方向から近づく。校舎内に突入したら、相手に対応する暇を与えずに肉薄する。でも、バカ正直に廊下沿いに進むのは良くない。トラップが仕掛けられていることが多いからだ。だから屋上からロープを使って窓から突入するか、狙撃兵のいる場所の隣の部屋から、壁をぶち抜いて突入するか。いずれかの方法がいいだろう。

 武器と装備はどう選ぼうか? そこまで考えて笑ってしまう。

 仮想の戦争ゲームをずっとやっていると、現実にまでその考えが滲み出てきてしまう。あの茂みは待ち伏せにうってつけだよなとか、この角は遭遇戦が起きそうでヤバいなとか、周囲の環境を何でもかんでも、「どう戦うか」に当てはめて考えてしまうのだ。

 こんなこと考えたって、現実じゃ何の役にも立たないのに。

「あの、綾城さん」

 男子の声で顔を上げ、肩ごしに横を見る。教室の真ん中の席に、唯と香織が座っていた。小さく可愛らしい弁当箱が机の上に広げられている。そして唯の隣には長身の男子が立っていた。名前は忘れたが、二年生の男子生徒だ。確かサッカー部のレギュラーで、日焼けした顔には軽薄そうな笑みが浮かべられている。

 二言三言件の男子が喋っていたが、時間がたつにつれ男子の表情がみるみる渋くなってゆく。対する唯は澄ました様子で、顔に何の表情も浮かべていない。傍らの男子の存在など完全に無視していた。

 やがて唯は男子を見上げ、口を開いた「私は貴方に用はありません。そこに立たれていると邪魔です」と。

 男子は泣きそうな表情になり、唯の前から立ち去った。

 オイオイまたかよ、とか、気の毒に、といった言葉が、近くから小声で聞こえてくる

 確かに、これで何回目だろうと思った。ドアの外には野次馬らしきギャラリーが、教室内の様子をうかがっているのが分かる。

 この綾城唯という女子は、地元名家の子女だった。その地元の名家というのも、国際的コングロマリット企業を経営する上流階級の一族で、政財界にも顔が利くとか何とか、この辺りでは結構有名な名前だ。聞けばこの街のインフラや地下街空間を建設したのも、件の綾城一族の会社だったとか云々。

 元々は名門私立に通っていたのだが、何故かエスカレーター制の名門校への進学を蹴って地元に戻ってきたとか、そんな無責任な噂を女子が話していたのを思い出す。

 日本でも指折りの資産家の娘で、そのうえ男なら涎が出そうなほどの容姿とくれば、男子たちが放っておくわけもない。容姿やら会話やらに自信のある男が、日に何度も唯に誘いをかけに来るのだ。ただし、いずれも玉砕に終わっていたが。唯自身は周囲の男と交流を持つつもりはないらしかった。

 ただ、彼女が冷たい態度を取るのは、ああいう風に言い寄ってくる軽薄な男を相手にする時だけだった。唯の前には、さっきの男子と入れ替わりで何人かの女子が群がっている。どうやら授業の内容やら宿題やらについて質問しているらしい。唯の成績は校内でもトップに近く、勉強のことについて質問に行けば、教師よりも実に分かりやすく、しかも深く説明してくれるともっぱらの評判だった。さっきの男子に対するのとはうって変わって、温かい笑顔を浮かべて女子に応対していた。

「今日の放課後、地下街に行かない?」

 女子たちが去った後、箸で弁当の中身をつつきながら、香織が対面の唯に話しかけているのが聞こえた。

「すごくいいお店見つけたんだよ。ちょっと地下深くだけど」

「んーと……」

 対する唯は何やら困り顔で思案している。

「……また家の用事? この前も視察とか言ってたよね。無理なら、いいけど」

「あー、ううん」

 唯はかぶりをふり、香織に微笑んでみせる。

 そこで、教室の外から騒がしい声が聞こえてくる。

「マジで? だっせー」

「いやいや、ホントパねえんだって」

「その話うけるわー」

 無意味に大きく、脳天気な声が否応なしに耳朶に飛び込んでくる。教室の扉のすぐ外で、数人の男子が身振り手振りを交えて喋っていた。いずれも長身で体格が良い、運動部の男子で構成されるグループだ。

その中心に短髪を茶に染め、制服をだらしなく着ている長身の男子が立っていた。武中浩太だ。

 武中浩太、この高校の中でもかなりの問題児として知られている生徒だ。

 バスケット部に所属していて、まだ一年次ながら次期レギュラーの地位を約束されているという、運動に関しては天才肌の男子だった。一方、スポーツ全般が優秀なのに対して学業はあまりよくないらしく、校内での素行の悪さも手伝って教師陣の受けは悪い、そんな奴だ。

 そして、この浩太が率いる生徒のグループは、一年次の間では最も力のある派閥だった。

 席を立つ。教室内で食事をとるのは居心地が悪いからだ。校内でも喋ることのできる相手は限られている、友達もほとんどいない。誰も話す相手がいないのに、談笑の満ちた教室内で一人でいるのは、はっきりいって、苦痛だ。

 弁当箱を持って教室から出ようとする。

 が、ろくに前も見ずに歩いていたのが災いした。再び誰かに思いっきりぶつかってしまう。

「おいてめえ、またかよ」

 その声に青くなる。目の前には浩太が立っていた。自分は浩太の背中に思いっきりぶつかってしまったのだ。

「なんなわけ? というか、いいかげん謝れよ」

 浩太以下、数人の男子に囲まれる形で詰問される。対する自分はというと、冷や汗をダラダラ流したまま、硬直して何も言えないでいた。

「謝れっつってんだろうが!」

 怒声が廊下に響きわたる。一瞬、周囲の喧噪が止まった。多くの生徒が、何事かとこちらの様子をうかがっていた。これでは完全にさらし者だ。

 何で僕がこんな目にあわなきゃいけないんだ。

「――アホくせえ。なあ、別の場所に行こうぜ」

 浩太はしばらくこちらを睨み付けていた後、白けた様子で周囲の男子を促した。ただ一人、その場に取り残される。周囲の生徒も興味を失った風で、喧噪が再び戻ってくる。

 だが、ただ一人だけ、こちらを見ている生徒がいた。唯だ。

 今朝見せたのと同じような、怒りと嫌悪が混じったような目で、僕を睨みつけていた。

 なんでそんな目で僕を見るんだ、僕は何もしてないのに。

 訳が分からなかった。


  *   *   *


 地下の繁華街は喧噪に満ちていた。

 幅二十メートルほどの通路は多くの通行人でごった返しており、前に進むだけでもひと苦労だ。通行人を避けて歩かなければならないので、なかなか前に進めない。

 通路の両脇には商店が立ち並び、多種多様な商品が見事に展示されていた。大型ディスプレイや空中投影ホログラムを使って、派手な映像で広告をしている店舗もあった。

 天井に張り付けられた薄膜型のLED照明が柔らかい光を放ち、地下通路を明るく照らし出していた。通路の先にはドーム状の開けた空間があり、広場になっているのが見えた。中央には巨大な噴水が設置されており、周囲にはベンチが噴水を囲むように置かれている。

 ここは地下街ジオシティ、地下三百メートルもの深さに建設された広大な大深度地下施設だ。

 先進地下ボーリング技術と大深度地下工学によって生み出されたここは、円柱状の空間にはショッピングモールや工場など、様々な商業施設が存在しており、地上部分の都市よりもはるかに発展していた。

 視界には地下街の立体地図が表示されていた。半径約二キロメートル、高さ約三百メートルの円柱状巨大地下空間だ。高精度なポリゴンで描画された地図に、自分の現在位置が矢印で表示されている。

 一階の高さは十メートル、全体で三十階層ある。上層・中層・下層に分かれており、上層は主に住宅街や各種交通機関の入り口、中層はショッピングモールなどの商業施設、下層は各種工業施設やインフラ空間となっていた。今歩いている商店街は地下街の中層部分であり、地上から二百メートルは地下深くにある。

 いらっしゃいませー、と店舗の前で売り子が道行く人に声をかけていた。どこぞのアイドルかと思えるほどの整った容姿に完璧な笑顔を浮かべ、疲れた素振りなど微塵も見せずに接客をこなしている。

 新型のドローンかな、見たことのないタイプだけど。

 あの売り子は生身の人間ではなかった。生物ですらない、ヒューマノイド型の自律機械だ。ドローンというカテゴリ名で呼ばれるこのロボットは、完璧に近いまでに人間に似せて作られていた。サイボーグからのスピンオフ技術である人工皮膚をはじめとして、人工骨格と人工筋肉、そしてある程度の自律機能を持つ人工知能を実装した、動く人形だ。

 ナノテクノロジーの結晶である人工皮膚のような模擬生体部品が、生身のそれと見分けがつかなくなってから久しい。サイボーグ技術の発展に伴って、ヒューマノイドロボットの精巧さは人間に匹敵するようになった。その結果として、人間の生活空間に違和感なく溶け込めるドローンは爆発的に普及した。

 AI技術の進化によって、ある限られた状況ならば人間相手の対応も可能となったドローンは、こうした接客業に良く用いられていた。その理由は簡単で、生身の人間よりもコストが安いからだ。購入費とメンテ費用がかかるとはいえ、人件費を丸々削ることができる。さらにはアイドルや俳優並みの容姿を持ち、病欠や欠勤することもないドローンは、こうした持久力が必要な仕事に重宝されていた。

 ちなみにというか、ああいった人型を模したドローンは食物を食べて消化し、エネルギーに変換することができる機能を持つものが多い。ナノテクノロジーの進展は人工臓器技術を飛躍的に発展させた。人間が摂取するのと同様の栄養素を、体内の極微小プラントで電力に変換することを可能としていた。全く電力が確保できない状況でも、人間と同じ食べ物をエネルギーにできるタイプのドローンは、付属設備に依存することなく様々な場所で稼働させることができるのだ。

 広場に出て、噴水近くのベンチに腰を下ろす。

 学校が終わったら、地下街の電気屋を回るのが習慣になっていた。この辺の電気屋には普通の店では売っていないような珍しいな電子部品やソフトなどが置いてあったからだ。レトロなゲームソフトから最新の積層チップまで、その品揃えは豊富だ。

 ベンチに座っていると、頭上の超大型ホログラムディスプレイでニュース番組が流れているのが目に飛び込んでくる。

「……本日行われた日米首脳会談において、サイバー犯罪の取り締まりに関して、連携体制を強化する声明が発表されました。これは近年サイバー犯罪が世界で多発していることを受けたもので、特にノイズメイカーと名乗るサイバーテロリストが……」

 聞き覚えのある単語を聞き、記憶をたどる。

 ノイズメイカーは世界でも非常に名の知れたハッカーであり、世界中の治安機関に追われているテロリストだった。

 ノイズメイカーは数いるサイバーテロリストの中でも特に過激で、テロ組織内の急先鋒であるらしいと、何かの掲示板で書き込みされていたのを思い出す。地下鉄の管理システムを狂わせて多数の死人を出し、旅客機の誘導システムをハッキングして墜落させる、といった凶悪なテロを起こしたとされている。

 ノイズメイカーがテロを引き起こす目的は未だに不明。ネット上に声明を出すわけでもなく、賛同者を募っているわけでもなく、世界中に恐怖の種をばらまき続けている。

 そして、そのノイズメイカーのような、超絶的な電子情報スキルを持つ人間は、ネット上で俗にこう呼ばれていた。

 先駆者ハービンジャーと。

「次は特集です。美浜市地下街近郊の電力貯蔵施設が、先日完成しました。綾城インダストリーズにより、最先端の技術を用いて作られたこの施設がどのように建設されたのか、その経過を追いました」

 ニュースの内容が変わったところで、こちらに歩いてくる人影に気付く。

「……本当にこんな所に穴場のお店があるの?」

「おかしいなぁ……先週はたしかにこの辺で見つけたのに」

 聞き覚えのある声が耳に飛び込んでくる。おそるおそる、声のした方に視線をめぐらせる。

 唯と香織だった。自分と同じように学校帰りなのだろう、制服姿のままで広場を歩いていた。唯は怪訝そうに傍らの友人を見ており、香織は困惑した様子できょろきょろと周囲を見渡している。ときおり周囲の流れる人影(主に男)が、二人の少女に顔を向けるのが分かる。容姿の整った女子高生二人、やけに人目を引くコンビだった。

 クラスメイトと学校外で顔を合わせるのは気まずいので、その場を離れようと腰を浮かす。

 が、一瞬遅かった。

「あれ? 藤宮くん?」

 香織とばっちり目が合っていた。つられて傍らの唯もこちらに視線を向けるが、たちまちその顔に渋い表情が浮かぶ。

 そんなに僕と会うのが嫌なのか。

 口の中に苦いものを感じながら、ベンチを立つ。よせばいいのに香織がこちらに近づいてきた。目が合ってしまった以上、無視するわけにもいかないということか。後ろの唯はわずかにためらっていたようだが、香織の後に続いた。

「えっと……奇遇だね。藤宮くんも買い物?」

 話しにくそうな様子で、香織が口を開く。笑顔を作ってはいるが、その表情には無理があった。ろくに話もしたことが無いのだから当然だが。

「……まあ、そんなとこ」

 唯にちらと眼を向けると、当人は腕を組んでこちらを睨みつけていた。苛立っているのか、指で腕を叩いている。いかにもこの場を離れたいといった感じだ。

「私たちも買い物に来たんだけど、お店がどこにあるかわからなくて」

 そこで会話が途切れる。沈黙が痛い。元々共通の話題なんて無いから会話が途切れるのも当たり前だったけど。

 この場を去りたかった。人と話すのは苦手なのだ。面白い会話なんてできないし、何よりも女子と話したことなんてろくにない。下手に喋ってどもるのは嫌だったし、失望されるのはもっと耐えられなかった。

 僕から会話を切り上げよう。そう考えて口を開こうとした矢先に。

 あいつが現れた。

 浩太だった。取り巻きと一緒ではないらしく、一人で広場に入ってくる。目ざとく自分を見つけたのだろう、その顔にはいやらしい笑みが浮かんでいた。

「綾城と吉野も一緒かよ。マジ偶然だな」

 女子二人には猫なで声を発する浩太。対する香織は少々困り顔であり、唯は険しい表情を隠そうともしていない。

「二人でどっか行くところ? 俺も混ぜてよ」

 浩太が自分と女子二人の間に強引に割り込む。

「どうせだからさあ、一緒に飯食いに行かね? その後はカラオケでも行こうぜ」

 自分には見せたことのないような、人懐こい表情を見せる浩太。鼻先をつきつけるようにして、香織に食い下がっている。当の香織はその迫力に負けているのか、やや腰が引けていた。

 だが、こいつがただの善意からこんなことを言うはずがない。明らかに下心あってのことだろう。

「えっ……と、どうしようかな。唯ちゃん?」

 浩太に気圧され気味の香織が、冷や汗を浮かべながら唯を振り向く。だが唯は黙して答えず、浩太を不機嫌そうに見ているだけだ。

「なあ、いいだろ? どうせこの後予定なんてないんだろうしさ」

 浩太はしつこく食い下がりつつも、自分に視線を向けた。「あー」と少々天を仰いだ後、こちらに向かってきて、顔を寄せてきた。

「――藤宮、直樹だったっけ? なあ直樹、ここで俺ら別れねえ? お前もその方がいいだろ? な?」

 お願いするような口ぶりではあるが、その目は笑っていない。「お前は邪魔だから消えろ」と言っているのだ。さすがの自分でもそのぐらいは分かる。

 でも、さっきまで名前もろくに知らなかったくせに、いきなり呼び捨てかよ。

 かなり釈然としないものを感じつつも、うなずく。どの道、この場ではそれ以外の選択肢などない。

「でさ、これからどこに行くよ?」

 再び女子に笑顔を向ける浩太。ここで話を長引かせて女子に引かれるとマズイと考えたのだろう。

 そこで、唯が口を開いた。

「お断りします」

 ものの見事な、完璧なまでの、拒絶だった。

「は?」

 一瞬、浩太は何を言われたのかが理解できない体で間抜けな声を漏らす。

「さっきから聞いてたら、何? 女を好き勝手に口説いて、気に入らない他人を排除しようとする、あなた何様のつもりなの?」

 唯が一気にまくしたてる。その大きな瞳には明らかな怒りが浮かんでいた。対する浩太は金魚のように口をパクパクさせている。そばの香織もあっけにとられていた。

「もう話しかけてこないで。他人を尊重する気もない人に付き合うつもりはないから」

 一声で切り捨てる。あまりにも見事な口上だった。その唯の視線が、今度はこちらに向いた。

「勘違いしないで、貴方もよ」

 冷え冷えとした声、温かい感情など一かけらも感じられない声音だった。

「……僕が何をしたっていうんだ。僕は何もしてない」

 思わず言い返していた。僕は何も悪くない、こんな風に言われる筋合いなんてない。

「……何もしてないのが悪いんじゃない。あそこまで言われて、バカにされて、それでも何も言うことは無いの? 歯向かってやろうって気もないの?」

 彼女に責められる中で自分は。

 なんで僕が、こんな風に責められなくちゃいけないんだ。

 そう内心歯噛みしていた。

 僕は君とは違う。君は生まれながらに何でも持ってるじゃないか。他人とは違う地位とか財産とか、容姿だってそうだ。頭もよくて、いつだって自信に満ちてる。

 だけど、僕には何もない。体は弱いし、運動もできないし、顔だって普通かそれ以下だ。学校では一人辛い思いをしてるのに、なんで誰も僕を気遣ってくれないんだ。

 なんで僕だけが、こんな目に。

 腹の中でマグマのように煮えたぎった感情が渦を巻いていたが、口からは何も出ない。何を言っても分かってもらえるわけがないから。

 唯はしばらくを僕を見ていた後、嘆息して目を閉じ、再びこちらを見る。

「……情けない、本当に見た目どおりね」

 憐れみと軽蔑の混じった視線が突き刺さる。

「香織、行きましょう。相手にするだけ時間の無駄だから」

「えっ、えっと、あの」

 唯はすでに背を向けていた。香織は唯とこちらに視線を往復させて、唯の後を追いかける。

「……お、オイ、ちょっと待てって」

 浩太が唯たちを呼び止める。その顔には困惑と弱々しい笑みが浮かんでいる。唯が面倒くさそうに振り返り、口を開きかけたところで。

 異変が起きた。

 まず頭上のホログラフィックモニタだ。ホロ映像にノイズが混じり始め、それが徐々に激しくなってゆく。映像が大きく歪み、スピーカーからも雑音が聞こえてくる。周囲の人々が何事か、と上を見上げた。

 やがてホロ映像はエラー画面を吐き出した。OSがクラッシュした時に出るあれだ。

 続いて、繁華街のショッピングウィンドウにも異変が起きていた。モニタや電子掲示板にも激しいノイズが混じる。文字化けした文章の羅列が表示されている。

 天井の照明も不安定に明滅していた。

 そして。

「なに……これ?」

 唯が真っ青な顔で頭を抱える、周りの人たちも同様だ。その原因はすぐに分かった、視界の仮想ウィンドウに、謎のファイルがダウンロードされている旨の表示が出ていた。

 なんだ、これ?

 急いでセキュリティ設定をチェックする。ファイアーウォールや対侵入ソフトは正常に作動している。だが、このファイルダウンロードは、ユーザーの意思とは無関係に行われている。

 セキュリティが抜かれている、明らかなハッキングだ。

 バカな。BMIブレインマシンインターフェイスに用いられているセキュリティ技術は恐ろしく強固なものだ。多少の不具合を起こさせるならともかくとして、大勢の管理者権限を奪い取って遠隔操作するなんて、そんな芸当が並の人間にできるはずが。

 血も凍りつくような悲鳴が上がる。

 悲鳴のした方角に目を向けると、そこには。

「なんだよ……あれ」

 浩太の呆然とした声が耳朶をうつ。

 ドローンに異変が起こっていた。

 ドローンの首が、ありえない方向にねじ曲がっていた。百八十度回転して首が逆さまになっている。口から赤い人工血液を吐き出して、奇声をあげながらのた打ち回っている。

 異変はそれだけではなかった。全身が見る見るうちに膨れ上がっていたのだ。人工皮膚を張り裂けさせて、内部からピンク色の人工筋肉が露出する。全身が筋肉で膨れ上がったドローンは、まるでダルマだった。

 かつてアイドル並みの造形だった顔もすでに面影は無く、膨張した表情筋で皮膚が弾け飛んでいた。人間そっくりに作られた人工の頭蓋骨が露出し、眼球が垂れ下がる。

 ドローンが四肢を使って飛び上がる。近くの通行人に飛びつき、組み伏せ。

 その顔を食いちぎっていた。

 鮮血を吹き出して、生きながら食われる通行人は悲鳴を上げていた。ドローンはおかまいなしに通行人を食い続ける。

 周囲の人々が雪崩をうつように逃げ出した。悲鳴と泣き声、怒号が広場を支配する。

 他のドローンたちにも次々と異変が起きる。四肢がねじくれ曲がり、全身を人工筋肉で膨れ上がる。機械人形たちが、周囲の人間に襲いかかってゆく。

「君たち、早く逃げなさい!」

 近くの駐在所から駆け付けたのだろう、幾人もの警官が通行人を非常口へ誘導していた。警官は腰から拳銃を抜き、暴走ドローンに向けて発砲する。

 だが命中しない。それも当然だ。拳銃はライフルに比べて当てるのが難しい。重量が軽く反動の強い拳銃は、熟練者でも三十メートル先の静止目標に当てるのがせいぜいだ。ましてや相手が縦横無尽に動き回っているとなると。

 ドローンがすれ違いざまに、警官に向けて腕を一閃する。嫌な音が立ち、警官の体が床に投げ出される。その首はあらぬ角度に曲がっていた。

 警官の手から落ちた拳銃が、目の前に転がってきた。

 そこで、視界のウィンドウがファイルダウンロードが終わったメッセージを吐き出す。ファイルが解凍され、脳内のBMIデバイスで得体のしれないファイルが自動実行される。恐らくは、ウィルスの類が。

 視界にノイズが走る。表示メッセージが文字化けし、目の前の光景がぐにゃりと歪んで。

 意識が暗転した。


  *   *   *


 どれぐらい気を失っていたのだろう。

 頬に何か平たく硬いものが当っていた。それが床だと気付くまでに数秒かかる。

 手をついて体を起き上がらせる。視界に光が戻ってきた。

 視界にノイズが混じり、目の前の景色がぶれる。さっきのウィルスの影響だろうか。しかし幸いにも、体は動いてくれた。

 意識を無くしていたのはほんの十秒ほどだと、周囲の様子から推測する。逃げ惑う人々、人間に襲いかかって食い殺す無数のドローン。そして目の前には、死んだ警官が落とした拳銃。

「唯ちゃん……」

 香織の声、驚いて振り向く。そこには、唯と香織が立ちすくんでいた。顔を蒼白にして、足を震わせながら目の前の惨状に釘付けになっていた。唯は香織をかばうように抱きしめている。

 なんでまだ逃げてないんだ。

 ドローンの一体がこちらに気付いたらしい、人型とは思えない俊敏さで突進してくる。口から赤い液体を吐き散らし、狂った奇声を上げながら。

 あんなの、生身の人間が勝てる相手じゃない。恐らくあのドローンは、ハッキングで暴走させられている。リミッターを外して人工筋肉の出力を破断寸前にまで引き上げているのだろう。筋力も瞬発力も、人間とは比べ物にならない。

 逃げよう。

 走り出そうと腰を浮かせたところで、傍らの少女二人に目をやる。

 二人はどうする? 助けるのか?

 そこまで考えて、首を振る。

 無理だ。自分だって助かるかわからないのに、二人も女の子を連れて逃げるなんて、自殺行為だ。逃げられない。

 そうとも、自分だけ逃げて、何を気に病む必要がある? 二人とも僕の事なんか気にしちゃいない。僕に優しい言葉すらかけてくれなかった、さっきは僕をさんざんなじってバカにしたじゃないか。

 そんな人間を助けてやる必要がどこにある? むしろ見捨てて死んでくれた方が気も晴れる。

 だから、このまま逃げ――。

 そこで気づく。唯は顔を蒼白にしてはいたが、泣いてはいなかった。むしろ、腕の中の友人をかばって、震えながら、眼前に迫るドローンをしっかり見据えていた。

 彼女は逃げてなどいない。

 そう考えた瞬間、足元の拳銃を拾っていた。両手持ちで、脇を締めて構える。

 僕は馬鹿だ、さっさと逃げればいいのに、何をしてるんだ。

 銃を持つ手が震える、歯はカチカチ鳴っていた。

 現実で銃なんて撃てるのか? リアルじゃ本物になんて触ったこともないのに?

 ドローンがすぐ目の前にせまる、膨れ上がった腕が振りかぶられた。

 引き金を引く、思ったよりも強い反動が腕に伝わり、銃が上に跳ね上がった。銃弾はあさっての方向に飛び、ドローンに命中しなかった。

 横に転がって、紙一重でドローンの腕を避ける。床がドローンの一撃で砕け、コンクリの破片が飛んだ。近くにいた通行人の一人に外れた腕が当たる。その人物は腕をもぎ取られ、床に転がって泣き叫んでいた。

 死にたくない。

 そう考えた瞬間、再び拳銃を目の前に構える。

 思い出せ、思い出せ。ゲームではどう拳銃を扱っていた? 

 グリップを優しく握り、腕に力を入れ過ぎず、全身をリラックスさせて。

 引き金を引いて、撃った。

 体に染みついた経験と勘で、銃の反動を完璧に殺す。銃の特性を完全に理解し、反動の発生タイミングと方向を完全に予測することで、銃は見かけ上反動が無いかのように振る舞っていた。

 弾丸がドローンの胴体をとらえた。反動で引っくり返り、地面の上でもがいて暴れまわる。姿勢制御機能か何かを破壊したのだろう。人工血液を滅茶苦茶に吐き散らしながら、地面をのたうちまわっていた。

 い、今のうちに。

 地面の暴走ドローンを尻目にして駈け出そうとする。そこで、まだ震えたままの女子二人に気付く。

 ――くそっ!

「はやく!」

 唯の手を掴み、引っ張って走り出す。香織も唯と一緒だ。一番近い壁際の非常口に飛び込んで、夢中で壁のアクリル板を叩き割った。中に内蔵されていたスイッチが押され、防火シャッターが非常口に降りる。

「お、お前ら?」

 声に背後を振り向く、息を切らせて、顔を青ざめさせた浩太が立っていた。どうやらこいつもここに逃げ込んだらしい。

 僕たちを放っておいて自分だけ逃げたのか。

 そう考えて頭に血が上りかけるが、異音に思考を中断された。

 ボゴッ、ベゴッという音と共に、防火シャッターが内側に凹んでいた。ドローンが扉を破ろうとしているらしい。背後からは悲鳴と、何かを咀嚼する水っぽい音が聞こえる。

 浩太がひっと声を漏らし、奥に向けて駆け出す。自分も唯の手を引っ張って、浩太の後を追う。

 人の叫び声や銃声が、後ろに遠ざかっていった。

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