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変化する日常 ④


「あわいさん。……ちょっとお願いが、ありまして」


 バイトを終えて家に帰り、風呂上りのヨーグルトを食べているあわいさんに、俺はようやく話を切り出した。一枚の紙をテーブルに置くと、あわいさんは最後の一口を嚥下した後で、それを手に取る。


 それが何なのか、あわいさんは手に取る前から予感していたようだった。ついにこの時が来た。と、彼女の表情はそんなふうに翳っている。



 未成年がダンジョン免許を取るためには、保護者の同意書が必要となる。筆記試験に合格しても、保護者のサインの入った同意書が用意できなければ実地試験に進めない。

 サインを偽装しようにも、ダンジョン免許に関係する書類は全て『偽書看破』のスキルでスキャンされるし……それに、あわいさんのサインを偽装するなんて、そんな裏切りみたいな真似はしたくない。


 真正面からあわいさんにぶつかって、説得してみせる。



 覚悟を決め、アンチ・ダンジョンを無効化できるかもしれないことについて説明する。そして「これにサインしてほしい」と、俺ははっきりと言葉を紡いだ。


「あわいさんには感謝してる。俺をここまで育ててくれたこととか、お金のこととか……もっと精神的な、安心とか信頼感とか……そういうもの、たくさんもらってきたから」


 あわいさんにはなるべく苦労も心配もかけたくない。それは本音だ。だけど。


「でも俺にもやっぱり、やりたいこととか、譲れないものとかがあって……あわいさんは反対するって分かってるし、反対する理由とかあわいさんの気持ちとかも分かってて……それでも、わがままを言わせてほしくて、だから……お願いします」


 あわいさんは同意書に視線を落としたまま、相槌も打たずに黙ったままだ。

 黙ったまま、じっと何かを考えている。



 あわいさんの中で答えが出るまで、俺はひたすらに待つつもりでいた。それこそ深夜まででも、朝まででも、サインをもらえるまで粘るつもりだった。


 しかし意外にも――というか、完全に俺の予想に反して、あわいさんはあっさりと首を縦に振った。


「分かった、サインしよう」

「え、良いの?」


 思わず、間抜けな質問をしてしまう。正直、ものすごく拍子抜けだ。絶対に反対されると思ってたのに。

 キョトン顔の俺を見て、あわいさんはどこか気まずそうに苦笑する。


「ごめんね、変に気をつかわせてしまって」


 ペン立てからボールペンを取って、あわいさんはさっさとサインをしてしまう。俺がぽかんとしているうちに、なめらかな筆跡の文字が、試験の許可を出してくれる。


「……良いの?」


 改めて尋ねる。「うん」という短い返事と、ボールペンのノック音がちょうど重なる。


「でも、ずっと反対だっただろ。俺がダンジョンに関わること。受付のバイトだってだいぶ反対されたから、てっきり今回も反対されるかと思ってたんだけど」

「そうだよね……」


 あわいさんはテーブルに肘をつき、頭を抱える。その様子が妙に悲愴で、俺は黙ってあわいさんの向かいに座る。「ごめん」と、あわいさんはまた謝った。


「こんな気づかいをさせてるようじゃ、駄目だね。子供は大人の顔色なんて窺わずに、もっとのびのび生きるべきなのに」


 どうやら、俺が恐るおそる書類を持って来たことに、結構ショックを受けているらしい。

 俺にしてみれば、最終的にサインさえもらえれば、何だって良い。親というよりは姉とか親戚とかっていう感覚ではあるが、ちゃんと家族だと思ってるし、家族だからこそ気をつかったりつかわれたりということもあるだろう。


「別にそこは気にしてない。あわいさんにだって考えがあるんだろうし」

「……やっぱり、ダンジョンって憧れる?」


 あわいさんの問いに、俺は即答できない。憧れ――冒険や探検、将来への期待……もちろんある。


 ダンジョン探索ができるようになれば、俺の将来の幅はこれまでの比ではなく広がる。魔石獲得実績を伸ばして、成績が良ければ大企業への就職も夢ではないかもしれない。どの程度実現可能なのかはともかくとして、そういった未来を描くことができるだけでも、俺にとっては「希望」そのものだ。


「憧れはあるよ。俺の人生は終わっちゃいなかったって、そう思えることは……素直に嬉しい。でも、」


 今は、それだけじゃない。



 俺はズボンのポケットからギターのピックを取り出して、テーブルに置いた。ぼろぼろになったどんぐりのシールが貼ってあるそれに、あわいさんは見覚えがないようだ。


「これは?」

「……昔、父さんが使ってたギターのピック。カレン……は、分かるよな? 久垣カレン。あいつがダンジョン深部から持ち帰ってきた。これを俺に渡してくれって、頼まれたらしい」

「頼まれたって……まさか!」


 あわいさんが立ち上がり、椅子がガタンと音を立てた。


「うん。父さんは生きてる。ダンジョンの中で……どこかで、まだ生きてるんだ」



 両親がいない生活に、すっかり慣れきっていた。あわいさんもよくしてくれるし、学校は嫌いだけど、少なくとも家ではほっとできるから、それでいいと思っていた。


 けれど、じゃあ全く寂しくないかと言われると――やっぱり、そんなことはない。


 物心ついたころにはもういなかった母さんとは違って、父さんは古い記憶に確かに存在した。可愛がってもらった、愛してもらった記憶だって、おぼろげながらもちゃんと残っている。

 ギターを弾く父さんの腕の中に潜り込んで、膝に座った、あの時の体温も。それを見て笑った父さんの声も、顔も――全て覚えている。



「俺は、父さんを探したい。何か理由があってダンジョンから出られないなら、どうにかしてその問題を解決して、父さんを連れて帰りたい。ダンジョンへの憧れも、もちろんあるけど……でもそれ以上に、俺は――ダンジョンから、父さんを取り返したいんだ。奪われ続けるのは、もういやだ」


 ギターのピックに視線を向けたまま、ひと息にそう言い切って、そして顔を上げた時……あわいさんが、泣いていた。


「えっ!?」


 記憶にある限り、あわいさんが泣いているのを見るのは初めてだ。いや、動物系の映画とかを見た時は結構泣いてるけど、映画とかドラマとかフィクションを見ている時以外で泣いている姿は、今の今まで見たことがない。


「え、あれ、俺のせい? ご、ごめん、あわいさん」


 慌てて謝ると、あわいさんは顔の前で手を振って「そうじゃない」の仕草をした。


「ちがう……ごめん。ただ……そっか、(いつき)さん、生きてるんだ……」


 そう言って声を詰まらせるあわいさんは、まるで子供が泣くみたいに、大粒の涙をぽろぽろとこぼす。



 そういえば……父さんとあわいさんの関係を、俺はあまり知らない。

 父さんが行方不明になって、まだ幼かった俺は当初、父方の祖父母に引き取られた。ところがどういったわけだか、その後で血の繋がりも全くないあわいさんが未成年後見人になり、あわいさんと一緒に暮らすことになった。

 あわいさんに初めて会った時は……確か「仕事仲間だ」とか何とか、紹介されたんだっけ。


 それからも何度か、父さんとあわいさんはどういう関係なのか尋ねたことはある。その時も「仕事上かかわりがあった」とか「仕事で同じチームだった」とか聞いて、俺もそれに何の違和感も抱かなかった。


 けれど今のあわいさんのこの反応は、ただの仕事上の関係だけだとは思い難い。



「あわいさんにとって父さんって、何なの?」


 今ならきっと、ちゃんと答えてくれる。そう思って恐るおそる訊いてみると、あわいさんは涙をぬぐい(はな)をかんだあとで、


「あの人は……樹さんは、私の命の恩人だよ」


 呟くように答えた。



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