ノイズ・リフレイン — 言えなかった言葉の地図
最初にそれを「ノイズ」だと教えてくれたのは、ノアだった。
「ほら、聞こえる? ここ。無音じゃないよ。ちゃんと、世界のざわめきが残ってる」
放課後の物理準備室。古いオシロスコープの横で、ノアはイヤホンの片方をわたしに差し出した。耳をあてると、かすれたホワイトノイズが鼓膜の奥を撫でる。シャーッという音の、そのもっと奥で、誰かの囁きがほどけては結び直されているように思えた。
「……ただの雑音でしょ」 「ううん。これは“まだ言葉になってないもの”の音」
ノアはそう言って笑う。笑顔の輪郭だけが、夕焼けより淡い色をしていた。
◆
ノア・リフレクス。クラスメイトで、理科部の部長。成績は学年トップで、先生たちからの信頼も厚くて、でもいつもどこか一歩引いたように窓の外を眺めている子。
わたし――春原かなえは、その隣でプリントを配ったり、黒板を写したり、実験器具を片付けたりする係。肩書きなんてない。ただ、気づけばいつもノアのそばにいる、それだけの存在。
その日、ノアは古びた小型レコーダーを机に置いた。透明のビニールテープが窓から差す光を跳ね返している。
「これ、うちの倉庫から出てきた。おじいちゃんの遺品。テープ、まだ動いたんだ」 「珍しいね、今どきカセットなんて」 「ね。だから、ちょっと録ってみたくて」
ノアは窓を少し開ける。冬の手前の冷たい風が、カーテンを揺らしながら準備室に流れ込む。レコーダーの赤い録音ランプが灯った。
「テスト録音?」 「ううん。“今”を録るの」
その言い方が少しおかしくて、わたしは笑いそうになった。 でも、ノアは真面目な顔で続ける。
「わたしたちって、いつも“もう終わった瞬間”の中で生きてる気がしない? 言葉も、気持ちも、伝えようとした時には半分くらい崩れてて。でも、ノイズはさ、崩れる前の“予感”だけを拾ってくれるんだよ」 「難しいこと言うね」 「うん、自分でもちょっと思ってる」
二人で笑う。その笑い声も、テープの中に薄く沈んでいった。
◆
ノアと過ごす放課後は、いつも静かだった。 教室の喧騒から逃げるように、わたしたちは理科準備室にこもる。棚に並んだビーカーと試験管、使われなくなった真空ポンプ、型落ちのパソコン。窓の外には校庭と、遠くを走る電車の線路。
机の上には、いつもノアの「集めてるもの」があった。
宇宙線の観測データ。深夜ラジオの録音。壊れかけた電子ピアノから拾った、鍵盤を押してないときのかすかなハムノイズ。海辺で録った風の音。すべて、わたしには「よくわからないけど、ノアにとって大事なもの」だった。
「ねえ、かなえ」 「なに?」 「もしさ、世界のぜんぶのノイズを集められたら、何がわかると思う?」
ノアは窓の縁に腰掛けて、薄く曇ったガラス越しに空を見ている。冬の雲は低くて重くて、今にも溶けて落ちてきそうだった。
「うーん……世界がうるさいってこと?」 「半分正解」
ノアはくすっと笑う。
「わたしはね、“誰かが言えなかった言葉”の地図ができると思うの」 「言えなかった、言葉」 「本当は『行かないで』って言いたかったのに、笑って『大丈夫だよ』って言っちゃったときの、喉にひっかかった感じ。ああいうのって、そのまま世界に溶けていく気がするじゃん。誰も覚えてないけど、この部屋の空気とか、机の傷とか、夕焼けの色とか、全部がちょっとずつ覚えてる」 「ロマンチストだね、ノア」 「理科部だからね。ロマンもデータにしないと」
そう言って、ノアはレコーダーを指先でつついた。
「だから、録ってる。“まだ言葉になってないもの”の痕跡」
わたしは返事の代わりに、ノアの横顔を見た。長いまつげの影が頬に落ちていて、唇は何かを飲み込むようにきゅっと結ばれている。
本当は、そのとき、聞きたいことがあった。
――じゃあ、ノアの“言えなかった言葉”も、ここに溶けてるの?
でも、わたしはそれを飲み込んだ。喉にひっかかったまま、ノアの言うところの「世界のノイズ」に、そっと紛れ込ませた。
◆
三学期のある日、ノアはふいに言った。
「ねえ、かなえ。わたし、転校するかもしれない」
黒板の数式を写していた手が止まる。チョークの粉が、少しだけ舞った。
「……え?」 「“かも”だからね。“決定”ではない」 「どういうこと?」 「お父さんの仕事。海外の研究所に呼ばれてるんだって。行くなら、向こうで二年くらいは戻ってこれないかも」
心臓が、ひとつ跳ねたあと、変なリズムで打ち始める。
「なんで、いきなり……」 「本当は、前から話はあったみたい。わたしには、最近まで言わないでって言ってたんだって。お母さんが」 「なんでノアまで、わたしに言わないの」 「……言えなかった」
ノアは、それだけ言って笑った。その笑い方が、いつもより少し下手だった。
「ね。こういうのが、ノイズになるんだよ。言えなかった分だけ、部屋の隅っことか、空の端っことかに、溜まってくんだと思う」
わたしは、なんて返せばいいかわからずに、消しゴムだけを強く握りしめた。机にうつる冬の光が、みるみる滲んでいく。
「いつ、行くの」 「まだわからない。来週、詳しい話を聞きに行く。それで決まる」
決まったら、戻れない。
その言葉が、黒板の数式よりも鮮明に、胸の中に書き込まれていく。
◆
その週の金曜日、わたしは準備室でノアを待っていた。
レコーダーは机の上に置かれたまま。最後に録音したのは、たぶん先月の雨の日だ。窓を叩く雨の音と、勉強に行き詰まってため息をつくノアの声が入っているはずだ。
時計の針が、少しずつ放課後を削っていく。部活の掛け声やボールの音が廊下の先から届いて、遠ざかっていく。
十分、二十分、三十分。
ノアは来なかった。
代わりに現れたのは、担任の先生だった。
「あ、春原。ノアのこと、聞いたか?」
わたしは首を振る。先生は、困ったように笑った。
「今日、急きょ親御さんと一緒に出国したよ。向こうの研究所の都合で、準備が早まったんだって。本人も、朝まで知らなかったらしい」
耳鳴りがした。シャーッという音が、頭の中いっぱいに広がる。
先生は続ける。
「慌ただしくて、クラスのみんなにちゃんと挨拶できなかったのが心残りだってさ。……これ、預かってる」
先生は、紙袋から何かを取り出して、わたしに差し出した。見慣れた角張ったフォルム。銀色のボディ。赤い録音ボタン。
――ノアの、レコーダーだ。
「春原に、渡してほしいって。『続き、録って』って言ってた」
ノアの声が、喉の奥をかすめたような気がした。
◆
家に帰ると、机の上にレコーダーを置き、しばらく見つめた。
何度も一緒に再生したテープ。宇宙線のノイズ、ラジオのささやき、雨の音、二人のとりとめのない会話。ぜんぶ混ざった、世界のざわめき。
今、そのすべてが、わたしの手の中にある。
テープのラベルには、ノアのきれいな字で小さく書かれていた。
――「NOISE MAP 01」。
「一番じゃん……ずるいよ」
思わずこぼれた声も、録音されてしまいそうで、慌てて口を閉じる。
わたしは再生ボタンを押した。
シャーッというホワイトノイズ。遠くで車が通る音。かすかに、誰かの笑い声。少しして、聞き慣れた声がした。
『テスト、テスト。ノア・リフレクスです。聞こえてますか』
現在形のノアの声が、部屋の空気を震わせる。
『このテープは、“言えなかった言葉”の地図を作るための実験です。……って言ったら、かなえに笑われるかな』
わたしは笑えなかった。喉がぎゅっと詰まって、息をするのも下手になった。
『今は、放課後の準備室。窓の外は曇り。かなえは、たぶん今、ノートに何か書いてる』
そのときのわたしの姿が、鮮やかに蘇る。
『かなえは、よく笑う。でも、何かを飲み込むときは、目の端がちょっとだけ揺れる。そういうのを、世界はちゃんと覚えてくれてるのかな』
テープの向こうで、ノアが息を吸う気配がした。
『わたしは、世界のノイズが好きです。だって、そこには名前のついてない感情が、たくさん漂ってるから。……でも』
少しだけ、間が空く。
『本当は、ぜんぶ言葉にできたらいいのになって思う。特に――』
そこで、突然音が途切れた。テープの巻き戻し音が入って、またノイズに戻る。
「……え」
わたしは一度停止ボタンを押し、巻き戻してから、同じ部分を何度も再生した。でも、やっぱりそこでぷつりと途切れてしまう。
「特に、なんなの、ノア」
問いかけは、テープの磁性体には届かない。ただ、自分の部屋の天井に薄く吸い込まれていく。
たぶん、それもノイズになる。
◆
それからの日々、わたしはノアのテープを少しずつ、繰り返し聴いた。
テスト勉強の合間。お風呂上がり。眠る前。家の中の、静かな時間を選んで。
ノアの声は、いつも穏やかで、少しだけ寂しそうで、でもどこか楽しそうだった。きっと、あの子はほんとうに、世界のノイズを愛していたんだと思う。
気づけば、テープの終わりに近づいていた。最後の数分だけが、まだ聴けていない。
聴いてしまったら、本当に終わってしまう気がして、わたしは再生ボタンに指を伸ばしかけては引っ込める日々を繰り返した。
三月。卒業式の前日、制服のすそをアイロンがけしながら、ふと思う。
「……続き、録って、か」
ノアの言葉が、急に現実味を帯びて胸に刺さった。
わたしはレコーダーを手に取り、イヤホンを外して、机の上に置く。窓を少しだけ開ける。まだ冷たい風がカーテンを揺らした。
録音ボタンを押す。
赤いランプが、静かに点った。
「――春原かなえです」
声が震えた。でも、止めなかった。
「今は、三月。明日、卒業式。ノアは、たぶん遠い国のどこかで、別の空を見てるんだと思います」
自分に向かって話すみたいに、ゆっくりと言葉を選ぶ。
「わたしは、ノアのレコーダーを預かりました。“続き、録って”って言われました。でも、正直に言うと、全然うまくできてません。泣いてばっかりで、ノイズどころか、ただの湿った空気ばっかり増やしてました」
笑おうとして、うまくいかない。でも、それもきっとノイズの一部だ。
「ねえ、ノア。もしこれが、どこかで再生されることがあったら。そのときは、少しだけ笑ってください。“かなえ、相変わらずだな”って」
少しだけ、沈黙が落ちる。窓の外で、遠くの電車が走る音がした。
「本当はね。わたし、ノアに伝えられなかったことが、ひとつあります」
喉の奥が熱くなる。何度も飲み込んできた言葉。その全部が、今、表面に浮かび上がってくる。
「わたし、ノアが好きでした。今も、たぶんこれからも、ずっと」
言ってしまった。部屋の空気が、少しだけ変わった気がした。
「友だちとしても、それ以上としても、うまく言えないけど、とにかく、ノアと過ごした放課後がわたしの世界の真ん中にあります。オシロスコープも、へんなノイズの話も、全部」
涙がこぼれた。でも、止めない。テープがそれを覚えてくれるなら、それでいい。
「だから、この録音は、わたしの“言えなかった言葉”の地図の一番最初にします。NOISE MAP 02。……勝手に名前つけちゃった」
鼻をすする音まで、きっとテープはきれいに記録しているだろう。
「いつかさ。世界のぜんぶのノイズが集まって、ちゃんとした地図になったら。その端っこのほうに、小さい字で書いておいて。“ここで、ノアとかなえが、ちゃんと本音を言えました”って」
そう言って、わたしは録音ボタンを止めた。
赤い光が消える。部屋には、夜の気配だけが残る。
◆
その夜、ベッドに入ってから、わたしはスマホを手に取った。
時差の計算もろくにしないまま、ノアのアドレスに短いメールを書く。
『NOISE MAP 02 を録りました。またいつか、いっしょに聞けたらいいね』
迷った末に、最後に一文を足す。
『追伸:ちゃんと言えたよ』
送信ボタンを押したあと、不安になって布団にもぐり込む。返事なんて、来ないかもしれない。アドレスが変わっているかもしれないし、時差で寝ているかもしれないし、そもそも向こうのネット環境がどうなっているのかも知らない。
だとしても、いい。
世界のどこかで、このメッセージがノイズの一部になってくれれば。
◆
三日後。登校途中の電車の中で、スマホが震えた。
『かなえへ』
差出人欄に表示された名前を見た瞬間、息が止まりそうになる。
メールを開くと、短い文章が並んでいた。
『NOISE MAP 02、聞きたい。今は遠くで、知らない空見てるけど、かなえの声はちゃんと届いてます』
その下に、少し行を空けて、もう一行。
『追伸:わたしも、ちゃんと言えました。たぶん、同じこと』
電車の窓に映る自分の顔が、赤くなったり、泣きそうになったり、忙しく変わる。
シャーッという線路の音が、やけにやさしく聞こえた。
◆
春の風が、車窓を通り抜ける。駅に近づくアナウンスが流れる。見慣れた学校の屋根が、だんだん近づいてくる。
わたしはポケットの中でレコーダーを握りしめる。銀色のボディに、指先の熱が少しずつ移っていく。
世界は、今日もたぶんノイズだらけだ。言えなかった言葉。飲み込まれた想い。途中で途切れた告白。
でも、そのどれかひとつでも、こうして言葉になってテープに残せたなら。
それだけで、少しだけ世界を好きになれる気がした。
シャーッという音の向こうで、ノアが笑う声が聞こえたような気がして、わたしも、そっと笑い返した。
◆
ノアからのメールを何度も読み返しながら、わたしは高校生活の残りの日々を過ごした。
卒業。進学。新しい友だち、新しい授業、新しい通学路。すべてが新しいのに、わたしはどこかで、古いノイズを大事に持ち歩いていた。
レコーダーは、今も机の引き出しのいちばん手前に入れてある。テープは伸びないように、ときどき巻き直してやる。たまに思い出したみたいに再生すると、あの頃の空気が、少し埃っぽくて、少し泣きそうなまま、ちゃんとそこにいてくれる。
ノアとは、ときどきメールを交わした。研究所の街のこと。向こうの学校のこと。見上げる空の色の違い。送られてくる文章の向こう側で、ノアはきっと相変わらず、世界のノイズを集めているのだろう。
『最近は、こっちの宇宙線データも、ちょっとずつわかってきたよ』
そう書かれたメールには、グラフの画像が添付されていた。細かな揺らぎの連なり。そのどこかに、わたしの知らない空の気配が混じっている。
『そっちは?』
と聞かれて、わたしはいつも少しだけ悩む。
『こっちは、相変わらずうるさいよ。講義の声とか、電車のアナウンスとか、サークル勧誘の呼び込みとか』
そう答えたあとで、ひっそりと付け足す。
『でも、その奥のノイズは、けっこう好きかも』
◆
大学二年の春休み。駅前のカフェで友だちと別れたあと、何気なくスマホを見ると、一通のメールが届いていた。
『今度、そっちに戻ることになりました』
差出人は、ノア・リフレクス。
続く文章は、短かった。
『研究の区切りがついたので、一時帰国。しばらく滞在できそうです。もしよかったら、“続き”を聴く会しませんか』
心臓がまた、昔みたいな変なリズムで鳴り始める。
場所と日時を決めるのに、何度かメールをやり取りした。昔の準備室はもう使われていないらしく、代わりに、駅から二つ隣の小さな公園を待ち合わせ場所にした。
◆
約束の日。わたしはレコーダーを鞄に入れたまま、何度も取り出してはしまい直した。
「……変じゃないかな」
鏡の前で髪を整えながら呟く。高校の頃より少し伸びた前髪。お気に入りのイヤリング。ノアは、向こうでどんなふうに変わっただろう。
公園のベンチは、すこし古くなっていた。ペンキがところどころ剥がれ、かつてよりも座面がきしむ。それでも、座って空を見上げると、雲の流れ方はあの頃とあまり変わっていないように思えた。
「かなえ?」
名前を呼ばれて振り向く。
そこにいたのは、懐かしくて、少しだけ大人になったノアだった。
髪は肩より少し長く伸びて、光の加減で色の印象が変わる。目の奥に、知らない街の景色が少しだけ宿っている。でも、笑うときの口元の癖は、まったく変わっていなかった。
「……ノア」
名前を呼ぶだけで、喉が熱くなる。わたしたちは、少しぎこちない距離で向かい合い、それから同時に笑った。
「久しぶり」 「ほんとに」
近況を話し合ううちに、少しずつ空気がほぐれていく。大学の話、向こうの研究所の話、最近好きな音楽の話。どれも新しいのに、話しているうちに、不思議と昔の準備室の匂いが蘇ってくる。
「でさ」
ひとしきり話したあと、ノアがこちらを見る。その視線は、かつてと同じように、少しだけ遠くを見ているみたいだった。
「持ってきてくれた?」
わたしは頷き、鞄からレコーダーを取り出した。銀色のボディは少し擦り傷が増えていたけれど、赤い録音ボタンも、小さな窓も、あの頃のままだ。
「テープも、まだ元気」 「よかった」
ノアはそっと手を伸ばし、レコーダーの表面を指先でなぞった。
「ねえ、今日さ。ちゃんと聴こう。“特に――”の続きと、“追伸:ちゃんと言えたよ”の間にある、ノイズも含めて」
わたしは一瞬言葉に詰まり、それから頷いた。
「うん」
ベンチに並んで座り、イヤホンを分け合う。再生ボタンを押す。シャーッという、懐かしいホワイトノイズが耳を満たす。
テープは、あの日のままの声を運んでくる。準備室の空気。冬の光。わたしたちの笑い声。途中で途切れた告白。世界に溶けてしまったはずのノイズが、こうしてちゃんと形を持って戻ってくる。
NOISE MAP 01 の最後のほうで、ノアの声が微かに揺れる。
『本当は、ぜんぶ言葉にできたらいいのになって思う。特に――』
そこで、やっぱり一度、音が途切れる。
でも、その直後。かすかな擦れる音のあとで、ほとんど囁きのような声が続いた。
『――かなえに』
「……え」
自分の名前が、旧い磁性体の上で震えている。
隣を見ると、ノアは少しだけ頬を赤くして、それでも逃げずに前を見ていた。
「編集してたの。恥ずかしくて。途中で切っちゃって、そのあと小さい声で続きだけ録って……結局、自分でも聴き返せなくて」
ノアは、苦笑いを浮かべた。
「でも、かなえに渡すって決めたとき、そのままにしておこうって思った。いつか、ちゃんと聴いてくれるかもって」
「なんで、言ってくれなかったの」
問いかけは、責めるというよりも、自分自身への戸惑いに近かった。
「言えなかったからだよ」
ノアの返事は、驚くほどあっさりしていた。それがかえって、胸にしみる。
「でもね。NOISE MAP 02 の“追伸”で、かなえが先に言ってくれたから。あのメール打ちながら、わたしもようやく言えた。たぶん、同じこと」
イヤホン越しに、自分の録音した声が流れてくる。
『わたし、ノアが好きでした。今も、たぶんこれからも、ずっと』
数年前の自分の告白が、現在の自分の耳を真っ直ぐに打つ。公園のざわめきと、子どもたちの笑い声と、遠くを走る車の音が、すべて背景のノイズになっていく。
「今も?」
ノアが、ほんの少しだけ不安そうに尋ねる。
わたしは、深呼吸をひとつしてから答えた。
「……うん。今も」
ノアは、ふっと笑った。その笑顔は、あの準備室で何度も見たものに、とてもよく似ていた。
「よかった。わたしも」
短く、それだけ。
でも、その一言は、長いあいだ世界に漂っていたノイズを、そっと回収してくれるような響きを持っていた。
◆
テープの最後まで聴き終わる頃には、空の色が少し変わっていた。薄かった雲がゆっくりとほどけ、夕焼けの色が滲み始める。
「ねえ、かなえ」
ノアがベンチから立ち上がり、空を見上げる。
「世界のぜんぶのノイズを集めるのは、やっぱり無理かもしれない。でもさ」
振り向いた瞳には、確かな光があった。
「わたしたちの“言えなかった言葉”くらいなら、ちゃんと拾って、言い直していけると思う。テープでも、メールでも、直接でも」
わたしはレコーダーを見つめる。銀色の小さな箱の中に、どれだけの時間と、どれだけのノイズと、どれだけの言えなかった言葉が詰まっているのだろう。
「NOISE MAP 03、録る?」
ノアの提案に、わたしは笑った。
「うん。今度は、ぜんぶちゃんと言葉にしながら」
レコーダーの録音ボタンを押す。赤い光が灯る。公園の風の音。遠くの踏切の警報。並んで座るわたしたちの、少し照れた笑い声。
それらすべてが、新しいノイズとして、テープの上に静かに降り積もっていく。
世界はきっと、これからもノイズだらけだ。
けれど、その中には、たしかにわたしたちの声がある。
シャーッという音の向こうで、未来の誰かがこのテープを聴くかもしれない。そのとき、この日の空気も、今日のわたしたちの震えも、きっと少しだけ続いている。
そう思うと、世界のざわめきが、以前よりもすこしだけ優しく聞こえた。




