『あげたがり姉』の婚約者はんぶんこ計画
「お姉様には、お姉様のことが大好きな婚約者様がいて素敵ですよね!」
キラキラとした青い瞳。砂糖菓子のように甘い声。
私の最愛の妹、マイがそう呟く。
その言葉を聞いた瞬間、私――アネッサの頭の中は光の速さで思考が組み立てられていた。
彼を、なんとかして二つに分割できないだろうか……
そうすれば、マイに半分あげられるのに……
――不可能なのはわかっている。
わかっているけれど、そう思わずにはいられない。
なぜなら私は、この世の何よりも妹が大好きだから。彼女が生まれた、あの運命の日からずっと。
◇
私、アネッサは侯爵家に生まれた長女。そして、五歳年下の妹がマイ。
マイが生まれて数日後。
小さな揺りかごの中で寝るマイを見て、五歳の私は思ったのだ。
天使が人の形をして地上に舞い降りたのだ、と。
そっと手を伸ばして頬に触れる。マシュマロみたいに柔らかい。
目は閉じられているけれど、長い睫毛が影を落としていて芸術的だった。
銀色の髪を指先で撫でると、そのあまりのふわふわ具合に、思わず「ふわぁあ!」っと、自分でもよくわからない感嘆の声が漏れた。
この子は、私が守らなくては。
何があっても、私がこの天使を守り抜くのだ、と。
そう固く決意し、神に誓った。
思えばそれが、私の輝かしい「妹ラブ」な日々の幕開けだった。
マイが五歳になった頃には、もはや彼女の存在は『生ける芸術品』と化していた。
陽の光を浴びてきらめく銀色の髪。どこまでも透き通る、大きな青い瞳。
彼女が歩けば、そこには花が咲き乱れるような錯覚さえ覚える。
そんなマイの世話を焼くのが、私の何よりの喜びだ。
毎朝、誰よりも早く起き、使用人に代わってマイの部屋へ向かう。
『月の姫のように、お迎えの光が来て空へ帰ってしまっていないかしら……?』
本気で、そう心配していた。
ドキドキしながら扉を開け、ベッドですやすや眠るマイの姿を確認して、ようやく安堵のため息をつく。
これが、私の大切な日課だった。
そして、私の妹への愛が頂点に達し、家族をドン引きさせた記念すべき日。それが、私の十歳の誕生日だった。
家族四人で食卓を囲みバースデーケーキが運ばれてくる。
十本のろうそくに火が灯され、家族の歌声に包まれながら、私は勢いよく火を吹き消した。
「わぁ、美味しそう! 早く食べたい!」
私の隣で、マイが目を輝かせながら手を叩く。
その無邪気な笑顔を見た瞬間、私の頭に天啓が閃いた。
このケーキ……
全てマイに食べさせてあげたい!
私はその場で、ケーキを切り分けようとしていたメイドを制止した。
「待って! ケーキを切り分けないで!」
突然の大声に、両親は少し驚いた顔で私を見る。
「アネッサ。そんなに大きなケーキ、独り占めしたらお腹を壊してしまうぞ」
「違うの、お父様! 私が食べたいんじゃないの! マイにあげたいの!」
私は胸を張って宣言した。
「私のお誕生日は何もいらないわ! プレゼントも何もかも! だからお願い、このケーキを全部、マイに食べさせてあげて!」
戸惑う両親とメイドを尻目に、私は半ば強引に、マイの席にホールケーキを移動させた。
目の前に置かれた大きなケーキに、マイは「わーい!」と大喜びだ。
「おいし~い!」
無邪気にホールケーキにフォークを突き立て、大きな口で頬張るマイ。
その姿を見ているだけで、私は胸がいっぱい。
ああ、なんて幸せな光景。我が妹ながら、天使すぎる。
すると、もぐもぐと口を動かしていたマイが、ふと私を見上げた。
「でも、こんなにたくさん、一人じゃお腹いっぱいになっちゃうから。お姉様にもあげる!」
そう言って、クリームがたっぷりついたフォークを、私の口元へと差し出してくるではないか。
……っ!
あまりの尊さに、私は気絶しかけた。
これが、天使からの祝福……!
私は夢見心地でそのケーキを食べさせてもらう。甘くて、とろけるように美味しかった。
私がうっとりしていると、そんな私たちを微笑ましげに見ていた父と母が口々に言い始めた。
「お父さんにもくれるかな?」
「お母さんにもちょうだい?」
その言葉を聞いた瞬間、私の頭はカッと沸騰した。
私は両親をキッと睨みつけ、言い放つ。
「ダメ! お父様とお母様が、マイにケーキを食べさせてもらおうなんて、百年早いわ!」
私の剣幕に、両親はなんとも言えない微妙な顔をしていたけれど、知ったことではない。
マイからの「あーん」は、私だけの特権なのだから。
◇ ◇
歳月は流れ、私の天使は七歳になった。
貴族の子女が、社交界にその存在を知らしめるお披露目会が開かれる年だ。
ある日、マイが鏡の前でくるりと回りながら、私にこう言ったのだ。
「お姉様、わたくし、決めたわ! お姉様がプレゼントしてくださった、あの髪飾りでお披露目会に出るの!」
あの髪飾り。それは先日、私が街で買ったものを、マイが「まあ、素敵!」と褒めてくれたので、その場で「じゃあ、あげるわ!」と二つ返事でプレゼントしたものだ。
ああ、マイ! なんて健気で愛らしいのかしら!
あまりの可愛さに、私は失神しそうになるのを、ぐっと奥歯ならぬ舌を噛んで堪える。じわり、と口の中に鉄の味が広がった。
しかし、その血の味を感じながら、私の頭は冷静に回転し始めていた。
(いけないわ……!)
あの髪飾りは、確かに可愛らしいけれど、最高級品というわけではない。
これでは、宝石で飾り立てた他の令嬢たちの中で、私の天使が埋もれてしまうではないか!
それではダメだ。断じてダメ!
マイは誰よりも輝いていなければならない。
でも、私が贈った髪飾りで出たいという、天使のいじらしい願いは、絶対に尊重したい……!
ジレンマに苛まれた私だったが、すぐに名案が浮かんだ。
私はその日のうちに、貴族御用達の商人たちを密かに呼び集めた。
「マイの髪飾りより控えめなデザインの髪飾りを安価で作るのよ。そして、それを他の貴族たちに売りさばくの」
商人たちは怪訝な顔をしたが、私が積んだ金貨の山を見て、すぐに目を輝かせた。
「そして、こう言って売りなさい。『これを付けていくと、お披露目会で失敗しないと言われている、幸運の髪飾り』とか、『教会の教皇様が子供たちの未来を思って特別に祈りを捧げてくださった』とか、なんとか適当にね!」
私の悪魔のような囁きに、商人たちはこくこくと頷く。
フフフ……。所詮は、親の言うことしか知らないガキんちょども。噂と権威に弱いのよ!
この計画は、後日、父の知るところとなり、「おまえっ、そんなことをしていたのか!」と、たいそう戦慄していたけれど、後の祭りだ。
そして、お披露目会当日。
私の計画は、完璧に成功した。
会場に集まった子供たちのほとんどが、あの『幸運の髪飾り』を着けているではないか。
チョロい、チョロい!
その中で、私のマイだけがひときわ輝いて見えた。
オーケストラの演奏が始まり、社交ダンスの時間になると、その輝きはさらに増す。
まるで月の光を浴びて川辺で踊る妖精だった。
あまりの神々しさに、私は何度も失神しかける。
そのたびに、力いっぱい舌を噛んで意識を保ち、マイの雄姿をこの目に焼き付けた。
おかげで、それから三日間ほど、食事はすべて血の味しかしなかったけれど。
まあ、そんなことは些細な問題だろう。
さらに月日は流れ、マイは十歳になった。
この頃になると、マイは不思議と「お姉様の〇〇いいな!」とおねだりすることが減ってしまう。
私がしびれを切らして「何か欲しいものはないの?」と聞くと、決まってこう答えるのだ。
「お姉様が隣にいてくださるだけで、わたくし、幸せですわ!」
その言葉を聞くたび、私は感涙しながら意識を失う。というのが最近の日課となっていた。
そんなある日の午後。マイと二人、庭園でお茶をしていた時のことだ。
他愛もない話の流れで、マイがふと寂しそうな顔で呟いた。
「いずれはお姉様か、お姉様のお婿様がこのお家を継がれるのよね。わたくしはどこかに嫁ぐと思うと、少しだけ不安だわ」
その言葉を聞いた瞬間、私の脳は超高速で稼働を始める。
家督もマイにあげられないだろうか……?
私はその日のうちに父の書斎へ乗り込み、父に直談判した。
「お父様。マイと家督を半分に分けられないでしょうか?」
私の突拍子もない提案に、父は目を丸くしてペンを取り落とす。
「なっななな何を言っているんだアネッサ!?」
動揺する父に対し、私は渾身のプレゼンテーションを始めた。
「お父様、家督を二つに分けることに三つの利点がございます」
指を折りながら説明する。
「まず第一に、リスクの分散です。万が一、片方の家に何かあっても、もう片方が支えることで我が家の血筋はより強固に存続できます。お父様の功績で事業も広まっていることから、暖簾分けも検討する時期でしょう」
「第二に、影響力の拡大。二つの家が連携すれば、社交界や政界での影響力は倍増します。マイの可愛さは社交界でも有用でしょう。本来嫁ぐはずだったマイの影響力を実家に残せるのです」
「そして第三に、健全な競争による発展です! 姉妹が互いに競い合うことで、領地経営もより活性化するに違いありません!」
まあ、競い合う気など毛頭ないが……
熱弁を振るう私を、父は唖然とした表情で見ていたが、やがて腕を組んで唸り始めた。
「なんだかそうした方が良い気がしてくるな……だが、それだけの口達者があるのだから、やはりアネッサや、お前の婿がこの家を継ぐのがふさわしいのではないか……?」
しまった、墓穴を掘った!
それからも、私は父と顔を合わせるたびに「お父様、先日の大事なお話ですが……」と切り出そうとするのだが、そのたびに父は「聞こえない! 洗脳されるから聞きたくない!」と、子供のように耳を塞いで逃げてしまう。
けれど、私は諦めない。
いつか必ず、この家督をマイとはんぶんこにしてみせるのだから。
◇ ◇ ◇
そして、月日は流れてマイは十五歳になった。
私の天使は、今日も今日とて天使である。
そんなある日の午後、マイと二人でお茶をしていた時のことだ。
「お姉様には、お姉様のことが大好きな婚約者様がいて素敵ですよね!」
マイがそう呟く。
そこで、マイがハッとした表情をして口を覆うのが視界の端に見えた。
そんなマイを横目に、私は少し不思議に思う。
彼――スティルトと私がそんなに仲良くしていた覚えはないけれど……?
婚約者のスティルトは確かに幼馴染で、付き合いは長い。
幼い頃は、よくマイと私と一緒になって悪戯をしたり、三人で庭を駆け回って遊んだりした覚えはある。
ただ、私の記憶にある彼と言えば……
遊びの中でマイを泣かせた彼と、一週間口を利かなかったり……
マイをないがしろにした彼を、滔々と一時間説教したり……
あまり、仲が良いエピソードなんてなかったような……?
とはいえ、マイはああいう男が好きなのか……。
そうか。
私の見る目がなかっただけで、本当はスティルトは素敵な殿方だったのね。
じゃあ彼を二分割して、片方をマイにあげたいところだ……。
そう考えて黙り込んでいる私に、マイは慌てたように言った。
「あ、あの……お姉様、素敵だと思うけど、あくまでお二人がお似合いという意味であって……」
だが、もう遅い。
マイが欲しがるものは、たとえそれが星であろうと月であろうと、なんでもあげたくなってしまうのがこの私なのだ。
たとえそれが、人の形をしていようとも。
その日の夕刻、私は婚約者であるスティルトを呼び出した。
「……というわけで、あなたを半分にしてマイにあげたいのよ」
「いやいやいやいや。意味わからないことを言うんじゃないよ」
開口一番、私の提案を彼は眉間に深い皺を刻んで一蹴した。
相変わらず可愛げのない男だ。
「意味わからなくはないでしょう? だって、マイが欲しがっているのよ?」
「確かに今さらだったな。婚約者を二つに分けるというお前の頭の中は初めから意味がわからなかったよ」
「というわけで、なんとか二人に分身してくれない?」
「いやっできねぇよ!一つであって俺だよ!」
スティルトが心底うんざりした、という顔で頭を抱える。
まったく……。
「まったく……マイへの愛があればそのぐらい楽勝でしょうに……」
「マイへの愛なんてねぇよ」
即答だった。
その淀みない返答に私の頭にカッと血が上る。
「マイへの愛がないですって!? じゃあ私が、マイがどんなに素敵な子か、これから一日中語って教えてあげるわ!」
「もう前に何度も語られたからいいよそんなの」
「『そんなの』とは何事か! ……と、話が脱線したわね。マイへあなたを半分あげる算段について真面目に話し合わないと」
「いやいや。だから俺を半分あげるってなんだよ」
彼はまだそんなことを言っている。
話が進まないではないか。
「そもそも、あなたが一人しかいないのが問題なのよねぇ……」
「俺が一人しかいないのに何の問題があるんだよ」
「お黙りなさい! あなたが二人いれば……」
そこで、私は雷に打たれたかのような衝撃とともに、素晴らしい案を思いついた。
これよ! これしかないわ!
「そうだわ、あなたが二人いれば解決なのよ!」
「……何言ってるんだ?」
怪訝な顔をするスティルトに、私は自信満々に言い放つ。
「あなたに瓜二つの人間を一人用意して、あなたと同じ振る舞いができるように教育するのはどうかしら?」
そんな私の言に、彼は諦観と疲労が入り混じった目をした。
そして、やれやれと首を振りながら、ぽつりと呟く。
「影武者が必要なほど俺は偉くないんだがな」
その言葉を、私の都合の良い脳は『肯定』として受け取ったのであった。
◇ ◇ ◇ ◇
善は急げ、とばかりに私はすぐさま行動に移した。
手始めに、マイ親衛隊五人衆を緊急招集する。
皆、私と一緒にマイを心から可愛がってくれる素敵な令嬢たちだ。
なぜか我が家より上位の貴族のご令嬢まで存在する親衛隊の面々を前に、隣に立つスティルトが呆れたように言った。
「お前、なぜか貴族令嬢たちに異常な人気があるよな……」
私が人気があるわけではない。親衛隊が結成されてしまうほどに、私のマイが素敵だというだけなのだ。
私は気を取り直し、集まってくれた親衛隊の皆に深々と頭を下げた。
「皆様、マイの頼みです。このスティルトと瓜二つの人間を、一緒に探して頂けないでしょうか?」
その言葉に、五人はぴしりと背筋を伸ばし、声を揃えて応じる。
「「「「「はい、お姉様の頼みとあらば!」」」」」
かくして、スティルトに似た男の大捜索が開始された。
結果として、ある令嬢の家で働いていた下男に白羽の矢が立つこととなる。
「ふむ、確かに……」
「似ていなくもないかしら……?」
サロンに連れてこられた青年は令嬢たちにぐるりと囲まれ、おどおどと肩を縮こまらせる。
そんな彼に、手慣れたメイドたちがスティルトに似るようにと化粧を施していく。
「まあ、これならばスティルト様と見間違えてしまいそうですね!」
「ええ、これならば大丈夫ですわ!」
令嬢たちの弾むような声が飛び交う中、鏡に映る自分の顔の変化に、青年は「なななっ、何ですかこれは!?」と混乱している。
そんな彼に、私はにっこりと微笑みかけた。
「これからあなたには、スティルトとして生きていただきます。そして、私と妹であなたをはんぶんこするのです!」
そう言われた下男は、目を白黒させていた。
すぐ横で、本物のスティルトが深々とため息をついているのが視界の端に映った。
こうして、スティルトの影武者計画は本格的に始動した。
下男改め、影武者君は素直な性格のようで、私の無茶な要求にも必死に応えようとしてくれる。
「まずは、声がちょっと高いのよねぇ」
骨格が似ているからか、声質はそこまで違わない。けれど、スティルトの方が少しだけ低い。
「さすがにそれは無理だろう」
「いけるわ。人間の限界を超えるのよ!」
「いやいや、可哀そうだから止めてやれ……」
スティルトが呆れたように言うけれど、私は気にしない。
マイのためなのだから、限界なんて超えてもらわなくては。
「さあ、彼の声を聞いて! もっと喉の奥から出す感じで!」
「あ、あ゛ーー……」
私の熱血指導に、影武者君は顔を真っ赤にしながら必死に低い声を出そうと頑張っている。
うんうん、その調子よ!
そんな発声練習をしばらく続けた後、次のステップへと移ることにした。
「次は癖を真似ていきましょう。スティルトは考え事をするときに耳たぶを触る癖があるわ」
「えっまじで!?」
私の指摘に、スティルトが素っ頓狂な声を上げる。
無意識だったのね。
ふふん。幼馴染として、あなたのことなどお見通しよ。
「それに、うそをつく時は右手を強く握るの」
「ほっ本当か!?」
「嘘よ」
「嘘かよ!なんなんだよ」
ギャーギャーと騒ぐスティルトを横目に、影武者君は真剣な顔で自分の耳たぶをそっと触ったりしている。
なんて健気なのかしら!
そんな奇妙な影武者教育が数日続いた。
初めは戸惑うばかりだった影武者君も、徐々にスティルトの喋り方や立ち振る舞いを身につけていく。
鏡の前に二人を並ばせると、どちらが本物か分からなくなるほどだ。
そして、私自身もこの教育の時間をどこか楽しんでいることに気づいた。
「違うわ! スティルトの呆れ顔はもっとこう、全てを諦めたような深みがあるのよ!」
「俺はどんな顔してるんだよ……」
スティルトに文句を言いながら、三人でああでもないこうでもないと議論するのは、なんだか昔に戻ったようで楽しかった。
幼い頃、マイと三人で日が暮れるまで遊んだ、あの頃のように。
もちろん、すべては愛するマイのため。
この計画が成功すれば、マイはきっと喜んでくれるはずだ。
私は完成に近づいていくもう一人のスティルトを眺めながら、満足げに微笑んだのだった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
そんなある日のこと。
外見や癖の模倣が一段落したところで、私は一つ重要なことを思い出した。
「次に、思考もスティルトに似せていかなければならないわね」
そう、中身までスティルトでなければ。
「まず、スティルトはマイのことが大好きなの」
「いや、マイに愛はないよ!人の思考を捏造するな!」
私の教育方針に、本物のスティルトが即座に食ってかかってくる。
まったく、これだから困るのよ。
「本物のあなたへの教育が、そもそも足りていなかったようね……」
「もう十分マイの話は聞いてきたよ……」
心底うんざり、という顔で彼は呟く。
そんな彼の態度を見て、私はふと、思ったことをそのまま口にしてしまった。
「でも、スティルトは、はんぶんこされることに異論はないでしょ?」
だって、こうして計画に協力してくれているのだから。
それは、マイのためを思ってのことだと、私は信じて疑わなかった。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、スティルトの表情がすっと変わった。
いつも浮かべている呆れ顔ではない。
どこか、傷ついたような、怒っているような……そんな顔。
「……良いわけないだろ」
低い声で呟くと、彼は一歩、私の方へと詰め寄ってきた。
そのただならぬ雰囲気に、私は思わず後ずさる。
「お前に付き合ってやっているだけで、俺は、本当はお前とずっと一緒に居たい」
え……?
今、なんて……?
彼の言葉の意味が、うまく理解できない。
思考が停止した私を、彼は真剣な目で見つめていた。
そして、自分が口にした言葉を遅れて自覚したのか、みるみるうちに顔を赤くしていく。
「……俺は、お前が好きなんだ。マイが好きなわけじゃない」
絞り出すような、その声。
その剣幕に、私の心臓が大きく跳ねた。
頭が真っ白になる。
何を言っているの、この男は……
混乱する頭がこの状況に耐えられなくなった。
「なっ……!」
彼の腕を振り払い、私はその場から逃げるように走り出した。
背後でスティルトが何かを叫んでいるような気がしたけれど、もう何も聞こえなかった。
自室に逃げ帰って、私はそのまま鍵をかけた。
心臓が、ありえないくらい大きな音を立てている。
『……俺は、お前が好きなんだ。マイが好きなわけじゃない』
不意に脳裏に蘇る、あの真剣な声と、傷ついたような瞳。
思い出すだけで、全身の血が逆流するような感覚に襲われる。
ベッドに倒れ込み、顔を枕に押し付けた。
一日中、私はずっと考えていた。
今まで、私はスティルトの気持ちに対して、あまりにも無頓着すぎたのではないだろうか。
思い返せば、おかしな点はいくつもあった。
三人で遊んでいるときに、彼がマイに対しておざなりな態度をとったこと。
私がマイの話ばかりをすると、どこか不機嫌そうな顔をしたこと。
あれは全部……私の気を引くためだった?
そんな彼に、私はなんて酷いことをしてきたんだろう。
マイのためだと信じて疑わず、彼の気持ちを考えもせずに、勝手な計画に巻き込んで……。
私は、彼をずっと傷つけてきたんじゃないだろうか。
じわじわと自己嫌悪が胸に広がる。
マイのことしか見えていなかった自分が、ひどく醜いものに思えた。
じゃあ、私は?
私は、彼のことをどう思っているの?
彼と一緒にいる時間は、楽しかった。
くだらないことで言い合ったり、呆れられたり。影武者君を三人で教育した時間も。
マイの話をしている時も、していない時も、全部。
――ああ、そうか。
なんだ。
私は、ずっと昔から、彼のことが……。
その答えにたどり着いた瞬間、顔にぶわっと熱が集まるのを感じた。
心臓が、さっきよりもっとうるさく鳴り始める。
じゃあ、彼をはんぶんこにして、マイにあげてもいい?
頭の中で、スティルトとマイが仲良く寄り添う光景を思い浮かべてみる。
彼が私にではなく、マイに優しい眼差しを向ける。
途端に、胸がぎゅうっと締め付けられた。
息が苦しい。視界が滲んで、涙がこぼれる。
……あげたくない。
嫌だ。
彼を、誰かにあげるなんて。
半分だって、指の先一本だって、あげたくない。
自分の独占欲に気づいてしまい、一人ベッドの上で身悶えていると、不意に扉がこんこん、とノックされた。
「お姉様? 一日中お部屋にいらっしゃいますが、体調でも優れないのですか?」
その甘い声は間違いなく私の天使、マイだった。
慌てて涙を拭うけれど、一度決壊した涙腺はそう簡単には言うことを聞いてくれない。
「だ、大丈夫よ、マイ……」
扉を開けると、心配そうな顔をしたマイが立っていた。
その天使のような顔を見た途端、私の胸に罪悪感と、どうしようもない感情がごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。
「まあ、お姉様……! どうなさったのです、そんなに泣いて……」
マイの優しい言葉に、私は堪えきれず、わっと泣き出してしまった。
「ごめんなさい、マイ……! 私、スティルトを半分あなたにあげようと思っていたけど……っ、やっぱり、どうしてもあげたくなかった……!」
しゃくりあげながらそう告白すると、マイはきょとん、と不思議そうな顔で小首を傾げた。
「……え? なんでわたくしに、スティルト様を半分くださるお話になっているんですの?」
え……? だって、欲しがっていたじゃない……?
「だって……マイが、『お姉様のことが大好きな婚約者様がいて素敵』だって……」
「ええ、申しましたわ」
「だから、マイはスティルトが欲しいのだと……!」
私が事の顛末を話した。
スティルトをはんぶんこにするために、影武者まで用意して教育していたことを。
涙ながらに語ると、マイは初めこそ驚いていたものの、やがてくすくすと鈴を転がすように笑い出した。
「もう、お姉様ったら! わたくしが言ったのは、言葉の通り、お二人がお似合いだという意味ですわ。スティルト様を半分もらい受けようだなんて、そんな発想すらありませんのに」
その屈託のない笑顔に、私は拍子抜けしてしまう。
じゃあ、私のこの数日間の苦労と苦悩は、一体……?
そんなやり取りをしていると、廊下の向こうから慌てたような足音が聞こえてきた。
「アネッサ!」
現れたのは、息を切らしたスティルトだった。
彼は私の部屋の前にで、気まずそうに視線を彷徨わせる。
「部屋に閉じこもっていると聞いて。昨日は乱暴にしてごめん」
彼の真剣な眼差しと、私の涙の跡、そして隣で微笑むマイ。
三人の構図を、マイは楽しむように眺めていた。
そして、私の背中をぽん、と優しく押す。
「ほら、お姉様」
天使の囁きに後押しされて、私は覚悟を決めた。
顔が燃えるように熱い。けれど、もう自分の気持ちから逃げられなかった。
「ごめんなさい、スティルト。私も……あなたを、半分だってあげたくない」
蚊の鳴くような声だったけれど、彼には確かに届いたようだった。
スティルトは一瞬、目を見開いて、それからふっと顔を綻ばせる。
次の瞬間、私は力強く、けれど優しい腕の中に閉じ込められた。
「……俺も、お前と、精一杯一緒に居たい」
耳元で彼の低い声が囁く。
「もしも俺が二人分動けるなら、二人ともお前と一緒に居たいんだ」
スティルトの胸に顔を埋めると、とくん、と彼の心臓の音が聞こえてくる。
ああ、なんて温かいんだろう。
マイを愛でている時とは違う、くすぐったくて、胸の奥がじんわりと温かくなるような、そんな幸せが私を包み込んでいた。
そんな私たちを、マイが微笑ましげに見つめている。
「そうですわ。そもそも、わたくし、スティルト様を半分いただくつもりはございません。王家へ嫁ぐことが決まっているのですから」
その言葉に、私とスティルトは同時に顔を上げた。
「「え!?」」
私たちの驚愕の声が、屋敷の廊下に高らかに響き渡ったのだった。
◇ マイ視点 ◇
わたくしの最愛のお姉様は、いつだってわたくしを輝かせることに一生懸命でした。
その情熱は、もはや執念と呼んでも差し支えないほどです。
七歳のお披露目会の時もそうでした。
商人たちを言いくるめ、他の令嬢たちに『幸運の髪飾り』なるものを売りつけ、結果的にわたくしを会場で一番目立たせてみせました。
あれは、ただの姉馬鹿ではありません。
お姉様には、人を、舞台を、そして流行すらも作り出す、プロデューサーのような才能があったのです。
その力は、友人である令嬢たちの恋路にも遺憾なく発揮されたらしいです。
『あの方を振り向かせたいの』と相談されれば、その令嬢に最も似合うドレスや装飾品を見立て、会話の運び方から効果的な視線の送り方まで、完璧に演出してみせます。
さらに、口八丁手八丁で、交渉事も達者なのです。
お姉様の手にかかれば、どんなに控えめな令嬢も、社交界の華へと変貌を遂てしまうのです。
だからこそ、お姉様は多くのご令嬢から慕われ、一種のカリスマとして羨望の眼差しを向けられていました。
なぜか我が家より上位の貴族のご令嬢まで集めて『マイ親衛隊』を結成してしまうほどに。
そんな稀代のプロデューサーに幼い頃から全身全霊で飾り立てられてきたわたくしが、社交界で有名になるのは、もはや必然だったのかもしれません。
そして、わたくしが十歳になった年。
とうとう、王家から縁談が舞い込んだのです。
その日、お父様の書斎に呼ばれたわたくしはお父様から告げられました。
「いいかい。この話は、まだアネッサには絶対に内緒だ。いいね?」
お父様の気持ちは痛いほど分かりました。
もしお姉様がこの話を知れば、ただでさえ過剰なわたくしへの愛情が暴走し、王家相手に何をしでかすか分かりません。
『うちのマイに相応しいか、まずは私が面接します!』などと言い出しかねないのです。
いえ、絶対に言います。
だから、わたくしは頷きました。
あの日、お姉様の前で「どこかに嫁ぐと思うと、少しだけ不安だわ」と呟いたのは、この縁談が胸にあったから。
お姉様が、わたくしのために家督をはんぶんこにしようと奮闘してくれる姿は、嬉しくもあり、少しだけ胸が痛みました。
ごめんなさい、お姉様。
でも、もう少しだけ、この秘密を許してください。
そして、現在。
わたくしの告白に、お姉様は呆然としたまま、ぱちぱちと瞬きを繰り返しています。
「まっマイが王家へ?」
「ええ、そうですわお姉様」
「どっどどどこの馬の骨とも知れない王子が、わたくしたちの天使を……!?」
王子と言うだけで、馬の骨ではないでしょうけれど……
あらあら、もう目が据わっています。
今にもドレスの裾をまくり上げて走り出しそうな剣幕です。
そんな中、お父様が真っ青な顔で駆け寄ってくるのが見えました。
スティルト様との一件を聞きつけ、様子を見に来たのでしょう。
「伝えたのか!? マイ、お前、伝えてしまったのか!?」
「ええ、お父様。もう、よろしいでしょう?」
わたくしがくすくすと笑うと、お父様は「ああ、もう終わりだ……」と天を仰ぎました。
その予想は、悲しいかな的中します。
「マイと結婚しようという世界一幸福な王子はどちらかしら!? 私がその目でしかと見届けて差し上げます!」
宣言するや否や、お姉様はスティルト様の手を振りほどき、王城のある方角へ向かって走り出します。
「アネッサ!?」
スティルト様の静止も、もうお姉様の耳には届いていません。
遠ざかっていく背中を見送りながら、わたくしは心からの笑みを浮かべました。
そう。それでこそ、わたくしの自慢のお姉様です。
これから王家という、少し窮屈な場所へ嫁ぐわたくしにとって、これ以上ないはなむけ。
――嫁ぎゆく妹のため、愛がゆえに大暴れしてくれる姉という、世界で一番頼もしくて、最高に素敵な餞別をどうしても受け取りたかったのです。
◇
お姉様が王城へと殴り込み……いえ、ご挨拶に向かわれてから、数時間経った頃。
わたくしは、城の一室でおとなしくお茶をいただいておりました。
コンコン、と控えめなノックの後、扉が開きます。
そこに立っていたのは、わたくしの婚約者である、この国の王子殿下、プランド様でした。
「やあ、マイ。待たせてしまってすまないね」
柔らかな金髪を揺らし、人の良い笑みを浮かべて入室されたプランド様。
そのお顔には、くっきりと疲れの色が浮かんでいます。
「まあ、プランド様。お疲れのご様子ですわね」
「ああ……君のお姉様は、なんというか、嵐のような方だね」
プランド様はわたくしの向かいのソファに深く腰掛けました。
本来であれば、王城に押しかけてきた不敬な貴族令嬢など、門前払いしてもよかったはず。
最後までお相手をしてくださったのは、わたくしに配慮してくださったからなのでしょう。
「それで、お姉様は、わたくしの婚約者として、プランド様を認めてくださいましたの?」
「認める、というか……。いくつか質問をされたよ。『マイの好きな食べ物はご存じ?』『マイの睡眠時間は確保してくださる?』『マイを泣かせたらどうなるか、分っていらっしゃる?』と……」
目に浮かぶようですわ。
きっと、鬼のような形相で問い詰めたに違いありません。
そんなやり取りを思い出したのか、プランド様は苦笑しながら、ふと仰いました。
「そういえば、先日の影武者を用意していた騒動は、無事に解決したと聞いたよ。大変だったね」
その言葉に、わたくしは思わず、くすりと笑ってしまいます。
ええ、そうなのです。
わたくし、お姉様の『婚約者はんぶんこ計画』のこと、すべて知っておりました。
同じ屋敷に住んでいて、知らないはずがありませんもの。
けれど、わたくしのために一生懸命になって、あれこれと策を弄してくださるお姉様の姿が愛おしくて、嬉しくて、ついつい黙って見守ってしまったのです。
今回の顛末を笑いながらプランド様にお話しすると、彼も楽しそうに相槌を打ってくださいます。
「ふふ、お姉様も、やっとご自分の気持ちに素直になりましたのよ。スティルト様という、本当に大切な方ができたのですわ」
そう。とても、喜ばしいこと。
お姉様が、わたくし以外の人を、あんなにも必死に求めるようになるなんて。
心から、祝福すべきことなのです。
そう、思っていたはずなのに。
ふと、自分の頬に、一筋の熱いものが伝うのを感じました。
「……あれ?」
ぽろり、と零れた涙は、まるで堰を切ったように、次から次へと溢れてきます。
「どうしたんだい、マイ?」
プランド様が、心配そうにこちらを覗き込みます。
大丈夫です、と笑おうとしたのに、わたくしの口からは、嗚咽しか出てきません。
笑っていたはずの顔は、いつの間にかくしゃくしゃに歪み、元に戻せなくなってしまいました。
「う、ううぅ……!」
そして、気づけば、プランド様の胸に飛び込んで、子どものように泣きじゃくっていました。
「お姉様が、わたくしより大事なものを見つけちゃった! もう、わたくしだけの、お姉様じゃなくなっちゃった……!」
しゃくりあげながら訴えるわたくしの背中を、プランド様は優しく撫でてくださいます。
その温かい腕の中で、わたくしはしばらくの間、声を上げて泣き続けました。
プランド様はやれやれと肩をすくめると、慈しむようにわたくしの頭を撫でて、こう仰いました。
「君たち姉妹が、早くお互いから自立できると良いのだけれどね」
その優しい声に、わたくしはただ、しゃくりあげることしかできません。
お姉様とわたくしが、自立する……。
そんなときが、本当に来るのでしょうか……?
◇ アネッサ視点 ◇
アポイントメントもなく王城に怒鳴り込んだ私。
下手をすれば不敬罪で牢屋に叩き込まれてもおかしくなかっただろう。
そこを未来の王子妃の姉、という一点で来客として丁重に扱ってもらえたのは幸いだった。
そして、私の天使であるマイと結婚するなどという、不届き千万な王子がやってきた。
彼にはまず、私の作った『マイをもっと知ろう!マイ当てクイズ100選』に挑戦してもらった。
「第一問!マイの好きな紅茶の茶葉は?」
「ええと……ダージリン、だろうか?」
「ぶっぶー! アールグレイですわ!」
こんな調子で、マイへの理解を深めてもらう。
その後は、『マイを幸せにするための宣言200箇条』を共に読み上げ、そのすべてを遵守することを誓わせた。
はじめこそ、王子は困惑しながらも一つ一つ丁寧に答えてくれていた。
けれど、「はい」と「うん」と「分かりました」の三言しか言わなくなっていた。
うんうん、きっとマイの素晴らしさを、よーく分かってくれたに違いないわ!
そう思うと、急に胸がいっぱいになってきてしまった。
今までずっと、私の隣にいた、あの小さくて愛らしい天使が、この人の元へ嫁いでいく。
隠しきれなくなった涙が、ぽろぽろと頬を伝った。
「……私の、たった一人の、可愛い妹を……幸せにして、くれますか?」
しゃくりあげながら問う私に、王子はそれまでの疲れた顔をすっと消し、真剣な眼差しで、はっきりとこう宣言してくれた。
「僕が責任を持って、必ず幸せにします。お姉様」
彼はマイを攫っていく不届き者であると同時に、なかなかの好青年でもあったようだ。
そして、屋敷に帰ったら、お父様が心労のあまり泡を吹いて倒れ、そのまま寝込んでいた。
けれど、そんなことは些細な問題だろう。
後日、私とスティルトは正式に結婚式を挙げた。
純白のドレスに身を包み、たくさんの祝福を受ける。
その中に、天使のように微笑むマイの姿を見つけた時、私の幸福は頂点に達した。
「ねえ、スティルト。マイが祝福してくれているわ。なんて幸せなのかしら!」
「……なあ、アネッサ。今日ぐらいは、俺だけを見てくれないか?」
不覚にも、真剣な顔でそんなことを言う彼が、やけに凛々しく見えてしまった。
……きっと、挙式用におめかししていたからに違いない。そうよ、きっとそう。
逆に、マイの結婚式では、私は感極まって常に泣いていた。
一挙手一投足、瞬きの一回すら見逃すまいと、何度も舌を噛んで失神しそうになるのを堪えていたせいで、それから一週間、食事がすべて血の味しかしなくなった。
でも、マイが王城へ行ってしまうと、どうにも落ち着かない。
一週間もすれば、禁断症状が出てきてしまう……
そう思った私は、王子とスティルトを呼び出し、緊急家族会議を開いた。
議題はもちろん、『週一マイの日の制定について』である。
最初は難色を示していた王子も、私の涙ながらの訴えに根負けしたのか、週に一度、私が王城へ通うことを許可してくれた。
確約さえ取れれば、こっちのものよ!
そして、現在。
私とスティルトとの間には、二人の可愛い男の子が生まれた。
最近の悩みといえば、五歳になった長男が、まだ赤子の次男にべったりで、片時も離れようとしないことだ。
朝、目を覚ませば、まず弟の眠る揺りかごへ駆け寄っていく長男の姿に、私は思わずため息をつく。
「まったく、誰に似たのかしら……」
そんな私を見て、スティルトは「お前以外に誰がいるんだ」と呆れつつ、「そのうち、弟と家督を半分にしたい、なんて言い出さないか心配だ」と頭を抱えている。
――まあ、兄弟仲が悪いより、良い方がいいに決まっている。
私は、二人が世界で一番仲の良い兄弟になるように願いながら、今日も今日とて、週に一度の『マイの日』のために、王城へと向かうのだった。
お腹も大きくなり、もうすぐ母となる、優しい笑みを浮かべたマイの元へ――
【王国諜報部より特記】
この手記が長年、特A級機密文書に指名・回収されていたのは、諜報部のエージェントが登場するからだ。
後に王国諜報部で伝説となるエージェント。
コードネーム、大禍時。
『気合を入れれば人間の限界は超えられる』を口癖に、骨格すら変幻自在に変え、どんな人間にでもなりすます変装の達人。任務のほとんどを変装してこなすため、彼の素顔を見た者はほとんどいない。
元は貴族の屋敷で働く一人の下男だった彼は、なぜか王族でもない貴族の影武者としてスカウトされたことで、自身の才能に開眼した。
その後、才能を見出されて諜報部に引き抜かれた。
後に彼はこう語る。
『僕の人生はあの時に大きく変わった。あの一件がなければ、ただのつまらない下男として一生を終えていただろう』と。