第一話 何も伝えない1 * 『何も伝えなかったから、(こうなるんだよ)』
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中世風 夫婦 すれ違い アンハッピーエンド
望んでいた婚姻だった。
爵位しか誇れるモノのの無い没落貴族にとって、彼女の家が持つ莫大な財産は、彼女の家が商家だという点を考慮しても、手に入れたいと思うには充分だった。
かつて寂れていた屋敷は美しくよみがえり、増員された使用人達が私を迎える。目の前には、妻がいる。
「クレッセ様、お帰りなさい」
妻は、穏やかに微笑んで、帰宅した私を迎えた。私はそれをちらりと見やり、すぐに視線を逸らした。そういう態度の私を、妻がどのような目で見ているのか、私は知らない。
妻が嫁入りと共に持参した財産は、この家を立て直すには充分すぎるくらいで、私は彼女に感謝した。
妻は、私が財産目当てでこの縁談を取り付けたことを知らない。
私は初めから彼女に表面上好意を示して接し、あたかも愛しているかのように見せ続けた。彼女は、そんな私の態度に頬を赤らめ、嬉しそうにしていた。
私は、そんな彼女を嗤っていた。上辺に騙される、単純な女だ、と。
「しばらく家を留守にする」
寝室のベッドに腰掛け、そのベッドで微睡む妻に話しかけた。妻はしばらく私を見つめ、穏やかな、しかし諦めたような笑みを見せた。
「…また王宮に宿泊なさるのですか?」
王宮に泊り込んだことなど、数えるほどしかない。
妻が長男を出産してから、私は彼女に触れていない。そのかわり、外に女をつくった。そして、仕事を理由に外泊し、その女と過ごしている。愛しているわけではない。だが、妻といることが辛いのだ。
「…そうだ」
多少の罪悪感がある。
妻は、私を愛している。なぜなら私以外を愛することを許されないから。
「お忙しいのですね。頑張ってください」
慈愛に満ちた笑顔を向けられているだろう事は簡単に想像がついた。
胸を締め付けられるような痛みを感じた。
いつの間にか、妻に恋をしていた。既に夫婦となっていたのに。
初めは、確かに財産目当ての政略結婚だった。しかし、ともに暮らしていくうちに、彼女の魅力に気付いたのだ。いつも優しく、穏やかに、確かな愛情を一心に向けてくれる妻。その想いに、私の心は満たされていた。
しかし、今更それを伝える術を持たない。
中身の無いアイシテルを何度伝えたのだろうか。中身の無い愛を、何度交わしたのだろう。そして、中身の無いアイを受けた妻を、何度嗤ったのだろう。
今更、本気の愛を伝えたところで、本当の意味で届かせることはできないだろう。
妻は、中身の無い愛を、本物だと信じているのだから。
「どうしたの? 元気が無いわ」
女の言葉に緩く笑い、疲れているだけ、と応えた。そうして、お前には関係ないのだと、心が嗤う。
「やっぱり、今日は帰ることにする」
薄暗い女の部屋は、殺風景なのにとても圧迫感を感じた。息苦しいくらいのその空間にいて、自分の屋敷の方がここよりもよほど圧迫感があったのに、いつの間にかそれを感じなくなっていた事を思い出す。考えてみると、それは彼女が嫁いで来てから。
「そう、また連絡を頂戴」
もう連絡はしない、と思いながら帰路についた。息子の顔をしばらく見ていない気がする。そうして、妻の穏やかな声を思い出す。
妻に触れたいと、強く思った。
帰宅した私を迎えたのは、慌しく動き回る使用人と、射殺すような目を向ける息子だった。
「お帰りなさい、父上」
12になる息子は、冷ややかな声で言い放ち、一枚の紙を寄越した。
二つ折りにされた紙の宛名には、妻の字で私の名が綴られていた。中身を見る前に息子へ視線を戻す。
「これは?」
「……」
息子は、涙を流していた。
「僕は、一生父上を許さない。母上が許していても、僕は絶対に許さない」
そういって、階段を駆け上がり、やがて乱暴に扉を閉める音がした。おそらく自室へ言ったのだろう。
「……」
許さない、と言った息子は、酷く興奮していた。何かあったのだろうか。そちらが気になり、手の中の紙の存在を一瞬忘れた。そして、息子の元へ行こうとしたとき。
「旦那様!!」
鋭く呼ばれた声に、階上を見上げる。
「どうした?」
蒼白な顔をした執事が、いつもの冷静さを欠いた慌てようで私のもとまで走り寄る。
「奥様が…」
執事は声を詰まらせた。全身を震わせ、瞳は今にも涙を流そうと潤んでいる。
「奥様が、自害なさいました」
一筋の雫が、執事の頬を伝った。
自殺は外聞が悪い。妻は階段から足を滑らせ頭を強打した、という理由をつけて、事故死となった。
葬儀が終わり、呆然としたまま夫婦の寝室を訪れた。ベッドの隅に腰掛け、葬儀の事を思い出す。
屋敷の使用人たちは皆悲しんだ。その様子を見て、妻が使用人たちに好かれていることをはじめて知った。息子も、彼女にとてもなついていた、と今更のように思い出す。
墓に入る前、眠るような妻の顔を見つめ、もう長いこと彼女の顔をまともに見ていなかったことに気付く。
その事実に今更だ、と自分を嗤った。
妻が私に当てた手紙を思い出す。
ベッドサイドに置かれたそれを手に取り、初めて目を通した。
クレッセ様
貴方の瞳が、私を映していないことを、私は初めから存じていました。
けれど、私はそれでもかまいません。ですから、家を立て直せるだけの持参金を持って、貴方に嫁ぎました。
息子は12になります。
まだまだ、親の愛情が必要な年齢かもしれません。それを投げ出す私は、きっと母親失格です。
ですが、家を立て直し、子をなし、血脈を繋げていくという貴方の妻としての役割は充分果たせたのではないかと思います。
私は、自分の心を開放したかったのだと思います。
私が、いくら商家でも多すぎるくらいの持参金と共に嫁いだわけを、少しでも知りたいと思って下さったことは無いでしょう?
迷惑をかけてすみません。
息子の成長を間近で見れないこと、愛情を注げないことが心残りです。
願わくは、貴方が息子へ本物の愛情を注いでくださるように。
最後に、私を妻としてくれて、ありがとうございました。
私は、幸せだったのだろうと思います。
遺書だった。彼女は、全てを知っていた。
そして、私の心を知らぬまま、死んでいった。
「…今更だ」
口に出して呟き、私は私を嗤った。
声が震え、胸が痛んだ。
だが、涙は流れなかった。