09.話しかけてみたら、ちょっと優しかった
朝の陽が窓辺を照らす頃、オリアナは身支度を整えながら、鏡の前で深く息を吐いた。
白から青へと移ろう淡いグラデーションのドレスは、誕生会で身にまとう予定の本番衣装と同じ色合いで仕立てられたものだ。
光を受けてやさしく揺れる裾は、夜明けの空を映したように透明で、見る者の心を穏やかにする。
本番用の正装よりも控えめに仕立てられてはいるが、素材も縫製も上質で、まるで空気に溶け込むような存在感があった。
胸元には、まだ何も飾られていない。
(これでいい。これで……)
サディアスの瞳の色に合わせた宝石。自分からそう言ったのだ。口から出た瞬間は、我ながら何を言っているのかと思った。
けれど、あのときのサディアスの表情を、オリアナは忘れられなかった。
わずかに揺れた彼の目。驚きとも、戸惑いとも取れるその一瞬の色。
(あれがもし、本当に……)
思いかけず、鼓動が早くなるのを感じて、オリアナはそっと胸に手を当てた。
けれどすぐに首を振る。そんな希望にすがっている暇はない。これは『物語』だ。オリアナは、その中で命を落としたのだ。
だが、誕生会が直接のきっかけになったわけではない。あれは、始まりの『前触れ』にすぎない。
ヘクターは鉱山で名を上げる。それがきっかけとなって王都に呼ばれ、やがて物語が本格的に動き出す。
今はまだ、ギリギリ踏み出していない。けれど、すでに足音は近づいている。
(私が怯えている間に、きっとすべてが進んでしまう……)
ここで何もできずにいれば、結末は同じだ。
だからこそ、自分の手で変えなければならない。サディアスの本心を、正面から見極めなければならない。
(このまま怯えて逃げていては、きっと……)
──彼に殺される。
オリアナはそっと手を握った。指先に力を込める。
(彼がなぜ私を……いいえ、なぜ、そうせざるを得なかったのか)
物語では、サディアスがなぜオリアナを殺したのか、理由ははっきりと描かれていなかった。
ただ、そうなったとだけ示されていたのだ。
けれど現実の彼は──冷たいようでいて、時折、戸惑いながらも歩み寄ろうとしているようにも見える。
『物語』のサディアスと、現実の彼は違うのだとしたら。
「……もう、怯えてばかりではいられないわ」
オリアナは鏡の中の自分に、小さくうなずいた。
何もせず、ただ『物語の通りに殺される』のを待つなんて、そんな人生は絶対に嫌だった。
(だったら、自分から確かめるしかない)
彼がどうして自分を殺したのか。
その裏に、どんな想いがあったのか。
『物語』の背後に隠された、誰にも語られなかった真実を、彼の口から聞き出さなければ。
「近づこう……サディアスに」
言葉にしてみると、思ったよりも心が静かだった。
恐怖が消えたわけではない。けれど、それ以上に知りたいと思った。彼という人の、本当の姿を。
「大丈夫。私は、変わったのだもの」
鏡の中の自分に向かって、そう言い聞かせた。
昼下がり、サディアスの執務室の扉に立ち、オリアナは深呼吸をした。
(大丈夫。聞きたいことがあるだけ。……それだけ)
そう自分に言い聞かせながら、扉をノックする。
「どうぞ」
中から聞こえた低く静かな声に、少しだけ心臓が跳ねた。
扉を開けると、サディアスは書類に目を通していた。顔を上げた彼と目が合う。けれどその表情は、いつも通り無表情のままだった。
「オリアナ姫。何か、ご用でしょうか」
問われて、オリアナは一瞬言葉に詰まる。
「い、いえ、その。……少しだけ、お話を……したくて」
視線を泳がせながら、なんとか言葉を紡ぐ。
サディアスの手が止まり、顔がわずかに傾いた。
「……話、ですか?」
「はい。あの……その……」
口を開いたはいいものの、何をどう切り出せばいいのかわからない。
だがここで逃げたら、また元に戻ってしまう。
「サディアスさまは……その、昔から剣が得意だったのですか?」
サディアスの目が瞬いた。
「……突然ですね」
「そ、その……この前、演習場で、剣を振っておられるのを、少しだけ……見てしまって……」
(ああ、言ってしまった! 見てたことを言うつもりはなかったのに……!)
けれどサディアスの反応は意外にも穏やかだった。
「そうですか。……お見苦しいところを」
「い、いえっ。とても……美しかった、です」
言った瞬間、自分でも驚くほど顔が熱くなる。
(な、なにを……!)
一方のサディアスは、硬直したように微動だにしなかった。瞳を見開いたまま、まばたきすらしていない。
「……う、美し……」
「あ、あのっ、違うのです! 美しいというのは剣技のことで!」
(たしかに顔も美しいけれど!)
オリアナが慌てて言い直すと、サディアスはようやく瞬きをし、視線を伏せた。
「……恐縮です」
(ど、どうしよう、これじゃただの不審者みたいじゃない!)
後悔と混乱で真っ赤になりながらも、オリアナは勇気を出して続けた。
「その……剣を始められたのは、いつごろなのですか?」
サディアスは少しだけ考えるようにしてから、静かに答えた。
「……七歳の頃です。兄が公爵位を継ぐことになっていたので、私は武の道に進もうと。……両親は、私に干渉しませんでしたので、好きにやらせてもらえました」
それは、ぽつりと落とされた小さな真実だった。
その言葉の奥に、孤独が滲んでいるように思えた。
この人は、家族に愛されてこなかったのではないか。
その寂しさと空白を、剣と魔術にすべて込めてきたのではないか。
『物語』には、そういった細かい部分など書かれていなかった。だが、彼の歩んできた軌跡は、確かにあるのだ。
「……だから、あんなに、強いのですね」
そっと呟いたオリアナの言葉に、サディアスはわずかに目を見開いた。
けれど彼は、何も言わなかった。ただ、どこか安心したようにほんの少しだけ口元を緩めると、目を伏せて静かに頭を下げた。
「……ありがとうございます」
まるで、礼を言うことにも慣れていないような、ぎこちない声音だった。
オリアナは、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
(こんなふうに、誰かに何かを語ることに慣れていない人が──本当に、私を殺したりするのだろうか?)
疑問が頭をよぎる。
けれど、まだだ。まだ、何もわからない。
オリアナはそっと目を伏せた。
「あの、サディアスさま。……また、お話に来てもいいですか?」
それは、自分でも驚くほど大胆な言葉だった。
だが、今なら言えると思った。少しだけでも、心が通った気がしたから。
すると、彼は再び顔を上げた。
「……ええ」
その短い返事にさえ、どこか温かみを感じたのは気のせいだろうか。
オリアナはそっと微笑んだ。
「ありがとうございます」
(……今のは、少しだけ、本当のサディアスに近づけたのかもしれない)
『物語』の中で知られている彼ではない、ひとりの人間としてのサディアスに──ほんの少し、触れられた気がした。