08.あなたの瞳の色の宝石がいいって言ったら……まずかったかしら?
淡い陽光が差し込む執務室には、紙の匂いとインクの香りが満ちていた。
オリアナは、サディアスの傍らで静かに腰かけ、手元の書状に目を落とす。王都から届けられたそれには、丁寧な筆致で一行が記されていた。
『ジュリアナ王女の誕生を祝し、盛大なる宴を執り行います』
内容を確認したあと、サディアスが目を伏せ、淡々と続ける。
「王命です。ファーレスト公爵夫妻として、出席するよう求められています」
まるで、天気の話をするかのように平坦な口調だった。
オリアナは心の奥がぴたりと凍るのを感じた。身体に冷たい緊張が走る。
(とうとう……始まるのかもしれない)
ヘクターは鉱山警備に就き、サディアスは剣を振るい始めた。演習場で見たあの氷の剣閃が、脳裏に蘇る。
あれは警告だったのではないか──そんな疑念を、完全には拭い去ることができないままだった。
(『物語』は、きっともうすぐ始まる……)
ヘクターが鉱山で発生した魔物を退治した功績によって、王都に招かれる。
そしてサディアスが反乱を起こし、ヘクターの前に悪役として立ちはだかるのだ。そのとき、すでにオリアナは……。
その運命の歯車が、今、静かに動き出そうとしている気がしてならなかった。
「……日程は?」
オリアナはその声を出すのに少し時間がかかった。
「一か月後です。準備を急がなければ……」
サディアスは淡々と答える。
「……わかりました」
返事をしながらも、心はすでに別のことを考えていた。
──星輝石。
オリアナの胸元で、無数の星々が煌めくような輝きを放つ宝石。サディアスから贈られた、大切な宝物だ。
だが、『物語』では、その星輝石が重要な役割を果たす。
『物語』のヒロインを聖女として覚醒させ、ヘクターを英雄へと導く石。その実際の力はよくわからないが、王妃も狙っているらしい。
何も知らなければ、オリアナは当然のようにそれを身に着けて誕生祭へ向かっただろう。だが、もしかしたらそれこそが、何かの引き金になっていたのではないか。
星輝石をつけていたせいで、狙われたのかもしれない。
(これを身に着けていくのは、避けたほうがいい)
そう心に決めたところで、ふいにサディアスが顔を上げた。
「……オリアナ姫」
その呼びかけに、オリアナは息をのんだ。彼が何かを言おうとするたび、どうしてこんなに心臓が痛むのだろう。
「誕生祭には、星輝石に合わせた新しいドレスを仕立てましょう」
「え……」
一瞬、返事ができなかった。
しかし、慌てて口を開く。
「……あの、星輝石は……今回は、控えようかと」
ほんの少しだけ、サディアスの眉が動いた。
悲しげな表情などではなかった。ただ、微かに表情の一部が動いたというだけ。
それなのに、オリアナの背中に冷たいものが走った。
(……機嫌を、損ねた?)
演習場でのサディアスの姿が脳裏をよぎる。
(違う。これは……殺される兆し……?)
胸が締めつけられる。慌てて、口に出たのはとっさの言い訳だった。
「……あ、あなたの瞳の色の宝石がいいですわ。あなたの瞳を思わせる……その、あ、青い石を使ったものが」
瞬間、サディアスの目が見開かれた。だが、それはほんの一瞬で、すぐに元の無表情に戻る。
「……わかりました」
それだけ言って、彼は再び視線を書類に落とした。
(……助かった?)
オリアナは、心の奥で肩を撫で下ろした。
けれど、それが本当に正しい選択だったのかは、まだわからなかった。
✧・━・✧
オリアナが去った後、サディアスは窓際に立ち尽くしたまま、動けずにいた。
(……あなたの瞳の色の宝石がいい、だなんて……)
その言葉が、頭の中で何度も反芻されていた。
冷静に返答したつもりだったのに、内心では嵐のような混乱が渦を巻いている。
(まるで──いや、そんなことは……)
公の場で、自分の瞳の色を身に着けたいなどと……それは、どう考えても好意の表れではないのか。
(けれど、私に気を使ってそう言っただけかもしれない……)
それとも、拒まれて機嫌を損ねたと思わせてはまずいと、とっさに取り繕ったのか。
あれは一時の反応だったのか、それとも本心だったのか──。
「……ううむ……わからない……」
頭を抱えるサディアスの背後で、静かに執務室の扉が開いた。
「旦那さま?」
ウォルターとジェーンが、やや心配そうな顔をのぞかせる。
「……何かありましたか?」
「ウォルター……私は……」
振り返ったサディアスは、真剣な面持ちで言った。
「オリアナ姫から、あのような言葉を……」
「言葉?」
「『あなたの瞳の色の宝石がいい』と……」
ウォルターとジェーンが、ぴたりと動きを止めた。
「それって……!」
ジェーンが目を丸くする。
「それ、愛の告白じゃないですか!?」
「い、いや……」
サディアスが慌てて否定する。
「それはたまたま私が機嫌を損ねたと思って、気を使ってくださっただけかもしれない……」
「気を使ってる人が、そんなロマンチックなこと言います?」
「そもそも、旦那さまの瞳の色を引き合いに出す時点で、それなりの感情がなければ出てこない発言です」
ウォルターが珍しく力説する。
「おそらくは、奥さまなりの精一杯の好意表現でしょう。奥さまが歩み寄ろうとしてくれているのですよ」
「それは……」
サディアスは頭を抱えた。
「私は……どうすれば……」
「それはもちろん、旦那さまの瞳の色の宝石をお贈りになればよろしいのです。そして、愛の言葉の一つも囁いて……」
「無理だ! そんな恐ろしいことを……!」
サディアスは大声で叫んだ。
「そんなことをして、もし間違えていたらどうする!? 私は……私は……!」
「旦那さま。『過ちを恐れるより、何もしないことを恐れろ』ですよ」
「ああ、その通りだが! だがしかし!」
混乱のあまり頭を抱えたサディアスは、そのまま執務室の床に崩れ落ちた。
「ああ、私はどうすれば……!」
「旦那さま! 落ち着いてください!」
ウォルターとジェーンは顔を見合わせ、ため息をついた。