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05.手を繋いだ翌日、夫がいきなり『お茶でも』って何のつもりですか

 執務室に戻るなり、サディアスは机に突っ伏した。


「……オリアナ姫と、手を繋いでしまいました……」


 側に控えていた執事ウォルターが、眉をわずかにひそめた。


「……それの何が問題なのでしょうか?」


「いや、それは……」


「旦那さま、奥さまと手を繋ぐなど、ごく普通のことでございますが?」


「しかし、突然だったのです。オリアナ姫は驚かれたに違いありません」


 サディアスは深いため息をつき、額を押さえた。


「オリアナ姫の手が冷たくなっていたので……思わず」


「それは素晴らしい気遣いでございます」


「しかし、私などが触れて、不快な思いをさせたかもしれません……」


「……?」


 ウォルターが怪訝そうな顔をする。

 その奥で、侍女のジェーンが小声で呟いた。


「……不快だったら、手を振り払われていたのでは?」


「なにか?」


「いえ、何も」


 ウォルターが低く咳払いをし、再びサディアスに向き直る。


「旦那さま、そもそも奥さまが嫌がっていらっしゃるようには見えませんでしたが?」


「……本当に?」


「もちろんでございます」


 サディアスは机から顔を上げる。だが、すぐにまた眉をひそめた。


「だとしても……オリアナ姫は戸惑われていた。やはり私は……」


「旦那さま」


 ジェーンがじっとりとした目で見つめながら口を開いた。


「いい加減にしてください」


「……」


「奥さまと手を繋ぐことくらい、世間一般のご夫婦なら当たり前です! それどころか、何かしらの愛情表現をするものです!」


「……私と、オリアナ姫が……愛情表現……?」


 サディアスは一瞬想像しかけたが、顔に熱が集まるのを感じて、机に再び突っ伏した。


「……不可能だ……」


「なにが不可能なのでしょう?」


「オリアナ姫は、私を嫌っています」


「……はあぁ」


 ジェーンは大げさにため息をついた。


「旦那さまが奥さまに何も伝えていないのだから、伝わるわけがないでしょう! そもそも、奥さまは旦那さまを嫌っているようには見えません!」


「私には、そうは思えません……」


「そう思いたいだけでは?」


「……」


 サディアスが沈黙すると、ウォルターがすかさず言った。


「旦那さま、そろそろ自覚なさった方がよろしいかと」


「何を?」


「奥さまは、旦那さまを嫌ってなどおりません。ただ、あまりにも不愛想なので、戸惑っていらっしゃるだけです」


「……」


「先日、奥さまが使用人たちを叱責なさいました」


「……え?」


 サディアスの顔がわずかに動いた。

 ジェーンが続ける。


「使用人たちが陰口を叩いていたのです。奥様のことを『ただのお飾り』だとか、旦那さまのことも……『セドリックさまが公爵であれば』などと」


 サディアスの表情が一瞬、冷えた。


「……またか」


 兄を崇拝し、自分を無能と見下す者がまだ屋敷にいることは知っていたが、それがオリアナまで巻き込むとは──


「ですが、奥さまは毅然とした態度で彼女たちを戒めました」


「……オリアナ姫が?」


「はい。見事なものでしたよ。私も止めに入ろうかと思いましたが、必要がありませんでした」


 ジェーンは笑みを浮かべた。


「奥様は静かに、しかしはっきりとおっしゃいました。『サディアスさまを侮辱することは許しませんよ』と」


 その言葉に、サディアスの目がわずかに見開かれた。


「オリアナ姫は……私を、庇ったのですか?」


「ええ、とても堂々と。まるで、公爵夫人としての矜持を示すかのように」


「……」


 サディアスは言葉を失った。

 彼女は、公爵家に嫁いできたとはいえ、王家の人間だ。

 サディアスを庇う理由など、ないはずだ。


(……オリアナ姫は、噂とは違う)


 気弱で、おどおどしていて、ただ従順に命じられるままの姫君。

 それが彼女の評判だった。


(……いや、もしかしたら、本来の彼女は……)


 ──ふと、遠い記憶が蘇る。


 幼い頃、王城の庭園。

 公爵家の醜い次男として、蔑まれ、嘲笑われていた自分。

 ジュリアナ王女に罵られ、他の子供たちに笑われたあの日。

 ただ一人、オリアナ姫だけは、そんな自分を蔑まなかった。

 あの日、怪我をしてうずくまっていた自分に、オリアナ姫はそっと手を差し出した。


『痛いの? 大丈夫?』


 優しく、小さな手だった。

 その手を取った瞬間──確かに、何かが変わった。

 その夜、高熱を出し、数日間寝込んだ。

 そして、目を覚ましたときには、奇跡のように病の苦しみが消えていた。


(あれは……偶然だったのか?)


 その後、領地に戻ることになったため、オリアナ姫とはそれ以来会うことはなかった。

 おそらくオリアナ姫も覚えていないだろう。

 けれど、あの瞬間に感じたあたたかさと幸福感は、今も胸の奥に残っている。

 オリアナ姫と過ごしたわずかな記憶が、サディアスの胸を甘く締め付ける。


(オリアナ姫が、私を庇った……)


 サディアスは改めて考え込んだ。

 彼女は、自分が思っているほどか弱くも従順な姫君でもないのかもしれない。


(私は、彼女のことを何も知らなかったのだな)


 サディアスは小さく息をついた。


「ウォルター、ジェーン」


 二人の視線が向けられる。


「オリアナ姫のことなのですが……」


 そこまで言って、サディアスは言葉を詰まらせた。


「……どう言えばいいのかわかりませんが……もう少し、彼女のことを知りたいと」


「それをそのまま伝えればいいのですよ」


 ウォルターは穏やかに言った。


「旦那さまから歩み寄りましょう」


「……はい」


 小さくうなずくと、サディアスは窓の外を見つめた。



✧・━・✧



 翌日、騎士団は鉱山へと旅立ち、再び屋敷は静かになっていた。

 ヘクターと話す機会はあれ以来なく、彼の真意は謎のままだ。

 オリアナは、自室の窓辺でぼんやりと外を眺めていた。

 庭園でのサディアスの温かい手の感触を思い出す。


「……」


 オリアナは、自分の手をじっと見つめた。

 彼の手の温もりが、今もまだ残っているような気がする。


「そういえば……」


 ふと、幼い頃の記憶を思い出す。

 王宮で子どもたちが集まったとき、自分もこっそり庭園に忍び込んだのだ。

 そこで、一人でうずくまっていた男の子に声をかけたような気がする。

 怪我をしているのに、他の子たちはその子が太っていて醜い、愚図だなどと、馬鹿にしてからかった。

 彼は泣きそうな顔をしていたのに、一言も文句を言わなかった。

 その姿が悲しかったから、オリアナは彼の手を取ったのだった。


「あれは……誰だったのかしら……」


 ぼんやりと呟く。

 その後、彼の姿を見ることはなかった。

 オリアナも、たびたび庭園に忍び込んでいることが問題視されて、出入りを制限されてしまったため、あの男の子のことはそれっきりだ。

 彼の名前すら知らない。


「もしかしたら……」


 記憶の中でぼんやりとしていた少年が、サディアスの顔と重なる。

 だが、すぐにオリアナはその考えを打ち消した。

 彼の印象とサディアスは、まったく異なる。髪の色も、サディアスは美しい白銀だが、その子は艶のない白色だったはずだ。

 どうして、一瞬でもサディアスと彼を同一人物だなんて思ってしまったのだろう。


「でも……あの手の感触は……」


 オリアナは小さく呟き、自分の手のひらを見つめた。


「いえ……きっと気のせいね」


 小さく頭を振ると、オリアナは再び窓の外に目を向けた。

 けれど、再び視線を外へ向けても、風に揺れる木々の影がゆらゆらと揺れるばかりで、心は少しも落ち着かなかった。


(サディアスは……一体、何を考えているのかしら)


 優しい手の温もり。

 あれは気遣いだったのか、それとも、何か別の意図があったのか。


(やっぱり……私を監視している?)


 そう考えると、納得がいくことも多かった。

 この婚姻は、王家が公爵家の鉱山利権に食い込むためのもの。

 サディアスからすれば、自分は王家の人間であり、信頼などできない存在のはず。


(だから、優しく接していたのではなく……疑っているのね)


 自分が王妃と通じているのではないかと。

 実際、『物語』でも、オリアナは王妃の手先のように見なされていた。

 それが、彼が妻を手にかけた理由のひとつだったとも……。


(本当の理由は、まだわからないけれど)


 けれど、その悲劇を引き起こすわけにはいかない。

 自分の手で真実を突き止めなければならない。


「──奥さま。旦那さまより、お茶のお誘いです」


 ノックの音とともに、侍女の声が聞こえた。

 オリアナは驚いて振り返る。


「……お茶、ですか?」


「はい。『お身体の調子はいかがかと案じております』とのことで」


(どういうつもり?)


 突然の誘いに、胸がざわつく。

 あのサディアスが、自らお茶の席を設けるなど、どういうことだろうか。


(……何か、探られるのかもしれない)


 不安が胸をよぎるが、断る理由もない。

 何より、自分も彼の本心を知りたいと思っていた。


「わかりました。伺います」


 そっと立ち上がり、身支度を整える。

 心の奥に微かな警戒を抱いたまま、オリアナはサディアスの待つ部屋へと向かった。

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