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私の夫は妻を殺す悪役公爵──その未来、絶対に阻止します!  作者: 葵 すみれ


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41.『私の夫は妻を殺す悪役公爵』──その物語に、さようなら(完)

 王宮を去る朝は、嘘のように晴れていた。

 澄みきった空に、軽やかな雲が浮かんでいる。けれど、オリアナの足が向かったのは、陽射しの届かぬ静かな一角だった。


 王宮の裏手──かつて王女として過ごしていた頃、ただひとりで通っていた小さな庭園。

 色褪せたベンチ、手入れの行き届かない花壇、そしてかすかに残る薬草の香り。

 誰にも顧みられなかったその場所だけが、子どもだったオリアナの心を慰めてくれていた。

 石畳の先に立ち、彼女はそっと目を閉じる。


 ──あの頃の私は、言いなりの人形でしかなかった。


 認められず、愛されず、ただ名ばかりの王女としてそこにいた。

 けれど今は違う。

 自分の足で歩いた。

 怯えていた未来を、選び直した。


 薬草の植えられていた場所に、そっと膝をつく。枯れかけた葉を一枚摘んで指の間に挟むと、ほんのわずかに香りが立ち上った。


 (……もう、過去には戻らない)


 そのとき、足音が聞こえた。

 オリアナが振り返ると、そこにいたのはヘクターだった。

 彼は歩み寄ると、少し照れくさそうに口を開く。


「……王宮の中をこうして歩くのは、まだ慣れないな」


「ええ……あなたがここにいることが、不思議なようで、でも自然に感じるわ」


「……姉さん」


 その呼びかけに、オリアナは一瞬、瞳を揺らした。

 けれどすぐに、やわらかく微笑む。


「姉さんなんて、少しくすぐったいけれど……悪くない響きね」


「……ライラのことなんだけど」


 ふいに、ヘクターがつぶやいた。

 その目は、過ぎ去った日々のどこかを見つめるように揺れていた。


「最後まで……どうしても、見捨てきれなかったんだ。あの子を、救えるかもしれないって……」


 オリアナはそっと目を伏せ、うなずく。


「彼女は……歪んでしまったけれど、それでも、誰かを愛したかったのだと思う。あなたに、救われたかった」


「……そう、だといい」


 しばらく、二人の間に風の音だけが通り過ぎた。

 やがて、オリアナが微笑む。


「また会いましょう。次は、もう少しだけ……姉弟らしく振る舞えるようになりたいわね」


 ヘクターは目を細め、わずかに笑った。

 そして手を差し出す。

 オリアナも迷わず、その手を取った。


 ──私はもう、『妾腹の王女』ではない。


 今の自分は、『オリアナ・ファーレスト』。 

 自らの意志で、この道を選び取った一人の人間。

 そんな確信が、足元を支える土の温かさと共に、心に深く根を下ろしていた。




 夕暮れが近づくころ、ファーレスト領主館には、久方ぶりに穏やかな空気が流れていた。

 書斎の扉が控えめにノックされたあと、侍女ジェーンが盆を持って静かに入ってくる。


「奥さま、お茶の準備が整っております。夕涼みにはぴったりのブレンドを選びました」


 その後に続いた執事ウォルターも、落ち着いた所作で小さな台にカップを並べる。


「庭の藤棚も花が咲き始めております。少し風が出てまいりましたので、窓を開けすぎぬようご注意を」


「ありがとう、ジェーン、ウォルター」


 オリアナはやわらかく微笑みながら頷く。二人は軽く礼をして部屋をあとにした。

 扉が閉まる音が微かに響き、再び静寂が戻る。


 どこまでも平穏なやりとり。

 それは、血や涙に染まった日々を超えた先にようやく取り戻した、何より大切な日常だった。


 屋敷にある書斎には、淡い橙の光が差し込んでいた。

 窓の外には、広がる庭園と、柔らかい花の香り。戦も陰謀も過去の傷も、ここではただ風に溶けていく。


 オリアナはその窓辺に立ち、柔らかなカーテンを指でつまみながら、穏やかな風を受け止めていた。

 まだ夏の余韻が残る空気の中に、少しだけ秋の気配が混じっている。


 背後では、書類を閉じる微かな音がした。

 振り返ると、サディアスが静かに立ち上がり、彼女のもとへ歩み寄ってくるところだった。


「……静かですね」


 そう言うと、彼は「はい」と短く答え、隣に並んで外を眺めた。


「すべてが終わった、という実感が、やっと湧いてきました」


「……ええ。私もです」


 けれど、オリアナの胸には、まだ伝えていない想いがひとつだけ残っていた。

 あの時、彼が倒れ、命が尽きかけた瞬間──。

 その想いが、どれほど切実なものだったのかを、思い知らされたのだ。


「サディアス」


 彼が振り向く。オリアナは視線を伏せ、けれど迷いなく言葉を継いだ。


「……サディアス。あなたが倒れたとき……私は、とても後悔しました」


「……」


「命を狙われている間、私に何かあったら、それがあなたの負担になると思って。だから、すべてが終わったら伝えようと、決めていたのに」


 目を上げると、彼はじっとオリアナを見つめていた。

 その視線に一瞬、怯えそうになる。

 けれど、もう迷わない。

 言葉にする。それが、自分の選んだ未来だから。


「……好きです。サディアス。私は、あなたを愛しています」


 その瞬間、彼の表情が固まった。

 言葉にならない驚きが、確かに瞳の奥にあった。


「……サディアス?」


 戸惑いを込めて呼ぶと、ようやく彼はわずかに唇を動かした。


「……まさか、あなたも……私のことを、そう想ってくださっているなんて……」


 まるで、信じられないものを目の前にしたかのように、低くかすれた声で告げる。

 オリアナは思わず、ふっと笑ってしまった。


「あなたは、私に『好きだ』と仰ってくださったのに……私がそうだとは、思わなかったのですか?」


「いえ……私は……あなたが、遠いところにいるようで……」


 彼の言葉は、どこか不器用で、けれどあまりにも誠実だった。


「昔から、ずっと、あなたを想っていました。けれど……いざ夫婦となっても、どう接していいのか分からなくて……」


 オリアナは静かに彼の手を取った。

 細い指が、彼の掌を包み込むように重なる。


「なら、これからは──ふたりで学びましょう。どうすれば、夫婦として歩いていけるのかを」


「……はい」


 その声に、もう迷いはなかった。

 心から繋がった瞬間が、確かにそこにあった。

 しばらくして、オリアナはそっと口を開く。


「……私、ずっと『物語』に囚われていました」


 サディアスが横顔で彼女を見つめる。


「あなたが私を殺すと、思い込んでいた。悪役の公爵。私の敵。物語にそう書かれていたから。だから……それ以外のあなたを見るのが、怖かったんです」


 声が震えるのを、自分で抑えきれなかった。


「でも、あなたは違った。あなたは、私を守ってくれた。信じてくれた。だから私も……物語から抜け出す勇気を持てました」


 そして、笑う。

 涙ではなく、ただ、まっすぐに。


「……『私の夫は妻を殺す悪役公爵──その未来、絶対に阻止します!』」


 冗談めかして口にしたその言葉は、かつて怯えた未来ではなく、もう必要のない決意だった。


「……阻止できましたか?」


 サディアスが小さく笑う。

 声は低く、けれどどこまでも優しい。

 オリアナは頷く。


「ええ。もう、どこにもあの未来はありません。私たちが選び直したんですもの。ふたりで、違う結末を」


 サディアスが、そっとオリアナの頬に触れた。

 その手のひらは、これまで何度も剣を握り締めてきた硬さを持ちながらも、今はただ、優しさと温もりだけを宿していた。


「……これからも、違う物語を紡いでいけますか?」


 低く、けれど揺るぎない声音で、サディアスが問いかける。


「あなたとなら、どんな未来も──乗り越えられる気がします」


 オリアナは、彼の瞳をまっすぐに見つめ返す。

 そこに映っているのは、かつて恐れていた『悪役の公爵』ではなかった。

 ただ、自分を愛してくれる、たったひとりの夫の姿だった。


「紡ぎましょう」


 柔らかな笑みを浮かべて、オリアナは静かに答えた。


「これからも、ずっと。あなたとなら……きっと、大丈夫です」


 サディアスの瞳が細められる。

 そして、どちらからともなく、ふたりはゆっくりと顔を寄せ合う。


 ほんの一瞬、ためらうように呼吸が重なり──そのまま、唇が触れた。

 淡く、けれど深く、確かに交わる口づけだった。


 それは言葉よりも多くを語る、未来への約束。

 かつて『物語』の呪縛に囚われていたふたりが、ようやくそこから解き放たれ、ただひとつの真実として結ばれた瞬間だった。


 窓の外、風がそっと花を揺らす音が、静かに世界を包み込んだ。


 それは、恐れと疑いで始まった物語の終わり。

 そして、ふたりがようやく辿り着いた──本当の愛の物語の、始まりだった。

これにて完結です。

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