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私の夫は妻を殺す悪役公爵──その未来、絶対に阻止します!  作者: 葵 すみれ


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39.願いが届くとき、闇は祈りに溶けていく

 王宮の奥、かつて神殿の祭壇として使われていた地下礼拝室。

 灯りはない。けれど、空気にはぬるりとした邪気が漂っていた。


 その中心に、ライラがいた。

 血に濡れた白衣はぼろぼろに裂け、乱れた髪が頬に張り付いている。

 けれど、その瞳だけは狂気に濁った光を放ち、彼女の中の“欲望”だけが鮮明だった。


「来たのね、オリアナ……!」


 声は、かつてのように丁寧で穏やかだった。けれど、底にある何かはまるで違っていた。


「これで、終わりよ。あなたから星輝石を受け取って……今度こそ、私が聖女になるの」


 言葉の刹那、足元から魔力の触手がのたうち伸びる。

 まるで闇そのものが意思を持っているかのように、オリアナに絡みついた。

 抵抗する暇もなく、胸元の星輝石が──もぎ取られた。


「……返して……!」


 オリアナが叫ぶより早く、ライラは星輝石を両手で抱きしめ、呪文のような言葉を唱え始めた。


「聖女の力……目覚めよ……! 私は、あなたたちとは違うの。私こそが、この国に選ばれた存在なんだから……!」


 ──しかし、何も起きなかった。

 星輝石は、光ることもなく沈黙を保っている。


「……え?」


 ライラの笑みが凍りつく。


「……ちょっと……どうしてよ……! もう一度……!」


 何度も唱える。願う。命じる。

 それでも、星輝石はまったく反応しなかった。


「どうして……なんで……私が願っているのに……!」


 その瞬間、オリアナの胸の内に、鮮やかに蘇る記憶があった。


 ──サディアスが倒れ、血に染まったあの時。


 彼の命が、目の前から消えようとしていたそのとき。

 星輝石は、光を放った。

 祈りに呼応するように、彼女の命を燃やすように──。


 あの瞬間、オリアナは知ったのだ。


(星輝石は、『誰かのために強く願う』ことで、初めてその力を目覚めさせる──)


 そして、自分が抱いた願いはただ一つ。

 サディアスを、生かしたい。

 その人が、再び笑えるように。彼の命が、今度こそ報われるように。

 それだけを、ただ心の底から願った。


 だからこそ、あの力は目覚めたのだ。


「……ライラ」


 立ち上がったオリアナは、星輝石を握る彼女に向かって、まっすぐに言った。


「あなたの願いは、『自分のため』のもの。誰かを救いたいと願ったことは、あったの……?」


 ライラの肩がぴくりと震えた。


「……ちがう……!」


「その石は、選ばれた人に力を与えるのではありません。誰かを想い、誰かを守りたいと、心から願ったとき……はじめて、その力を貸してくれるのです」


「違うっ……そんなはず……!」


 否定する声が、悲鳴のように変わる。


「私は……聖女になるはずだったのに……! 『物語』では、そうだった……! だから、星輝石を手に入れて……!」


 その言葉が、最後の引き金だった。

 ライラの背後から噴き出した闇の瘴気が、彼女を包み込む。

 腕が裂け、血が噴き出す。黒い鱗のようなものが皮膚を侵食し、髪が触手のように蠢く。


「やめて……やめてよぉ……! 私は……選ばれたんだから……!」


 叫びと共に、ライラの肉体は崩れ──異形の魔物へと姿を変えていった。

 歪んだ翼。爛れた皮膚。輝くはずの瞳には、もはや正気の色はなかった。

 サディアスが、すかさずオリアナのもとに駆け寄る。


「下がって! オリアナ、あれはもう……人ではない」


「……でも、あの中に……ライラはまだ、いるはずです……!」


 彼女の手から零れ落ちた星輝石が、オリアナの足下まで転がってくる。

 オリアナは慌てて星輝石を拾い上げた。


 すると、異形と化したライラの咆哮が、礼拝堂の天蓋を震わせる。

 その目だけは、まだ確かに何かを求めていた。


 魔物となったライラが、巨躯を振りかぶる。

 黒い爪が、空気を裂くように振り下ろされるその瞬間、鋼の刃がその爪を受け止めた。


「ライラ!」


 ヘクターだった。

 剣を両手に構え、全身で衝撃を受け止める。

 ぐらりと体勢を崩すが、歯を食いしばって踏みとどまった。


「お前が聖女にならなくても──俺は、お前を救いたかったんだ!」


 その叫びは、怒りではなかった。悲しみでもない。

 それは、ライラという少女に向けた、最後の真心だった。


 オリアナの手のひらで、星輝石が淡く光る。


(届く……この願いなら……)


 彼の声に応えるように、祈りの力が石から溢れ出していく。

 輝きは空気を震わせ、魔物の身を包み込んでいく。


 その瞬間──オリアナの意識は、急速に何かに引き込まれていった。

 ヘクターと共に願ったその心が、オリアナを精神の深層へと導いていく。

 


✧・━・✧



 そこは、色褪せた庭園だった。

 朽ちた噴水、枯れた草花。空は灰色に曇り、時の止まったような風景の中に、ひとりの少女が立っていた。


 ──ライラ。

 まだ清らかで、聖女を夢見ていた頃の彼女。


 だが、その瞳は虚ろで、まるで自分自身を失ったようだった。


 足元には、黒い鎖が絡みついていた。

 彼女の動きを封じるように、重く、深く。


 ──それは、嘘の期待、ねじれた欲望、誰かになりたかった苦しみ。

 今のライラを縛りつけた、幾重もの闇。


「……ライラ!」


 遠くから声が響く。

 オリアナの声。そして、ヘクターの声も重なって届いてくる。


「聞こえるなら──戻ってきて」


「お前は、こんなふうに誰かを傷つける子じゃなかった……!」


 その声に、ライラのまつげが揺れる。

 目に、ほんのわずかに光が差し込む。


「……わたし……」


 絞り出すような声が響く。


「ずっと、ここで……誰にも気づいてもらえなかった……」


 虚ろな目に正気が戻っていく。


「でも……いま、あなたたちの声が……届いたの……」


 足元の鎖がひとつ、音を立ててほどける。


「ごめんなさい。たくさん間違えた。でも、今なら……」


 そして──その背後に、現れた。


 巨大な影。

 闇と憎しみが凝り固まり、今の『化け物ライラ』そのものが実体化している。


 まるで自分自身の過去が、巨大な亡霊となって彼女の前に立ちはだかっていた。


「私が……やらなくちゃいけないのね」


 ライラは静かに歩み出す。


「ヘクター、オリアナ……ありがとう。あなたたちが、ここまで導いてくれた。だから……これは、私が終わらせる」


 彼女の姿が、ふわりと光に包まれる。

 閉じ込められていた『本来のライラ』の祈りが、静かに満ちていく。


 そして、彼女は振り返り、微笑んだ。


「……さよなら。あなたたちの未来が、幸せでありますように」


 その言葉と共に、彼女は影へと飛び込んだ。



✧・━・✧



 現実の礼拝堂。


 化け物の咆哮が、最後に響く。

 そして次の瞬間──その身体が音もなく崩れ落ちる。


 黒い鱗は塵となり、爛れた肌は煙のように消えた。

 残されたのは──元の少女の姿だった。


「……ライラ……!」


 ヘクターが駆け寄り、倒れた彼女を抱き上げる。

 目を閉じたまま、彼女は微かに微笑んでいた。

 すでに命の灯は、風前の灯だった。


 オリアナがそっと星輝石をかざす。

 祈るように、光を注ぎ続ける。

 だが、奇跡はもう起きなかった。


 それでも──その表情に、苦しみはなかった。


 ライラは、最後に取り戻した。

 本当の『自分』を。


「……もう、苦しまなくていい」


 ヘクターが静かに呟き、その瞼にそっと手を添えた。


 闇を越えて、たどり着いた祈りの終着点。

 彼女は、ようやく安らかな眠りについたのだった。

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