31.筋書きがあるなら、書き換えるまで──これが私たちの反撃
陽が傾き始めた書斎に、茶の香がふわりと広がっていた。
窓際のレースカーテンが風に揺れ、薄金色の光を机の上に落としている。
サディアスは書類の束に目を通していたが、区切りをつけるようにペンを置き、向かいのティーカップに視線を移した。
オリアナが、その湯気の立つ器にそっと口をつけている。
深く濃い香りの紅茶は、この屋敷に来てから彼女のお気に入りとなった銘柄だった。
静けさが心地よい午後──。
けれど、その奥にはわずかな緊張が張り詰めていた。
(……ヘクターは、もう王都に着いた頃かしら)
そう考えただけで、胸の奥がふっと冷える。
今はこうして、落ち着いた日常が続いている。
けれどそれが『かりそめの平穏』でしかないことを、オリアナは理解していた。
ライラの影は、まだ消えていない。
王妃の手が、いつ、どこから伸びてくるかはわからない。
それでもできる限り、こうして穏やかな時を大切にしたかった。
──その静けさを破ったのは、サディアスの低く落ち着いた声だった。
「……明日は、あなたの誕生日ですね」
カップを持ち上げようとしていた手が、ふと止まる。
「……え?」
オリアナは一瞬、何のことか理解できなかった。
けれど、次の瞬間に思い出す。
(……そう、だったわ。明日……)
誕生日。
思い出さなくなったのは、いつからだろう。
誰も祝ってくれない日。誰にも気づかれない日。
ジュリアナのように盛大な宴が開かれることはなく、ただ一人、何でもない日のように過ごすだけだった。
「……ご存じだったのですね」
カップを持ち直しながらそう言うと、サディアスは少しだけ首を傾げて答える。
「記録を調べました。……あなたのことを、知りたかったので」
その静かな言葉に、オリアナの胸がじんわりと温かくなる。
「……嬉しいですわ。ありがとうございます」
そう言うと、サディアスはわずかに目を伏せる。
どこか照れているような、言葉の続きを探しているような沈黙だった。
けれど、オリアナの心には、別の記憶が浮かんでいた。
──『予知』と称してライラが囁いたあの言葉。
『誕生祭のあと……まだはっきりした日はわかりませんが、公爵さまが用意したワインに毒が仕込まれます。それを口にして、あなたは──』
ぞくり、と背筋に冷たいものが走る。
「……サディアス。もしかして、明日のために……ワインなど、ご用意なさっていたりしますか?」
ほんの少しだけ、声が揺れた。
けれど、サディアスは驚いたように目を見開いたあと、すぐに表情を戻して頷く。
「……ええ。あなたに合いそうなものを選びました。数日前に手配しています」
「……やっぱり」
息を吐くように呟いたオリアナに、サディアスが目を細める。
「なにか……心当たりが?」
「あります。王妃が、そのワインに毒を仕込むつもりです。……『物語』では、あなたが私を殺すとされていました。でも、本当は違った。あの毒は、王妃が盛ったもの。あなたは、罪を着せられただけだったのです」
サディアスは静かに頷いた。
それ以上は何も言わなかったが、その沈黙が答えだった。
彼は、信じてくれている。
この世界に潜む『物語の呪い』を。
そして、それを破るためにオリアナが戦おうとしていることも。
「……対応しておきます。ワインは差し替えましょう。給仕にも、信頼のおける者だけを」
言葉少なでも、その声には確かな力があった。
彼がオリアナを信じてくれていることが、痛いほど伝わってくる。
不安が、少しずつ溶けていく。
それは、きっと信じられる相手がいるというだけで、こんなにも心強いものなのだ。
オリアナは静かに、紅茶に口をつけた。
あたたかさが、喉を通って胸の奥へと落ちていく。
そしてそっと、自分の心にも言い聞かせた。
(筋書きをなぞるつもりなら──その先を、私が書き換えてみせる)
夜の帳が下り、静寂に包まれた公爵邸に、灯のともる小さな広間が用意された。
普段は使われない私的な食堂──けれど今夜は、食器も花も一つひとつ丁寧に選ばれていた。
控えているのは執事ウォルターと侍女ジェーン、それに料理の給仕係が二名。
サディアスは、ワインの封を解きながら静かに言う。
「この銘柄は、あなたのために選びました」
「ええ、ありがとうございます」
オリアナはグラスを受け取り、控えめに笑った。
差し替えられたそれは、間違いなく無毒のもの──だが今夜、必要なのは味や香りではない。
(誰かが見ている)
控えの一人。目線、立ち位置、姿勢。そのすべてが『普通』すぎる。
けれど、そこに滲む違和感。
たった一つ、意図の漏れがあるだけで、全体は静かに歪む。
(あれが、運び屋……でしょうね)
王妃、あるいはライラが仕込んだ目撃者。
毒が仕込まれていたかどうかではなく、『飲んで倒れた』かどうかを報告するための者だ。
だからこそ、倒れる必要があった。
「それと……誕生日の贈り物です」
サディアスが取り出したのは、細長い木箱だった。
中には、薄金の細工を施された髪留めが収められていた。
氷の結晶を模したかすかな装飾が、彼の瞳の色に似た淡い光を宿している。
「……素敵ですわ。こんなふうに贈り物をもらったの、はじめてです」
それは真実だった。
胸にじんわりとしたぬくもりが広がっていく。
「……似合うと思いました」
不器用な一言。けれど、それがとても愛しかった。
オリアナはグラスを持ち上げ、淡い琥珀の液体に目を落とす。
「……では、乾杯を。静かな一年に」
サディアスが軽くうなずき、ふたりはグラスを合わせた。
音が、澄んだ鈴のように小さく響く。
そして──。
「……っ」
口元に運んだ直後、オリアナは眉をひそめ、喉に手を当てた。
「奥さま……!?」
すぐにウォルターが反応し、ジェーンが布を手に駆け寄ろうとする。
だが、サディアスが手で制する。
「部屋に、運びましょう。医師を。……騒がず、速やかに」
「はっ……!」
オリアナは椅子にぐったりと身を預けた。
まぶたの隙間から、視線がひとつだけ自分を見ていたことを確かめる。
その顔に浮かぶ、わずかな『ほくそ笑み』のようなもの。
(見届けたわね。なら、広めてくれる)
毒が仕込まれていた──そして、公爵夫人は倒れた。
そう噂が立てば、王妃も、ライラも、『物語通り』が進んでいると信じる。
だが、それこそが──こちらの仕掛け。
(同じ筋書きで来るなら、先回りするまで)
視界の端で、サディアスがそっと彼女を抱き上げた。
驚くほど優しく、揺れもない。
「……ありがとう、サディアス」
かすかな囁きに、彼の腕の力がほんの少しだけ強まる。
✧・━・✧
「まったく……隠し持っていたなんて、いい度胸ね」
王妃は扇で口元を覆いながら、吐き捨てるように言った。
「星輝石を、あの娘が手元に置いていたなんて。報告がなければ、気づかないところだったわ」
その声には、確かな苛立ちが滲んでいた。
あれだけ献上を求めたのに、なお隠し通していたとは不敬も甚だしいといったところだろう。
「……でも、あなたのおかげで知ることができた。あの鉱山の石が、あの娘に渡っていたなんてね」
王妃は冷たい笑みを浮かべ、ライラの方を見やる。
「王家のものとは言わないけれど……あれは『王家の事業』で得られた成果。そう言えば、誰も逆らえないでしょう?」
ライラは無言のまま、静かに頷いた。
「だからこそ、あの娘から取り上げるのに、正当な理由が必要だったの。……彼女が死ねば、すべてが片付く。あとは、『誰がやったか』という筋書きだけ」
王妃は一つ、息を吐くように笑う。
「公爵が王女の命を狙ったと広まれば、あの家の評判も地に落ちる。彼女に寄せられていた哀れみや同情なんて、所詮はまやかし。そう信じさせればいいのよ」
その視線には、冷酷な計算しかなかった。
「……あなたの『予言』は、本当に役に立つわ。今後も期待しているわよ、ライラ」
その言葉に、ライラはうっすらと微笑むだけだった。
王妃は、何の疑いもなくライラを信じていた。
自分の意志で仕掛けたつもりでいながら、すでに誰かの手のひらの上にいるとも知らずに。
──そして、その夜が明ける頃。
王都の社交界の片隅で、誰かがぽつりと口を開いた。
「ご存じ? ファーレスト公爵の奥方が、晩餐の最中に……」
「えっ、まさか毒……?」
「本当かどうかは知らないけれど、突然倒れたって。医師も呼ばれて、いまだに意識が戻ってないとか」
「ファーレスト公爵が、妻に毒を?」
「王家への挑発ではなくて?」
「いや、愛人か何かがいるという噂も──」
「まさか……あの冷たい公爵が?」
「でも、公爵夫人って、王女さまですものね。面倒な相手を押し付けられたって、前から言われてたし」
事実など、誰も確かめようとはしない。
それよりも耳にした話を面白おかしく語り、脚色し、次へと渡していく。
その噂が、やがて確信へと変わる頃。
新たな幕が、またひとつ上がろうとしていた。




