30.俺が王になれば、彼女を救えると……思ってしまった(ヘクター視点)
寝室の空気は、夜の帳のように重かった。
蝋燭の火は細く揺れ、薬草の匂いがわずかに鼻を掠める。
王の寝台の傍らに座ったヘクターは、沈黙の中で言葉を待っていた。
しばらくして、国王はかすかに目を細める。
「……ファーレスト公爵の手紙には驚かされたよ」
掠れた声。それでも、その言葉の一つひとつには、王としての威が宿っていた。
「長らく……男子を得ぬまま、この身は病に倒れた。ジュリアナは……国を継ぐ器とは言い難い。だが、そなたが生きていたとは……」
王はゆっくりと目を閉じ、過去をたどるように続ける。
「オリアナを産んだ侍女の腹は、異様なほどに大きかった。けれど産まれた娘は驚くほど小さく……。双子だったのだとすれば、すべて辻褄が合う」
ヘクターの胸がざわついた。
(また……その話か)
ライラが言った。
自分は王の子で、オリアナの双子の弟だと。
最初は信じられるはずもなかった。
だが後に、オリアナの口からも同じ言葉を聞かされた。
それでも、自分の中では『どこかの誰かの勘違いだ』と、そう思い込もうとしてきたのだ。
(……ずっと、どこかで否定したかった)
──王族の血? この国の未来? 笑わせるな。
自分はただ、神殿に拾われて育った孤児。
剣しか知らない。命じられたとおりに動いてきただけの、ただの騎士だったはずだ。
「……わしがその話を信じたのは、ただ書簡の内容によるものではない」
王の目が細められる。
「……実際に、そなたを見て、確信したのだ。オリアナによく似ている……。瓜二つ、と言ってもいいほどにな」
思わず、ヘクターの喉が鳴った。
認めたくない。
けれど、目の前の男が、自分を見て、そう断言する。
それはもう、逃げられない『現実』だった。
「……もし、そなたがそのまま育っておったら、きっと……王位を継ぐにふさわしい男となっていたことだろう。わしが、ずっと……待ち望んでいた、男子だった」
声がかすれているのに、その言葉は、妙に重く響いた。
ヘクターはただ、沈黙する。
受け止めるには、重すぎた。
(俺が……王の子……? 冗談じゃない……でも……)
ライラ、オリアナ、そして今──この王が、自分をそう呼んだ。
『間違いかもしれない』と信じていた希望が、音を立てて崩れ落ちていく。
用意された客間に戻っても、ヘクターの思考は波のように荒れていた。
蝋燭の灯りが壁に揺れ、影がゆっくりと伸びていく。
その揺らぎの中で、彼の心もまた定まらずにいた。
(俺が……王の子? まさか……)
繰り返せば繰り返すほど、心の奥で否定の声が響いた。
だが、それを上書きするように、あの男──国王の瞳が思い返される。
静かで、衰えながらも確かに『王』としての強さを湛えたあの眼差しが。
オリアナと同じだと、そう言われて。
ヘクターは、何も言い返せなかった。
ライラがそう言ったときも、信じられなかった。
オリアナが告げたときも、半ば無理やりに『信じろ』と迫られているように思えてならなかった。
(……でも、今度は違う)
王の口から、まっすぐに語られた真実。
それは、これまで自分が『ただの騎士』として見て見ぬふりをしてきたものを、無理やり引きずり出して突きつけてくる。
(俺が、本当にあの人の弟?)
オリアナの静かな笑みが脳裏をよぎる。
はじめて会ったとき、妙に懐かしく感じたのは、きっと……。
だが、血のつながりがあったとして、それがどうした。
自分には、何ができる。
(俺は、ただの剣士だ。剣の握り方を教わったことはあっても、政治も教養も──何ひとつ、王たる資格なんて……)
思わず立ち上がり、机に手をつく。
蝋燭の火が揺れて、影がまた長く伸びた。
(……それでも)
心の奥に、小さな何かが灯り始めていた。
馬車の中で見た、民の顔。
王都へ向かう道すがら、耳にした声。
「税が払えない」「逃げたい」「ファーレスト領の方がマシだ」と語る人々。
王妃の冷たい瞳、王女の侮蔑、そして──その背に立っていた、あの女の、偽りの笑顔。
(ライラ……)
民の苦しみを思い、怒りを覚えながらも、何もできなかった自分。
だが今──『できるかもしれない』と言われたのだ。
選ばれるのではなく、自ら選ぶことができる場所に、足を踏み入れたのだ。
(……俺に、何ができる)
問う声が胸の奥に響く。
そして、静かに、応える声があった。
(何もできないかもしれない。けれど──見て見ぬふりをして、背を向けることだけは、したくない)
翌日、再び案内されたのは、昨日とは違う部屋だった。
小さな応接室。
調度は豪奢だが、窓には分厚い緞帳がかかり、外界を閉ざしている。
空気は静かで、張り詰めたような気配すらあった。
「待たせたわね、ヘクター」
その声に振り向けば、そこにいたのは──ライラだった。
王妃の側にいたときと同じ、白い衣。
神殿の装束に似ているが、どこか異なる重々しさがある。
だが何よりも異様なのは、その笑顔だった。
「あなたと、こうして二人きりで話せる時間がもらえて嬉しいわ」
あの鉱山で何があったか、まるで忘れてしまったかのような無邪気な声。
むしろ、以前よりさらに柔らかく、甘く──けれど、どこかひどく不自然に響いた。
「……お前、何を考えてるんだ」
ヘクターの声は、気づけば低くなっていた。
鉱山でオリアナを死地へ誘ったことも、それを自分に手伝わせたことも、全て帳消しにするつもりなのか。
だがライラは悪びれた様子ひとつ見せず、ただ首を傾げた。
「何って……あなたが王になるって、信じてるだけよ」
「……俺が?」
「そう。あなたがこの国の未来を変えるの。私にはわかるのよ。未来が見えるって、そういうこと」
さらりとした声色。
けれど、その目には、どこか熱に浮かされたような狂気が宿っていた。
ヘクターは無言のまま視線を落とす。
かつては、もっと真っすぐだった。
人の言葉に耳を傾け、善悪の判断に迷いながらも、自分の信じた道を選ぶ子だったはずだ。
それが今は、自分の言葉しか信じていない。
「ライラ……あのとき、お前は公爵夫人を──」
「助けようとしたのよ。彼女は死ぬ運命だった。だったら、せめて苦しまないように……」
その言い訳に、胸がざらりとした感情で満たされる。
あのとき言っていたことと、全然違うではないか。
「俺を巻き込んでおいて、それを正当化するのか」
「違うわ、ヘクター」
ライラは歩み寄り、そっと手を伸ばしてくる。
「あなたがいたから、あのとき無事に終わったの。私だけじゃ、どうにもできなかった」
その手を、ヘクターは振り払えなかった。
かつてのライラを、完全に捨てきれなかった。
彼女の言葉は、どこまでも歪んでいる。
だが、それが全部『嘘』だとも思えなかった。
「……俺が王になったら、お前は何を望む?」
唐突な問いに、ライラは微笑んだ。
「私はただ……あなたがちゃんと生きていてくれたら、それだけでいい」
その言葉に、息を呑む。
その笑顔が、ほんの一瞬──『昔のライラ』と重なって見えた気がした。
部屋を出てからも、ヘクターの耳にはライラの声が残っていた。
『あなたが王になるの。きっとそうなる』
『私はあなたの味方よ。ずっと』
その言葉のひとつひとつが、まるで魔術のように胸の奥に絡みついて離れない。
(味方……か)
あの女は、自分を信じている。
疑いも、迷いもなく。
あれほど歪んだことをしておきながら、まるで自分たちは今も、子どもの頃のままだとでも言うように。
──あれが、今のライラ。
だけど。
──昔のライラも、確かにいた。
その両方を否定することができなかった。
どちらも、嘘であってほしくなかった。
だからこそ、もしかしたら、変えられるのではないかと思ってしまう。
あの歪んだ笑顔の奥に、かつてのあの子を取り戻すことが──。
もし、自分が王になれば、それができるのではないかと。
(……馬鹿な話だ)
思わず、口の中で呟いた。
それでも、心はもう、完全には否定できなかった。
民が苦しみ、王が伏し、王妃が権勢を握り。
そして、何も知らずに剣だけ振るっていた自分に──今、問いが与えられている。
この国を、変えるか。
運命に、抗うか。
それとも、何もせずに目を逸らすか。
(……俺は)
立ち止まった廊下の窓から、わずかに生ぬるい風が吹き込んでくる。
(何もわからない。けれど)
それでも──変えたいと、思ってしまった。




