23.明日、私は『死地』へ向かう──それでも彼は、『必ず迎えに行く』と言った
夜の公爵邸には、穏やかな灯りが点り、かすかな雨の匂いが風に混じっていた。
春の終わりを告げるような静けさの中、オリアナは執務室の扉をそっと叩いた。
中から、控えめな返事が返る。
扉を開けると、書類の束に囲まれたサディアスが机に向かっていた。
部屋の隅で揺れるランプの光が、彼の輪郭を柔らかく照らしている。
「遅くにすみません。……少し、お話ししても?」
「もちろんです」
サディアスは椅子を引き、彼女に座るよう促す。
オリアナは一瞬迷いながらも、深く息をついて椅子に腰を下ろした。
胸の内は波打っていた。
「いよいよ、明日ですね。神殿からの依頼で、公爵夫人として鉱山の加護を祈る儀式に参加することになっていますが……おそらく、ライラが用意した筋書きです」
オリアナがそう言うと、サディアスはわずかに眉を寄せた。
「ええ。書状は確認しました。神殿が発行した正式な依頼状ですから、形式的には何の問題もありません。それも地母祭という、女性のみが参加を許される儀式……。大地の精霊に豊穣と安寧を祈る古い慣習で、神殿でも神聖視されている行事。今回のように急に執り行われるのは異例ですが……」
そこで、サディアスは手元の文書に目を落とした。
「……騎士団からの報告が来ました」
彼は書簡の一枚を指で押さえながら、続ける。
「ここ数日、鉱山周辺で魔物の目撃報告がちらほら増えています。まだ小規模ですが、定期的な出現とは傾向が異なるとのこと。神殿は、それに対処するために儀式を急遽再開させた……という建前になっているようです」
「建前、ですね」
オリアナは静かに呟く。
「ええ。この流れ──急な儀式の復活、神殿からの正式依頼、女性限定の地母祭……。どう考えても、あなたを単独で鉱山に向かわせるための段取りです。すべてが出来すぎている」
「でも、儀式そのものには形式的な正当性があります。断れば、王都から余計な疑念を招くでしょうし……地母祭の性質上、あなたが同行することもできません」
「それが悔しいところです。私が一緒に行ければ、すぐにでも対処できるのに……」
サディアスは苦く口元を歪めた。
「……やはり、行くのはやめた方がいいのではないでしょうか」
サディアスの言葉は、穏やかだったが、決意のようなものを含んでいた。
オリアナは、はっと顔を上げた。
「サディアス……?」
「もしあなたの推測が正しければ、これは明らかな罠です。ライラをここで拘束して、全てを明らかにさせた方が安全です」
まっすぐな言葉に、オリアナの胸が揺れる。
その提案は、あまりにも理にかなっていた。
けれど──
「私も、そうできればと思いました。でも……そうしてしまえば、もう彼女は何も語らなくなってしまう。逃げて、姿を消してしまうような気がするんです」
「……それでも、あなたを守れるなら──」
「守るだけでは、足りません」
きっぱりと、オリアナは言った。
「……私には、彼女がなぜ『私の死』を必要とするのか、確かめる必要があるんです」
サディアスの眉がわずかに動く。
「星輝石が目的なら、盗めば済むはず。でも、彼女はわざわざ、私を殺そうとしています。それも、魔物に殺させる形で」
オリアナは、そっと言った。自分の中で熟していた思考を、静かに口に出す。
「……彼女は私よりも、『物語』を深く知っています。だから、私が知らない何か──『死んだ私』にしか意味がない何かがあるはずなんです」
「……」
「それを突き止めたい。そうでなければ、また誰かが……次は、私ではなく、別の誰かが狙われるかもしれない」
サディアスは黙って彼女の言葉を聞いていたが、やがて、椅子から立ち上がり、彼女の前に立った。
「……それでも、危険には変わりない。私は、あなたを失いたくない」
その低い声に、オリアナはふっと微笑んだ。
「失いませんわ。だって、あなたがいるでしょう?」
彼の瞳に、わずかに驚きの色が浮かぶ。
「あなたは言いました。剣も魔術も、誰にも負けないと。……だから私は信じています。あなたが、必ず私を守ってくれると」
オリアナがそっと手を差し出すと、サディアスは少し戸惑いながらも、その手を取った。
「剣も魔術も、すべてはあなたのためにあります。……あなたを守ることだけは、誰にも譲れません」
その声に、オリアナは胸の奥から熱いものが込み上げるのを感じた。
何が起きても大丈夫だと思える、揺るぎない力。
それが、確かに傍にある。
「……出発の当日、私は神殿からの依頼通り、公的には儀式への同行という形をとります。あなたは……?」
「もちろん、万が一の備えは怠りません。現地で何かあれば、必ず駆けつけます」
その言葉に、オリアナは静かに頷いた。
──そして、明日。鉱山へ向かう。
彼女の真意を暴き、運命を、自らの手で塗り替えるために。
翌朝、薄曇りの空の下、公爵邸の前庭には、神殿の使者を迎える準備が静かに整えられていた。
神官を先頭に、侍女や随行の者たちが控え、馬車の前には王都直属の騎士団の姿も見える。
その中には、ヘクターの姿もあった。
オリアナは静かに足を運びながら、胸の奥に小さな緊張を抱えていた。
儀式の名は『地母祭』。大地の神に豊穣と安寧を祈る神聖なもの。
本来であれば、ただの形式にすぎない儀式だ。
けれど、今回は違う。ライラの手配が加わったことで、それは罠の入口へと変わっていた。
「準備は整いました、奥さま」
控えていた神官が深く頭を下げる。
オリアナは微笑を返し、静かに頷いた。
儀式の参加者は女性に限られ、公的な名目のもと、公爵夫人が自ら赴くという形を取っている。
そのとき、足音が近づき、彼女は振り返る。
サディアスが、ゆっくりと階段を下りてくるところだった。
「……やはり、私が行くべきではないでしょうか」
低く問いかけられた声には、押さえきれない不安と焦燥がにじんでいた。
それでも、彼はそれ以上を言わない。
オリアナの決意を、昨夜、すでに受け取っていたから。
彼の前に歩み寄りながら、オリアナは静かに首を横に振る。
「ありがとうございます。でも……これは、私でなければ、意味がないのです」
自分が行く必要がある。自分だからこそ、意味がある。
その想いが、言葉の奥に込められていた。
「……必ず迎えに行きます。どこであろうと、何があろうと」
その声に、オリアナの胸が熱くなる。
不安も、恐れも、吹き飛ぶわけではない。
けれど、それを上回る力が、確かに彼の言葉にはあった。
「信じていますわ。……あなたが、必ず守ってくれると」
サディアスが、そっと彼女の手を取る。
無言のまま重なる指先の温もりに、オリアナはそっと目を伏せた。
「……それでは、行ってまいります。サディアス」
「……気をつけて。オリアナ」
名を呼ばれた瞬間、胸の奥に静かな決意が広がる。
それは恐れではなく、誓いに似たものだった。
オリアナは馬車に乗り込み、扉が閉まる音の中、彼を見つめ続けた。
どれほどの沈黙が流れても、視線は決して揺れなかった。
──これでいい。彼と交わした約束が、何よりの盾になる。
御者の掛け声とともに、馬車がゆっくりと動き出す。
石畳の上を進むその音が、やがて遠ざかっていく。
オリアナは静かに息を吸い、窓越しに空を仰いだ。
雲の向こうに、かすかに差す光。
それは、まだ見ぬ未来の兆しに見えた。




