22.すべてを語った夜、彼はただ『好きです』と、そばにいてくれた
夜の公爵邸は、静寂の中にあたたかな灯りを宿していた。
星明かりも届かぬ曇り空の下、庭の噴水からは微かな水音だけが響いている。
その静けさの中、オリアナは一人、テラスの手すりにそっと手を添えていた。
風は春の名残を残しながらも、どこか冷たく、肌をなぞるたびに迷いをかき立てる。
サディアスに、打ち明けるべきか。
それとも、やはり黙っておくべきか。
けれど、もう決めたはずだった。
あの笑顔に、あの手の温もりに、あの言葉に、救われた夜──あの人なら、きっと受け止めてくれると、そう思ったはずだった。
「……オリアナ、こんなところにいたのですか」
声に振り返ると、そこにはサディアスが立っていた。
部屋着の上に軽く外套を羽織ったその姿に、オリアナの心はわずかに和らぐ。
「ごめんなさい、眠れなくて……少しだけ、外の空気を」
「いいえ、構いません。私も、少しあなたと話がしたいと思っていました」
彼の言葉に、オリアナは瞳を見開いた。
「話……?」
「ええ。……昼間の来客について、です」
サディアスの目は鋭さを帯びていたが、それは問い詰めるものではなかった。ただ、静かに、真実を待つ瞳だ。
オリアナは口元を引き結び、小さく頷いた。
「……サディアス。私……お話ししなければいけないことがあります」
オリアナの声は、震えていた。
けれど、その瞳には迷いはなかった。
「少し、長くなります。……変なことを言うと思われるかもしれません。でも、どうか……」
「あなたの言葉なら、私は最後まで聞きます」
そう言って、サディアスは彼女の隣に立ち、並んで夜の庭を見下ろした。
そして、オリアナは語り始めた。
自分が見た未来のこと。
『物語』という書物のような記憶のこと。
その中で、自分がサディアスに殺されることになっていたこと。
それを変えたくて、この世界であがいていること──。
風の音がすべてを包む中、オリアナの声だけが、静かに、途切れることなく続いていった。
オリアナの手はかすかに震え、何度も言葉を探しながら、それでも正確に、すべてを伝えようとしていた。
そして語り終えたとき、オリアナは俯き、声を絞り出すように問うた。
「……信じられませんよね。私も、自分で何を言っているのかわからないときがあるんです。それでも、どうしても──あなたにだけは、伝えたくて……」
沈黙が降りた。
風がカーテンを揺らし、テラスに置かれたランタンの火がふるふると震える。
オリアナは俯いたまま、口をつぐんでいた。自身の言葉が信じてもらえるものではないと、どこかで覚悟していた。それでも打ち明けたのは、信じたいという一心だった。
そんなオリアナの前で、サディアスはひとつ、深く息を吸い込んだ。
そして、ゆっくりと口を開く。
「……初めて会ったとき、私はあなたを怖がらせてしまったかもしれません」
その言葉に、オリアナはわずかに肩を震わせた。
サディアスは、彼女の反応を受け止めるように、優しく続けた。
「あなたのことが知りたかったのに、どう話しかけていいかわからなかった。想いを伝えたいのに、うまく言葉にできなかった。……それがずっと、悔しくて」
彼は、自嘲するように微笑んだ。
けれど、その笑みはどこまでも静かで、あたたかかった。
「あなたが怯えた目で私を見るたび、何度も諦めようとしました。私なんかが傍にいていいはずがないと……でも、それでも、あなたを想う気持ちは消えなかった」
オリアナが、ゆっくりと顔を上げる。
その瞳には、信じたくても信じきれない、不安の揺らめきがあった。
「それでも……私の話を聞いて、あなたは変わってしまうかもしれないのに」
「変わりません」
サディアスは、きっぱりと断言した。
そして、少しためらいがちにオリアナの手を取る。
「私は……あなたのことが好きです。初めてあなたに出会ったあの日から、ずっとずっと、あなたのことばかりを考えてきました」
その手は、かすかに震えていた。
けれど、決して離れることはなかった。
「あなたが何を知っていても、どんな過去を見ていても関係ありません。私にとってのあなたは、今ここにいる、あなたです」
真っ直ぐな視線が、オリアナの瞳を捉える。
「運命に抗いたい。あなたが恐れている未来から、あなたを守りたい。私は、あなたとともに生きていきたいのです。これから先、何が待ち受けていようと、あなたのそばにいたい」
心の底から絞り出すような声だった。
飾り気も、打算もない。
それはサディアスという男が持つ、すべての感情が込められた、真実そのものだった。
「だから、どうか……私を信じてください。あなたがどんな未来を語っても、私はあなたの手を離さない」
その言葉に、オリアナは息をのんだ。
頬を伝ったのは、こぼれるまいと我慢していた涙だった。
オリアナは、そっと自分の手を、彼の手に重ねた。
冷たい指先が、サディアスの手のひらで温められていく。
「……私も……信じたいです。あなたとなら、きっと……未来を変えられるって、そう思えるから……」
ふたりは、ただそっと見つめ合った。
夜の空には雲が切れ、月の光が静かに差し込んでいた。
やがて、オリアナは涙をぬぐうと、表情を引き締めて口を開く。
「サディアス……お話があります。ライラのことです」
「ええ。私も、気になっていたところでした」
オリアナは、今日の出来事──ライラとの面会とその内容を、順を追って語った。
サディアスは一言も遮らず、黙って彼女の言葉に耳を傾けた。
鉱山の抜け道。神殿への逃亡。星輝石への執着。そして、どこかおかしいと感じたあの不自然な笑顔。
オリアナはすべてを語り終えたあと、そっと彼を見つめる。
「……ライラは、私を殺そうとしているのだと思います。……魔物に襲わせて」
その言葉に、サディアスの目が細くなった。
怒りではない。冷静に状況を受け止め、判断を下すときの目だった。
「では、私が後を追いましょう。あなたに気づかれない距離を保って鉱山へ向かいます」
「でも、それは──危険です。もしも、何かあれば……」
オリアナの言葉を、サディアスは軽くかぶせた。
「私は強いですよ、オリアナ。剣も、魔術も、誰にも負けない。……これだけは、自信があります」
淡々とした声だったが、そこには確かな誇りが宿っていた。
サディアスが、自分を卑下することなく、まっすぐに『自信がある』と言い切ったのは、オリアナが知る限り初めてだ。
驚いて彼を見つめると、彼はほんの少しだけ目を伏せ、照れくさそうに口元を緩めた。
「ずっと、自分にできることを探してきました。何も持たない私でも、せめて力だけは、と。あなたを守るための力です。だから、安心してください」
静かに語ると、サディアスはまっすぐにオリアナを見つめる。
「……あなたを守ることに関してだけは、誰よりも自信があります」
心が、じんと熱くなる。
この人なら、大丈夫だ。そう思わせる、揺るがぬ言葉だった。
「……わかりました。私、ライラに気づかれないように、自然に従います。騎士として、ヘクターも同行すると思います」
「彼は……味方になる可能性もある。だが、ライラに操られているなら……判断が必要ですね」
「ヘクターは、きっとどこかで気づいています。ただ、まだ迷っているだけだと思います」
オリアナの声は柔らかかった。
その優しさを、サディアスはまっすぐに受け止めるようにうなずく。
「……必ず、あなたを守ります」
「信じていますわ、サディアス」
ふたりの間に、再び静寂が流れる。
けれど、それはもう不安の沈黙ではない。
約束と、信頼と、未来を信じるための沈黙だった。




