21.信じた幼なじみが、すべてを狂わせる【ヘクター視点】
邸を後にしたあとも、ヘクターの足取りは重かった。ライラの隣を歩きながらも、胸の内はざわついたままだ。
──準備が整い次第、公爵夫人を逃がす。
それが今、ヘクターに課された役目だ。
だが、本当にそれでいいのか。
そもそも、公爵が夫人を毒殺しようとしているのか。いや、正確には王妃だというが──本当にそうなのか。
疑問が、胸の奥で膨れ上がっていく。
「ねえ、ヘクター。今日はうまくいったわね」
機嫌よく笑いながら、ライラが言った。
「……あれが本当の話なら、な」
重い声で答えると、ライラはくすりと笑った。
「本当よ。全部。王妃殿下が仕掛けるの。可哀そうでしょう、公爵夫人。助けてあげたいと思わない?」
そう言って上目遣いに覗き込まれると、ヘクターはつい視線を逸らす。
「……まあ、助けられるものならな」
それが嘘か本当か、今の彼にはわからない。
ただ、あの美しい女性が死ぬ未来は、どこか間違っている気がしていた。
「でも、もし夫人が公爵に相談したら……?」
ふと、口をついて出た問いに、ライラはきっぱりと首を横に振った。
「あの弱気な夫人が? そんなこと、するわけないわ。あの人、公爵のことを恐れているのよ。絶対に言わない」
即答だった。その自信に、ヘクターは言い返すことができなかった。
あのとき、ちらりと見かけた二人の姿──公爵が、そっと夫人に手を差し伸べていた光景を思い出す。
(……少なくとも、無理やり従わせているようには見えなかった)
けれど、それを言えばライラは激しく否定するだろう。
何より今の彼女には、何を言っても無駄な気がした。
通りを行き交う人々の顔を、ふと見やる。
どの顔にも、かつての活気はなかった。
王の体調不良が続くようになってから、国の雰囲気が変わった。
今では実権を握った王妃のもと、税はじわじわと引き上げられ、物価も上がっている。
騎士団の中でも、小さな不満は日々積もっている。
『また税が上がった』と愚痴をこぼす兵士や、『治療費が払えず子が死んだ』と嘆く農夫の話も聞いた。
それでも、誰も何も言えない。言わせない空気が、国を覆っていた。
公爵夫人が王妃に狙われているのも、この空気に関係があるのだろうか。
「ライラ、星輝石というのは何なんだ?」
ヘクターが問うと、ライラは小馬鹿にしたように笑った。
「それは……あなたには関係のないものよ」
少しだけ語尾が強くなった。
「いいから、ヘクターは私の言う通りにしていればいいの」
「……」
釈然としない想いを抱きつつ、ヘクターはゆっくりと息を吐き出す。
ライラは変わってしまった。
昔は、もっと素朴で、どこか頼りないくらいだったのに。今では何でも知っているような顔で、人を導くふりをしている。
それだけではなかった。
ライラは神殿でも、異様なほどの速さで出世していった。
もともと地位も血筋もないはずの彼女が、次々と上の役職に就いたのは、特別な力があるから──それが表向きの理由だった。
だが、実際は違う。
ヘクターは見ていた。
同僚の神官を陰で貶め、些細な失敗を大げさに報告し、上層部に取り入ることで、周囲を追い落としていった姿を。
(誰よりも清廉だったはずなのに……)
その変化が恐ろしかった。
あの頃から、ライラは人の目を真っすぐに見なくなった気がする。
誰かと話していても、その眼差しは常に『別の何か』を見ているようだった。
あの笑顔も、今では仮面のように思える。
しばらく歩いたあと、ヘクターはぽつりと口を開いた。
「……ライラ。あの話、本当に信じてるのか?」
「信じてる、じゃないわ。知ってるの」
ライラはさらりと答えた。
「『未来を知っている』って、そういうことよ」
その言葉に、ヘクターはぎゅっと拳を握る。
ライラは変わってしまった。『物語』がどうとか、未来がこうなるとか。
言葉の意味は理解できても、そこにある彼女の考えは、まるで別のもののように感じられる。
かつてのライラは、人の言葉に耳を傾ける子だった。
なのに今は──自分の言葉しか信じていない。
それが、どうしようもなく怖かった。
(──まるで、誰かに入れ替わったかのようだ)
視線を落としながら、ふと、数年前のことを思い出す。
ライラが突然変わったのは、ちょうどヘクターが騎士になった頃だっただろうか。
(いや、それより少し前──)
あのとき、ライラは言った。
『あなたは王の子だ』と。
そして、自分には姉がいると。妾腹の王女──いずれ公爵夫人となるオリアナが、自分の姉なのだと。
そんなはずはないと、思った。けれど、あの女性を見たとき、確かにそう思ってしまったのだ。
(……似ていた。あの人は、俺と……)
髪の色も、骨格も、何より雰囲気がどこか似ていた。
ただの偶然かもしれない。けれど、それを完全に否定できるほど、ヘクターの過去は明確ではない。
──両親は幼い頃に亡くなり、神殿に預けられた。
それがヘクターの過去のすべてだった。
……そして今、ライラは言った。
十日後、オリアナを鉱山に連れて行く。
そのときは、護衛をお願いね、と。
「……わかった」
ヘクターは小さく頷いた。
けれどその胸の奥には、名前のつかない不安が、ひっそりと燻っていた。
もし、ライラの言っていることが間違っていたら……。
もし自分が手を貸したことで、公爵夫人が危険にさらされたとしたら──
自分は、ただ助けようとしたつもりで、結果的に『夫人をさらった悪党』になるのではないか。
(……公爵夫人は、本当にライラを信じたのか?)
応接室で見た彼女の表情は、穏やかだった。けれど、どこか──よくわからない静けさがあった。
あれは本当に納得していた顔だったのか。
怯えていたはずなのに、どこか見透かすような目をしていた。
あの静けさは、何かを守る人の、それだったような気がする。
……自分は、ライラを信じていいのだろうか。
昔の、素直で健気だった頃のライラを思い出そうとしても、今の彼女の中にはその面影がない。
笑ってはいる。だが、その笑みの奥に、なにか得体の知れない影が潜んでいる気がする。
自分は今、とても恐ろしい何か──抗えない『運命』のようなものに巻き込まれているのではないか。
そんな気がしてならなかった。
ライラは振り返り、笑った。
その笑顔は、昔と同じ形をしていたけれど、そこに宿っているものはまったく違って見えた。
(俺は──どうするべきなんだ……)
その問いだけが、ヘクターの心の中に静かに残っていた。




