18.平穏な朝に忍び寄る、『物語』の気配
しばらくぶりに公爵邸に戻り、ようやく落ち着いた朝を迎えたオリアナは、ゆるやかな陽光の中、庭園の小道をゆっくりと歩いていた。
隣には、静かに寄り添うサディアスの姿がある。
「この庭、以前より明るく感じますね」
ぽつりとそう言うと、サディアスは少し驚いたように眉を上げた。
「私も、同じことを思っていました。……けれど、それは庭が変わったのではなく、見ている私たちが変わったのかもしれません」
「……そう、かもしれませんわね」
オリアナはそっと微笑んだ。
手入れの行き届いた花壇、規則正しく並ぶ植栽。すべては、以前と同じはずなのに、今は確かに柔らかな温もりを感じる。
ふと、サディアスが立ち止まる。
「オリアナ」
「……なあに?」
彼は少しだけ目を伏せ、それからゆっくりと口を開いた。
「最初の頃、私は……あなたに嫌われているのだと思っていました。だから、必要以上に近づかないようにしていたのです」
「えっ……」
「無表情で、不愛想で、何を考えているのかわからない。そう思われていることにも、気づいていました。だから……怖がられて当然だと、そう思っていました」
「……本当に、そうだったんですね」
オリアナは思わず、息をこぼした。
「私も……私のほうこそ、てっきり嫌われていると思っていたんです。妾腹の王女で、王家から押しつけられた存在で。歓迎されているわけがないって……」
サディアスの目が、ゆっくりとこちらを見る。
「それでも、あなたは私に笑ってくれた。……だから、私も変わりたいと思ったんです」
静かな声が告げる。
オリアナの胸に温かいものが広がっていく。
「……今は、怖くないですもの」
オリアナの言葉に、サディアスが一瞬、息をのんだように見えた。
「……本当ですか?」
「ええ。最初は、確かに何を考えているかわからなくて……怖かったです。でも、今は違います。あなたが、優しい人だって、ちゃんとわかりますから」
それは本心だった。
けれど、同時に胸の奥に疼くものもある。
サディアスは、オリアナを殺す悪役公爵。その未来を知っているのは、今のところオリアナだけだった。
(……でも、あの未来とは、もう違ってきているのかもしれない)
ほんの少しでも、そんな希望を抱いていいのなら。
「最近は、笑顔の練習もしているんです」
唐突な言葉に、オリアナはぱちりと瞬いた。
「えっ?」
「……その、威圧感があると、よく言われていましたので……。できれば、あなたには、怖がられたくないと思って」
まじめな顔で言うその姿に、オリアナは吹き出しそうになるのをこらえた。
「そういえば、演習場で変な笑顔をしてましたよね……」
「……見られていましたか」
サディアスは少しだけ耳を赤らめ、うつむいた。
「でも……努力されてるんですね。ふふ……今の笑顔は、ちっとも怖くありませんよ」
そう言うと、サディアスはわずかに目を見開き、そして照れくさそうに頷いた。
柔らかな風が二人の間を通り過ぎていく。その温もりが、心をそっと撫でていくようだった。
しばらく歩いたのち、藤棚の近くに設えられたベンチに腰を下ろすと、サディアスも隣に座った。
春の香りを含んだ風が、淡い花の香りを運んでくる。
ふと、オリアナは遠くの空を見つめながら、小さく問いかけた。
「サディアス……もし、私が何か言いにくいことを抱えていたら……それでも、聞いてくださいますか?」
彼は驚いたように瞬きをしたが、すぐに頷いた。
「もちろんです。ですが、話したくないのなら、無理にとは申しません。……あなたの心が追いつくまで、私は待てますから」
その言葉に、胸の奥がふっと緩んだ気がした。けれど、だからこそ答えが出ない。
(『物語』のことなんて……言えるはずがない。けれど、この人なら、信じてくれる気もする……)
それでも、やはり現実味を欠く話をいきなり打ち明けるのは、あまりにも無謀だった。奇妙な妄言と捉えられるかもしれない。
不安と迷いが交差する中、オリアナがうまく言葉を繋げられずにいると──
「悩んでいるのは……王妃のこと、でしょうか?」
ふいに告げられた言葉に、オリアナは息をのんだ。
「え……」
「今の王都は、王妃が事実上、実権を握っている状態です。陛下がご体調を崩されてから、王家の動きもまた……変わりました。鉱山事業に王家が強引に割って入ってきたのも、それ以降のことです」
静かな口調だった。けれど、その裏にある慎重な警戒心が伝わってくる。
「……父上のことは、私、ほとんど何も知らないのです」
オリアナの声は小さかった。けれど、その胸のうちには、確かに過去への哀しさと、今を見つめようとする決意があった。
「王妃殿下と私は、血の繋がりがありません。だから……余計に、父には必要とされなかったのだと思います。記憶にある父は、いつも遠くにいて、私の目を見たことさえない気がします」
「……」
サディアスは何も言わなかった。ただ、傍にいて、聞いてくれた。
「でも……だからこそ、私は今、自分の居場所を見つけたいんです。誰かの駒ではなく、一人の人間として」
そう言った瞬間、ふいに強くなった風が、木々の葉をざわりと揺らした。
サディアスはそっと視線を上げ、そして口を開いた。
「それなら……私もその居場所に、なっても構いませんか」
「え……」
「あなたが自分を守りたいように、私もまた、あなたを守りたいと思っています。……それが、私にとっての幸福ですから」
言葉を失ったまま、オリアナは彼を見つめた。その眼差しはまっすぐで、揺らぎがなかった。
この人は、やはり『物語』の中で見たサディアスとは違う。運命は変えられる。いや、もうすでに変わり始めているのかもしれない。
けれど、そう思った瞬間だった。
控えめに、しかしはっきりと足音が近づき、二人の背後に声が届いた。
「奥さま、お邪魔いたします。神殿より、お客さまがいらしております」
振り返ると、使用人が一礼していた。
「神殿から……?」
オリアナが問い返すと、使用人はうなずいて続けた。
「はい。神官ライラさまが奥さまに面会を望んでおられます。同行しているのは、王国騎士団第三隊所属の騎士、ヘクターさまとのことです」
その名を聞いた瞬間、オリアナの背筋に、ひやりとした冷気が走った。
(ライラと、ヘクター……)
まさかこの二人が揃って現れるなんて、予想していなかった。
だが、神官であるライラの身元を、王国騎士団の正式な騎士が保証しているのであれば、邸に入れること自体に問題はない。
けれど、それはつまり──
(……『物語』が、動き出す)
心の奥で、何かがそっと告げる。
この平穏は、ほんの短い束の間のものだったのかもしれない。けれど、それでも──
「……わかりました。すぐに伺います」
そう告げたオリアナの声には、かすかに迷いがあった。けれど、その表情は凛としていた。
隣にいるサディアスの手が、そっとオリアナの手に触れる。
「私も参りましょうか?」
その言葉に、一瞬だけ、心が揺れる。
(でも……ライラが話したいのは、きっと私とだけ)
オリアナは小さく首を振った。
「大丈夫です。おそらく、私に個人的な用事があるのだと思います」
サディアスは何も言わず、ただ、ゆっくりとうなずいた。
その静かな眼差しに背中を押されながら、オリアナは小さく息を整え、神殿からの来訪者のもとへと向かう。
胸の奥では、また新たな波が静かに膨らみ始めていた。




