17.その手のぬくもりを、守ると決めた
公爵邸の石造りの屋根が見えてきたとき、オリアナは胸の奥にじんわりと安堵を感じた。
前に王都からやって来たときは、嫁ぐことへの不安と緊張に押し潰されそうになっていた。
しかし、今は違う。
(帰ってきた……)
オリアナは、胸に温かさが灯るのを感じる。
もうすでに長年暮らしていた王都ではなく、公爵邸がオリアナの帰る場所になっていた。
馬車がゆっくりと門をくぐり、石畳の道を進んでいくと、使用人たちがずらりと玄関前に整列していた。
やがて馬車が停まり、扉が開く。
先に降りたサディアスが、静かに手を差し伸べてくる。
「オリアナ、手を」
その声音はいつも通りの落ち着いたものだったが、差し出された手には迷いがなかった。
一瞬、鼓動が跳ねる。
「……ええ、ありがとう。サディアス」
オリアナは、ほんの一拍置いてから、そっとその手に自分の手を重ねた。
サディアスの手に引かれ、馬車から降り立つ。
その様子を、使用人たちが静かに、けれど興味深げに見守っていた。
(……見られてるわね)
ほんの少しだけ視線を感じながらも、オリアナは穏やかに微笑んだ。
「おかえりなさいませ、旦那さま、奥さま」
執事ウォルターが一歩前に出て、礼を取る。
「……ただいま」
サディアスの返事は短く、それでもいつもより少しだけ柔らかかった。
その瞬間、整列していた使用人たちの中に、小さなざわめきが生まれた。
「……あの旦那さまが、あんなに自然にお名前を……?」
「手、取ってましたよね……?」
「何か……変わりました?」
ひそひそと交わされる声に、オリアナは頬がほんのり熱くなるのを感じた。
けれど、そっと自分の手を包む大きな手のぬくもりが、それ以上に胸を温めていた。
✧・━・✧
昼を少し回った頃、公爵邸はようやく静けさを取り戻していた。
荷を解き、執務もまだ始まらぬ一瞬の隙間。サディアスは書斎の椅子に腰を下ろし、温かな紅茶に口をつけていた。
目の前には、当然のようにウォルターとジェーンの姿がある。しばし沈黙が流れたのち、やはり最初に口を開いたのはウォルターだった。
「おかえりなさいませ。……それにしても、ずいぶんと変わられましたね、旦那さま」
「……そう見えますか」
「今朝も奥さまと、自然に名前で呼び合っておられましたし。あのご様子を見て、使用人たちもようやく安堵しておりますよ。やっと、ご夫婦らしくなられたと」
サディアスは黙って紅茶を置いた。
たしかに、名前を呼び合うようになっただけで、ずいぶんと心が近づいた気がしていた。あの手のぬくもりも、笑顔も、すべてが宝物のように思える。
「……ところで」
ジェーンが口を開いた。やけに神妙な面持ちである。
「その調子ですと……遠からず、お世継ぎのほうも?」
「ぶっ……」
サディアスは思わず、口に含んだ紅茶を噴きそうになった。
「ま、まだ……まだ手を握るところまで、です……」
「……は?」
ジェーンが素で間抜けな声を出し、ウォルターも一瞬目を丸くする。
「まさか、あそこまで親密に見えて、手を……?」
「……はい」
サディアスは正直にうなずいた。
「今は、それだけでも、十分に幸福です」
表情こそ変えないが、少しだけ頬が紅く染まる。
その様子に、ウォルターが深いため息をついた。
「いえ……最初のご様子を思えば、大変な進歩と言えましょう。ええ、そうですとも……これからゆっくりと、絆を深めていけばいいのです」
ウォルターは自分に言い聞かせるようにそう呟いた。
しかし、ジェーンがすぐにまた口を挟む。
「ですが、あまりのんびりしていると、どこかの騎士にでも奥さまを攫われてしまうかもしれませんよ?」
「……騎士……」
その言葉に、サディアスの脳裏に一人の顔が浮かんだ。
王家が鉱山防衛のために騎士団を送り込んできたとき、公爵邸で行われた歓迎の場で──庭に出たオリアナに、あの若い騎士が話しかけていた場面があった。
自分が割って入ると、騎士は『公爵夫人が一人でいらしたので、護衛のつもりでした』と言い残して去っていった。
そのときは、それで終わったことだ。けれど今になって、あのとき感じた、微かに馴染みのある違和感が再び胸に残る。
(あの者……名は、たしか……ヘクター)
オリアナに、どこかよく似ていた。
だが瞳の色は違い、佇まいもまた、まるで別の存在を纏っていたような──不自然な印象があった。
(それでも、もしオリアナを狙っているのだとしたら……)
指先に、ほんのわずかに力が入る。
「……旦那さま?」
ジェーンの声に、サディアスは紅茶に口をつけ直した。温度の下がったその液体が、やけに味気なく感じられる。
「失礼しました。少し、気になることを思い出しまして」
それだけを言って視線を落とす。
名を呼び合うようになったとはいえ、まだ始まったばかりなのだ。この絆は、確かなものにしなければならない。どんな妨げがあったとしても。
──オリアナは、今ごろ何をしているだろうか。
ふと、そんなことを思っている自分に気づいて、サディアスはわずかに目を伏せた。
かつてなら考えもしなかった日常の一場面が、今は頭の中を自然によぎる。
それは、心に静かに灯るあたたかい光のようだった。
彼女の笑顔を守りたい。
言葉にするにはまだ早い。けれど、少なくとも──そのために、もう誰にも邪魔はさせないと、そう思えた。




